「情報」

 「情報は日替わりで伝えられる」と言えば至極当然の様に思えるが、本当にそうだろうか疑問であった。「現代は如何に迅速に、情報を処理するかが求められている」とも言う人も居る。しかし、「情報」とは何を指して言うのだろうか。ネットやテレビ、新聞で毎日「情報」に接して居ると、あまりの情報の多さに嫌気が差して来る人も居るだろう。此処では「情報」を処理する事とは何か、に付いて書くので「情報」の処理能力を上げる内容では無いと始めに書いて置く。

 「情弱」なる言葉を最近知ったが、手持ちの辞書を引いても見つからないのでネットで検索した。意味する所は「情報弱者」を指す言葉で、ネットで情報収集できない人を蔑称としてそう呼ぶそうな。では、ネットを駆使して「情報」を得た人が優れているかと言えば、そうとも言えないのが現状だろう。ネットで得た「情報」を処理するのは個人の能力に掛かる物なので、単純に「情報」を得ただけで優位性が生まれるとも思えない。

 「情弱」に対して「ネットリテラシー」なる言葉もあるので触れて置くが、情報収集によって得た情報を、如何に処理するのかとの必要性が求められて居るのは分かる。だが、人間が処理できる情報に限界があるのは、私が指摘しなくても理解している人も居るだろう。私は「情報を間引く」なる事か必要なのだと思っている。情報の出処が不明瞭なニュースには気を付けているが「フェイクニュース」程、拡がり易いのも事実である。それなので適度に間引かなくてはいけないのだ。

 一方的に伝えられるニュースを過信するのは危険であると誰しも分かっているが、それが普段接しているメディアだと「間違いは無いだろう」と錯覚してしまう。ネットの普及で個人が「情報」の発信者に成れるので、間違った「情報」が瞬く間に拡散して行く。しかし、本来なら検証すべき事物でも、日々の「情報」の多さに埋没されて放置されている。重要な「情報」だけあれば良いと言う人も居るだろうが、では何が重要で必要なのかと問い質す。

 「情報」を発信する側の人が何を意図しているのか考えると、情報の真偽が分かって来る。例として大手の保守系新聞に書かれていた事を要約して抜粋する。芸能人の訃報を扱ったコラムだったが、その芸能人の代表作として出演していた映画を上げて「誠実な人柄が偲ばれます」と書かれて終わっていた。此処で問題なのは私はその映画を鑑賞していて、「とても誠実とは言えない役柄だった」との感想が湧いて来た。コラムの作者は本当にその映画を観ていたのか疑問に思うのだった。

 コラムの内容を精査する人は少ないのかも知れない。少なくとも事件性の高いニュース程、注目はされないだろう。著名人の訃報を扱う場合、美辞麗句で書き綴るのが一般的なのは理解しているが、あまりにも実像と違うのでは「フェイクニュース」なる言葉を使いたく成る。大手の新聞ですら実像と違う内容を伝えて居るので「読む価値は無い」と切り捨てたく成る。同時に他の記事にしても懐疑的に観てしまう様に成るのは仕方ない話だろう。

 そこで私は新聞を読む時は「間引く」様にしている。時間的に余裕があれば他の新聞に目を通して比較するのが一番良い。そうすると記事の内容が何を意図して居るのか分かって来る。しかし、朝の忙しい時間に新聞を長々と読んでいる人の方が少ないのも事実である。それなので「間引く」のが一番適切な読み方だと思っている。飽くまでも個人的な読み方なので他人が出来るのかは分からないが、その方法を掻い摘んで書く。

 「間引く」のは文字通りの意味ではなく、新聞に書かれている内容の中から一番重要な点を抜き出す事である。具体的には当事者の意見を拾い出す。すると意見の隔たりが見えて来る。それが犯罪でも政治でも何が問題なのかが分かってくる。此処で間違わないで欲しいのだが、対象と成る意見の何方かに賛同する必要は無いのだ。ただ、事象として扱う事によって生まれて来る軋轢を感じられれば良いと思っている。

 「そんな事を言って凄惨な殺人事件には怒りを覚えないのか」との意見もあるだろう。犯罪者を擁護するのは社会人として失格だ、との感覚が世間を覆っているのは理解している。しかし、断罪すればそれで済むのかと疑問である。少なくとも犯罪ならば「何故、行われたのか」との疑問を持つべきだろう。それが感情的に流されて義憤を撒き散らす「情報」だけのメディアに多くの場合、成って居るのに注意しなくてはならない。そうしなければ「フェイクニュース」などに加担するだけの人間に終わってしまう。

