〈再考〉天海は明智光秀だったのか
2023年の大河ドラマ「どうする家康」の最終回。
この回にして初登場の南光坊天海役を、前年の大河「鎌倉殿の13人」で主役を務めた小栗旬さんが演じ、特殊メイクも含めて話題を呼びました。ネット上では2020年の大河「麒麟がくる」で主人公の明智光秀役を演じた長谷川博己さんが、天海役で登場するのではといった憶測も流れましたが、それは「天海=明智光秀」の伝説を知る人が少なくないからなのでしょう。「麒麟がくる」のドラマの終わり方も、光秀の生存を匂わせるものでした。
徳川家康を支えたブレーンの一人、「黒衣の宰相」とも呼ばれる天海僧正の正体が、実は明智光秀であったという伝説は、江戸時代から密かに語られています。この伝説のあらましについて、私は2019年に「天海は明智光秀だったのか」というnoteの記事にまとめました。
そして最近、この記事を元にある講座で話をするため、少し調べ直しをしていたところ、歴史学者の徳川家光に関する指摘に気づいて、「天海=明智光秀」説の見方が自分の中で大きく変わることになりました。今回は、私なりに新たな視点からとらえ直した「天海=明智光秀」の謎についての記事を、ご紹介いたします。
本能寺の変の17年後に寺の開基となった光秀
明智光秀は本能寺の変のわずか11日後、山崎の合戦で羽柴秀吉軍に敗れ、その夜、落ちのびる途中、小栗栖の竹やぶの中で農民の竹槍に突かれ、あえなく命を落としたといわれます。しかしその死については不審な点も多く、「明智光秀生存説」も根強く存在しています。
たとえば今回の記事では触れませんでしたが、大阪府岸和田市の本徳寺には明智光秀の有名な肖像画と位牌が伝わります。岸和田と光秀はあまり縁がなさそうですが、本徳寺はもともと鳥羽(現在の貝塚市鳥羽)にあった海雲寺が前身で、寺を開いた僧・南国梵珪は、光秀の息子の一人と言い伝えられています。また光秀のものといわれる位牌の裏には「当寺開基慶長四己亥年」とあり、光秀が慶長4年(1599)、つまり本能寺の変の17年後に本徳寺(当時は海雲寺)創建の際、出資しているという意味になります。
慶長4年といえばすでに豊臣秀吉は没し、翌年に関ヶ原の戦いを控えた年。天海が徳川家康のブレーンとして側近く仕えるようになったのも、この年です。やはり光秀は生存しており、天海として家康に仕えたのだろうか、そう思いたくなるような伝承です。
独創的な宗教者だった天海
一方、天海については前半生に謎が多いとされます。随風と称して、仏教や学問修行のため、諸国を遍歴したといわれ、比叡山延暦寺で修行していた折、織田信長の比叡山焼き討ちに遭い、からくも脱出しました。信長の配下にはもちろん明智光秀もいましたから、このとき光秀と天海が接触した可能性もないとはいえません。あるいは光秀が何らかの理由で天海の命を救ったのでは、などということも、小説などの創作としては面白いでしょうが、残念ながらそうした記録はなく、以後の天海の生涯に光秀との接点は見出せないのです。
また天海で注目すべきは、独創的な宗教家であったという点でしょう。天台宗の僧侶でありながら、神道、修験道、さらには陰陽道にも通じていたようです。徳川家のために江戸の町づくりにおいて、鬼門封じなどさまざまな仕掛けを、陰陽道をベースにして施したことは有名です。また徳川家康が没すると、「東照大権現」の神号を定めるとともに、山王一実神道をもって日光に祀りました。山王神道は比叡山で生まれたものとされますが、天海は独自の工夫を加えて、山王一実神道を編み出したというのです。当時の宗教界において、異端、あるいは鬼才と呼ぶべき存在だったのでしょう。もし天海が光秀だとするなら、戦国武将として生きてきた者が、短い期間で傑出した宗教者へと転身したことになるのですが・・・。
「天海=明智光秀」伝説が生まれた一つの仮説
とはいえ、火のないところに煙は立たずといいます。
光秀と天海という二人の人物を並べてみて、同一人物と考えるには少々無理があるとしても、「天海=明智光秀」という噂が江戸時代から、しかも庶民の間ではなく、幕府内部でささやかれたという説がある以上、何らかの理由があったはずです。
私はその理由を、幕府内部のある女性に起因するのではと考えました。
春日局です。明智光秀の重臣の娘で、3代将軍家光の乳母であった彼女は、家光の大きな秘密と関わっていました。そして、そんな春日局と家光に協力したのが天海ではなかったか。詳しくはぜひ、和樂webの記事「明智光秀は生きていた? 将軍・家光の秘密と暗号から、天海=光秀説に迫る」をご一読ください。
さて、記事はいかがだったでしょうか。
家光の「光」の字に込められた意味、あるいは日光とのつながりなどは、裏づけとなる史料があるわけではなく、また陰陽道についての深い知識に基づいた話でもありませんので、あくまでも想像をまじえた仮説として受け止めていただければ幸いです。
今回の記事は、福田千鶴先生の著作『春日局』にヒントをいただきました。昔から俗説として、徳川家光は家康と春日局の子ではないか、という見方もありましたが、そうなると将軍秀忠は弟を自分の跡継ぎとしたことになりますし、家康がわざわざそんなことをさせる理由も考えられません。しかし、春日局が乳母として採用されたわけではなく、もともと秀忠正室の江に仕える奥女中であり、江が不在の折に秀忠の手がついたということであれば、十分あり得る話になります。
天海と光秀は別人であることを前提に、春日局と家光、そして天海の3人の周辺から「天海=明智光秀」伝説がなぜ生まれたのかを探った一つの仮説が今回の記事であるわけですが、その一方で、光秀は本当に小栗栖で討たれたのか、天海と光秀は本当に関係ないのだろうかという気持ちも捨てきれません。これも俗説といわれますが、江戸城に上がった春日局が、初めて天海と対面した際、「お久しぶりでございます」と言ったのだとか。それが事実だとしたら、何を意味するのでしょうか。
「天海=明智光秀」伝説の謎は、まだまだ別のアプローチもできそうです。皆さんは、どうお考えになるでしょうか。
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