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龍虎相打つ第四次川中島! 越後の龍、上杉謙信は何のために戦い続けたのか

ここ3回ほど、うえすぎけんしんと将軍あしかがよしてるにまつわる記事を紹介してきました。今回はその最終回として、第四次川中島合戦と、それからの謙信の後半生についてまとめた記事を紹介します。


領土欲のない謙信に、なぜ家臣たちは従ったのか

以前の記事でも紹介しましたが、上杉謙信は自らの欲得では戦わず、助けを求めてきた者に正当な理があれば、あるいは乱れた秩序を回復するためであれば、損得抜きで力を貸しました。北信濃しなの(現、長野県)の川中島をめぐるたけしんげんとの戦いにしても、事の始まりは信玄によって領土を奪われた信濃のむらかみよしきよらの救援要請でした。また関東平定に乗り出したのは、ほうじょううじやすに追われたかんとうかんれいうえすぎのりまさの、秩序回復要請に応えたものです。

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上杉謙信の毘の旗

確かに筋は通っており、立派な人助けではありますが、それでは謙信は何の見返りも得られません。仮に謙信はそれでよくても、謙信の命令に従って命をかける家臣たちは納得できたのでしょうか。この点については、私も長らく疑問に思っていました(もちろん全く領土が広がらないわけではなく、勢力圏拡大に伴って得た土地を、家臣の恩賞にすることもあったでしょう)。

これについては謙信が軍事だけでなく、内政にも優れた手腕を発揮し、大きな財源を確保していた影響が大きかったことがわかってきています。詳しくは記事をお読みいただけましたら幸いです。

歴史的な名勝負といわれる川中島合戦には謎が多い

上杉謙信と武田信玄の第四次川中島合戦は、名将同士が知恵の限りを尽くした駆け引きを行い、ついには大将同士の一騎打ちのクライマックスを迎えることで有名です。特に謙信をさいじょさんから追い落とすための武田の啄木鳥きつつき戦法と、それを見破り、先にはちまんばらに進出して、信玄本隊に襲いかかる謙信の戦法は、圧巻のひと言です。

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川中島古戦場に建つ両雄の像

しかし、これらいわゆる通説の川中島合戦には、謎や疑問点も多いと指摘されます。そもそも12,000もの武田の別働隊が暗夜、上杉軍に気づかれずに迂回しながら妻女山を襲うことなど、現実問題として可能だったのか。信玄の本隊が8,000に対し、別働隊の方が12,000と人数が多いのも不自然ではないのか。上杉軍は妻女山に長期間布陣することはできたのか。有名な合戦であるにもかかわらず、疑問点が多いのは興味深いところでしょう。

それからの謙信

川中島合戦のインパクトが強いせいか、小説やドラマなどで描かれる謙信も、その場面で終わってしまう場合が少なくありません。しかし第四次川中島合戦時、謙信はまだ32歳。49歳で没するまで、戦いの日々はさらに17年間も続くのです。その間にはのぶながによる将軍あしかがよしあきようりつと両者の決裂、謙信と北条氏康の同盟武田信玄の西上作戦など、さまざまな出来事がありました。詳しくは、謙信がどんな後半生を送ったのかについてまとめた和樂webの記事「上杉謙信はまさに戦国最強だった! 『毘沙門天の化身』が駆けた数々の戦場とは【武将ミステリー】」をお読みください。

さて、記事はいかがだったでしょうか。乱世において、謙信はぶれずに自分が信じた理想を目指して戦い続けていたように私は感じます。

最後に、謙信の居城・春日かすがやまの壁に書かれていたという「壁書」の言葉を紹介します。謙信の言葉であるという裏づけはありませんが、戦いにのぞむ謙信の考え方、あるいは生き方そのものを表わしているのではないでしょうか。

運は天にあり
よろいは胸にあり
手柄は足にあり
なんどきも敵をたなごころにして合戦すべし
きずつくことなし
死なんと戦えば生き
生きんと戦えば必ず死するものなり
家を出ずるより
帰らじと思えばまた帰る
帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり
じょうとのみ思うにたがわずといえば
武士たる道は不定と思うべからず
必ずいちじょうと思うべし

末尾の部分は、「武士たる者の道は、運のみで決まるものではない。運任せにせず、必ずこの道しかないと信じ、自ら決めよ」といった意味であると私は解釈しています。

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