見出し画像

「パークに行かない? とウラディミールが聞いた。」

「わたしは、わたしは行きますと返信した。十三時に、と返ってきた。」

わたしとは、『春の庭』で芥川賞を受賞した柴崎友香さんである。

これはアイオワでのできごとだ。

アイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)に参加した柴崎さんが滞在三か月のできごとを記した本が『公園へ行かないか? 火曜日に』(2018)だ。

目次
公園へ行かないか? 火曜日に
ホラー映画教室
It would be great!
とうもろこし畑の七面鳥
ニューヨーク、二◯一六十一月
小さな町での暮らし/ここと、そこ
1967 1977 1981 1985 そして2016
ニューオーリンズの幽霊たち
わたしを野球に連れてって
生存者たちと死者たちの名前
言葉、音楽、言葉

以前読んだ、『死んでいない者』で同じく芥川賞をとった滝口悠生さんが同じプログラムに参加したことを題材に書いた本『やがて忘れる過程の途中 アイオワ日記』(2019)で、柴崎さんのこの本のことを知った。

柴崎さんが撮ったのだろう、アイオワの空や木々や街や公園の写真がコラージュされた装丁。そこにはアイオワ、あるいはアメリカの美しさがある。

滝口さんは自身の本を“アイオワ日記”だと記しているのに対して、柴崎さんの本の帯には“小説集”だとある。それはどういうことだろうか。滝口さんがアイオワの現地で元となるテキストを書いていたのに対し、柴崎さんは、帰国してから執筆したということなのだろうか(事実、読み進めていくと、日本で思い出しながら書いているといった表現が出てくる)。

ただ、二人とも“わからなさ”の只中に身をおく形で、アイオワに滞在したことには変わりない。柴崎さんは、三六人の作家の中で、英語が一番できないのは自分かもという気づきに始まり、言葉というものの力、言葉が作り出す関係性に意識が向いていったように読めた。

英語と日本語。あるいは作家たちがもち寄ったネイティブな言語たちと英語と日本語。翻訳できない文化の差のようなもの。そんなことに内心あたふたしながら、やがて柴崎さんは、自分の言語である標準語と大阪弁(関西弁ではない)との違いにフォーカスしていき、自分は大阪弁のほうが自由に喋れるということに気づいていく。

そんな思いがあってのことか、この本の中で、ところどころ大阪弁に出くわす。その取捨選択の違いは、実のところ、私にはよくわからないのだけれど。

ガリートと話す言葉は、わたしの頭の中ではだいたい大阪弁に変換されていた。そのスカーフ、めっちゃきれいな色やなぁ、やらかいし。髪、まっすぐでええなー、わたしすぐ癖出るねん。もうええわ、わたし、帰るし。

標準語と大阪弁の関係の中でも、誤読が避けられない部分がある。日本語だということで、わかったつもりになっている部分がきっとある。わかること、わかっているようでわかってないこと、わからないことがグラデーションのようにつながっているのだ、日常的に。

それから柴崎さんの本では、IWPのあとに、アメリカ大統領選挙の渦中に身を置く体験が語られている。あの、アメリカ1st.を訴えた男が、本当に大統領になってしまう瞬間の空気を捉えたものだ。

それから第二次世界大戦博物館やホロコースト博物館にも柴崎さんは足を運んでいる。このあたりの問題意識が柴崎さんの作品にどう潜んでくるのか。あるいはもうそれらは書かれているのか。いずれにしても、どこかのタイミングで出合うかもしれないなぁ、とぼんやり考えた。

この記事が参加している募集

読書感想文

サポートしていただけたら、小品を購入することで若手作家をサポートしていきたいと思います。よろしくお願いします。