 同じ様な話だが、政治家の汚職を扱った記事ならば「賄賂を貰った、便宜を図った」と書かれて居る事に一々気にして居たら、何が本当の問題かには辿り着かない。この場合、政治の構造を知る事によって問題の発生は予知できると思っている。新たな政策が制定されれば何かしらの問題が発生するのは予想できるので、政治家の不祥事に怒りを持つ事を私はしない。それ所か「政治家なんて、そんなもんですね」と言うので、端から見れば無関心に見えるだろう。

 私が政治に無関心に見える理由を一言で表すなら「問題を作るのが政治家」との考え方が根底にあるからだ。皮肉ではなく本心から「何もしない政治家なら応援する」との考えで居る。不祥事を起こした政治家が辞職しても変わりは幾らでも居るので、頭を変えるだけの話と捉えているが、「政治の体質を変える」事の必要性は強く感じては居る。極端な変革が必要な時代が訪れるのは時間の問題だから、それまで政治家は絶えず問題提起をしていれば良いだけだ。

 今、政治に携わっている人は変革の時に必要とされず、消え去るだけだとの認識なので汚職くらいの「情報」では、私は興味を示さないのである。それよりも「情報」を恣意的に利用する人達に危機感を持っている。大概の場合、賛否両論の内容が語られる時に何方に付くか、との選択が待っている。それは否が応でも選ばなくてはいけないが、その時、一過性の「情報」を頼りにしていると、大きな間違いを起こす原因に成る。

 例えば実際にあった小さな話だが、商店街の中心部に葬儀場を建設する「情報」が流れた。すると商店の主人達は挙って建設反対と抗議を始めた。商店側からすれば葬儀場があるのでは買い物客が遠退くとの考えであるが、地域住民からすると近くに葬儀場は無いので必要である、との考えの人も居た。この場合、賛否両論と言って商店主や地域住民、又は葬儀場の経営者の何方の考えに賛同するか、との問題が出て来る。

 私としては得た「情報」は前段の内容くらいしか知らなく、商店主の知り合いも居ないので論議に参加する資格は無いが、この場合、中立の立場で居るのが一番火の粉を被らないで済むと思える。無理をして葬儀場建設反対派に賛同するのも変な話だとも思える。葬儀場と言うと特殊なケースなので宗教的な禁忌を感じる人も居るので、単純に結論は出せない。しかし、此処で「中立とは何か」との疑問が浮かぶ。

 例えばの話だが「絶対の中立」と言うものがあるのなら、「反対なら、その葬儀場を利用するな」と、「賛成なら、お前の家の横に葬儀場を立てろ」と言う事に成る。この私の意見に賛同してしまうとどうなるか。それは「孤立」を意味する。当たり前の話、葬儀場の反対、賛成派の何方からも嫌われるだけなのだ。「嫌われてもいい」とそれでも中立で居たいと思うのは無理のある話で、政治の時と同じ様にその場の「情報」に合わせて、成るべく害の少ない方に付くしかない。人は「孤立」した状態では生きては行けないのだから。

 此処までは「情報」の「処理」に付いて触れて来たが、飽くまでも私が思っているだけの事なので普遍性があるのかは分からない。それと同時に、多すぎる「情報」に対しての対処に付いては触れていなかったので書く事にする。一口に言って「多すぎる」とは、どれだけの量を指すのだろうか。「書籍一冊の情報量では少ない。少なくとも十五冊くらいの情報でなくてはいけない」と新聞に書いてあったのを思い出した。

 これは新聞の広告にあった速読術の書籍紹介で、要は「書籍一冊を読む時間で十五冊読める」と宣伝したいのだった。私はこの手の書籍を読んだ事が無いので想像でしか書けないが「情報」を頭に詰め込むだけなら、速読術によって不可能ではないとは思っている。だが、インプットとアウトプットの問題なのだろう。他の書籍で「読んだ本を記憶しておく方法」と言った物もあるのだから、速読術で読んでも忘れる人が多い事を意味していると思えた。

 余談だが今現在の娯楽小説は四百字詰め原稿用紙にして二百枚、合計八万字で出版するとの話を聞いた事がある。昔は原稿用紙、三百枚に成らないと本に成らなかったそうな。本一冊当たりの文字数が少なくなった状況で、何を指して速読したとするのか疑問に思うが。此処でも「間引く」との感覚が発生すると思えた。単純に小説なら粗筋くらいは頭に残っているだろうが、一語一句覚えている人は稀なので、その様な人は除外して話を進める。

 仮に書籍十冊以上を短時間に読んだとする。読書感想文を書く人ならそれなりの内容を記憶しているのだろう。しかし、インプットされた「情報」からのアウトプットとして、読書感想文くらいでは少ない様に感じる。それだけの本を読んだのなら、十冊とは言わないが少なくても短編小説の一つくらいは書ける様に成りたいと思う。そう言っている私は名もなく実績も無いが、事ある度に小説などを書いては居る。

