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斎藤道三は2人いた! 油売りから美濃守護代重臣になった父・松波庄五郎とは

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で本木雅弘さんが好演している梟雄(きょうゆう)斎藤道三。先日は同じくNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、本木さんが悩みながらも役に取り組んでいる側面が描かれ、話題を呼びました。

さて、この斎藤道三、従来は一介の油売りから下剋上(げこくじょう)の末に美濃(現、岐阜県)国主にまで成り上がったと語られてきましたが、実はそれは一人でやったことではなく、父親と道三の二代で成し遂げたことがわかってきています。では道三の父とはどんな人物なのか。本日はそれについてまとめた記事を紹介します。

歴史は常に書き換えられている

学校の授業で日本史や世界史を学んだ方は多いでしょう。私たちは教科書に書かれていることは絶対であり、過去の歴史は変わらないものと思いがちです。ところが実際には、歴史は次々に書き換えられています。

たとえば2019年に世界遺産に登録された大阪府堺市の「百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群」の中心となるのが、日本最大の古墳「大仙(だいせん、大山)古墳」です。しかしかつて教科書には、この古墳は「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」と記載されていました。宮内庁は今も仁徳天皇陵として管理をしていますが、考古学の研究成果はこの古墳を仁徳天皇陵とすることに否定的で、教科書の記述も大仙古墳に変更されたのです。

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また戦国時代の例に、戦国大名のさきがけとされる北条早雲(ほうじょうそううん)がいます。従来、早雲は伊勢新九郎(いせしんくろう)と名乗る素浪人で、駿河(現、静岡県)の今川家の内紛につけこんで、人生後半から大名にのしあがった野心的な人物と語られてきました。ところが近年の研究で、早雲は備中(びっちゅう、現、岡山県西部)出身で室町幕府の重臣であり、今川家に介入したのも幕府の命令によること。年齢も従来説よりも20歳ほど若いことが明らかになりました。北条早雲という名も後世の呼称であり、本人は伊勢宗瑞(そうずい)と名乗っていたこともわかっています。

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このように研究の進展や新史料の発見などにより、それまで常識としてとらえられていたものが覆ることは、歴史の世界では珍しくありません。歴史は常に書き換えられているといっても、過言ではないのです。

どこまでが父親、どこからが道三の業績なのか?

斎藤道三の場合も、新史料の発見がきっかけでした。『岐阜県史』編纂の過程で、「六角承禎条書(ろっかくじょうていじょうしょ)」という史料が注目され、そこには従来、斎藤道三という人物一人で行ったと考えられてきたことが、道三の父と道三の二代で行ってきたことであると明記されていたのです。では、どこまでが父親で、どこからが道三の業績になるのか。また、父親はどんな人物だったのか。それらについては和樂webの記事「斎藤道三は二人いた! 親子で成した新説『国盗り物語』」をぜひご一読ください。

同時代史料が少ない戦国期の美濃

さて、記事はいかがでしたでしょうか。
『岐阜県史』編纂は1960年代のことですので、決して新しい情報とはいえません。しかし、それが最近になって、ようやく斎藤道三の業績が父子二代のものと認識されてきたのは、たび重なる戦火によって現存する戦国期の美濃の同時代史料が少なく、研究が思うように進まずに、定着に時間を要したという事情もあるようです。

その中で次にあげる書籍は、労作といえるかもしれません。決して読みやすい文章ではなく、また時系列も前後するため、一読ですっきりわかるというわけにはいきませんが、郷土史家の方が熱意をもって史料を追い、まとめています。根気よく読んでいくと、次第に全体像が見えてくるように感じました。関心のある方はどうぞ。

なお、道三本人の実像についての記事は、明日ご紹介する予定です。繰り返しになりますが、戦国期の美濃の同時代史料は少なく、人物の名前や立場、業績についても情報が錯綜している部分が少なくありません。だからこそ研究の進展で、今後大きく歴史が書き換えられる可能性もあり、私もできる限り意識していければと思っています。

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