 それなので本を全く読まない人に比べたら読書量は豊富であるが、弊害も生じて来てしまった。小説のアイディアをメモ書きして居るが読み返すと、何処かで読んだ事のある内容に気付くのだ。そうして思い返すと同じ様な設定の小説を既に読んで居て、それを然も自分か考え出した事の様に錯覚していた。そんな時は言い訳でしかないが、「自分なりに潤色してやる」と思いながら書くのであった。

 「何事もモノマネから始まる」とは言いたくない。変に自分を正当化している様な気に成り、それよりも「オリジナルよりも面白いものを」と意気込んで書いては居る。「情報」が多いと、この様な弊害を生み出す事例として上げてみたが、ふと私は何処まで行っても「情報」を処理しているだけかとも思えて来る。そういう時は、自分の「直感」を信じる事にしている。「直感」とは大量の「情報」から「間引く」行為をして、必要な物を手に入れる、と言えるだろう。

 人間は忘れる生き物だと思っているので「情報」だけで生きて行けないが、そこから「間引く」事により人生を機能させる事が出来る。「情報」は何処まで行っても「情報」でしかなく、学校で教えられた事だけを覚えて居るだけで評価されるのは学校くらいしかないだろう。学校の勉強と言っても数学的な事ばかりではなく、歴史や文学にも当て嵌まると思える。「学校で教わった事の半分も世間に出て役に立たない」とまでは言わない。ただ、幾つかの問題点がある。

 学校で教える「情報」としての「歴史」は不十分であると言いたい。大概の場合は「戦争」の「歴史」を学ぶが、それで何が出来るのだろうか。歴史小説を書きたいのなら役に立つ「情報」ではあろう。しかし、基礎知識としての「歴史」を学んで書ける小説など誰も読みはしない。それ所か素人に毛が生えたくらいの内容では誰にも相手にされない。それならば、いっその事「情報」を「間引く」事で自分の物にする必要がある。

 単純な例で参考には成らないと思うが、タイムスリップして戦国時代に行って活躍すると言った内容の小説や漫画なら幾らでもあるが、そこに「自分」を投影できれば作品と呼べるだろう。「歴史」は普遍的な「情報」を提供するが、そこに「自分」を入れる「想像」があればの話である。小説家など夢想家の最たる者かも知れないが、歴史小説を書く事で「情報」を整理する方法を学べる可能性がある。

 何度も書くが大量の「情報」から「間引く」事は、「直感」の作用である。そこから新たに有益な「情報」を作り出す事に意味がある。ただ単に「情報」を「情報」としてでしか提供できないのなら、学校で歴史の授業でもしている方が適していると言えるだろう。「情報」だけで全てが解決できると思って居るのは間違いを犯しやすい。「情報」は何処まで行っても「情報」で、「変化」が無いのである。

 日々の痛ましい事件などの「情報」を見聞きすれば怒りも湧いて来るだろう。だが、それは「情報」に踊らされて居るだけに過ぎない。「情報」に対して「自分」は何に反応しているのか、と考える必要がある。それは「不安」を煽る「情報」に浸っているよりも、平和な世の中を語る事の方が重要なのだ。そう言うと「太平洋戦争敗戦から復興した、国の成り立ちが分からない」と言い出す人も居るだろう。歴史に異論を挟むのは禁忌の様に扱われているが、捉え方の問題に思える。少なくとも私達の多くは「戦争」を知らないのだ。

 だから「戦争」と言う「情報」を知る必要がある。そこには「直感」によってメディアが伝える「情報」を見抜く事ができれば良いのである。平易に言えば「歴史を学ぶ事は自分を見つめる」事である。そう思えれば、日々の大量な「情報」に流されないで居られる。それと共に、自分が見て居る世界が変わる。「自分は変わらない情報は変わる」のは間違いである。正しくは「情報は変わらない、変わるのは自分だ」と思えれば「情報」に踊らされる事は無くなるかも知れない。

 「情報」とは誰かの「意思」を含有している。その「意思」に自分の人生を左右されるのは、誰でも嫌だと思う。ならば「情報」を見抜く「直感」が必要である。「直感」とは「経験」によって培われる場合が多い。一朝一夕で身に付く物でもない。だがそれで諦めてはいけない。誰かの「情報」に踊らされない為に、日々「学ぶ」事によって変化を受け入れ、「直感」によって「情報」を精査して居ると、自然に何が問題なのかと分かって来る。それは一言で言えば「人間を磨く」事だと思える。

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