「虚言」

 「嘘を付いていると思っているのは正常で、何百回も付いていると本当の事だと思ってしまう」と成れば、それは「虚言」となのではと思えた。「嘘も方便」なる言葉があるので適度の嘘は対人関係を友好にする為には必要だと言える。そう言っている私だが、小説などを書くので如何に上手い嘘を付くかには熟知している。「嘘」と「虚言」の境目は何処にあるのかと疑問に思い考えて書いてみる。書くと成ると具体的な例を上げるが、そこに「嘘」が全く無いとは言い切れない、と警告はするが。

 よく温泉に行く。北関東の田舎なので近所に温泉が湧いているからで、平素から利用している。よく行くので顔見知りの年配の方と話す機会があるが、こんな事を言って居た。「よく来るアイツに言わせるとアメリカに行けばロールスロイスに乗り、フィリピンでタクシー経営をしていて百台持っている」と。その「アイツ」と言われる人と直接話していないので真偽の程は分からないが、「虚言」と言い切るには抵抗があった。

 しかし、その「アイツ」の普段の暮らしぶりは、車の免許が無いのか自転車で温泉に来ている。親類に政治家が居るのだが、親戚付き合いをしている訳でもない。そして母親が亡くなり遺産で暮らしていると。私が聞いた情報は以上であるので、それで「虚言癖がある」と判断するのは些か躊躇ってしまう。もし「アイツ」が私にその様な話をして来たのなら「アメリカは広いですけど何処にロールスロイスを置いてあるのですか?」と問い詰めるだろう。それで言い淀むのなら「虚言」だと私は判断する。

 「アイツ」は近所でも有名なホラ吹きとして扱われているが、仮に本当の事だとしても人に言うべき事でないのではと思えた。金持ちの自慢話程、嫌味な物はないので口を慎むのが友好な対人関係を作る上では必要だと言いたい。私は「嘘」を付く時は、面白く成る様に注意している。例えば宴会で雑談をする時は「酒が呑めなくて。ビールで少し。瓶十本くらいしか」と戯けた様に話す。決して真顔で「酒は幾らでも呑める」などとは言わない。それでは傲慢な人間だと受け取られてしまうだろう。

 宴席での戯言なら、その場の雰囲気によって聞き流されるから私は平気で「嘘」を付く。今迄で一番酷い「嘘」は、歳の近い既婚女性に「旦那や子供を捨てて、俺と一緒に誰も俺達の事を知らない土地に行こうよ」と言った。何故そんな事を言ったのかは酒の勢いからだと言い訳をするが、言われた女性の方は何と思っただろうか。後日、確認はしなかったが「酔っ払うと見境なく女を口説く人」くらいには思っただろう。女性の方がその点は抜け目無いので私が本心ではなく「嘘」を付いていると見抜いて居ただろう。

 その女性がもし本気になったらと、ふと思ってみる。陳腐な不倫物の小説くらいの話には成るだろうが、「嘘つき。そんな勇気もないくせに」と一言で終わってしまうかも知れない。この場合、酔っ払いの戯言として処理されるので「嘘」と言うのとは違うだろう。だが「嘘から出た実」と成る場合もあるので「口は禍の門」と思って居る。飽くまでも宴席だから許される(許せない人も居るのは分かっているが)事例かと思える。

 小説を書く人は「虚言」とも思える事を言う場合が多い。私もその一人だとの自覚はあるが、こんな事を言った小説家が居た。「私は在日朝鮮人だ」と言うのだが、事実は歴とした日本人であった。何故そんな「虚言」を言うのか理解に苦しむのだが、その小説家は「差別を受けたい」との感覚があったのだと思えた。その小説家の作品を読んだ事が無いので憶測でしかないが、「差別」を受ける側として表現するのがテーマの一つとしてあるのかも知れない。

 「嘘」は時に笑い話になるが、「虚言」と成ると作為を感じる。温泉に居る「アイツ」の場合は誰が聞いても直ぐには信じられない事なので「嘘」の範囲と思えるが、自分の出生を在日朝鮮人だと言う小説家の方は「虚言」と言えるのではと。「嘘」と「虚言」に優劣を付ける事自体、間違いなのかも知れないが、自分を良く見せ様と「嘘」を付くのは個人の責任として処理されるが、在日朝鮮人だと言う日本人の小説家は扱い方を間違うと国際的な問題に発展してしまう。

 と言う事は「虚言」は意図的に用いられる「嘘」と成るだろう。何を意図しているかは色々なケースがあるので一概に言えないが、「虚言」の多い人は作家に向いて居ると思っている。保身の「嘘」しか付かないのは為政者だけで十分であるので、「面白い」と意識して付く「嘘」が必要だ。それは「虚言」としても機能する必要がある。ただの嘘つき者で終わるのではなく、作品として昇華出来ればどんな「虚言」でも許されるのかも知れない。

 以上の例は「嘘」や「虚言」を付く人の話だったが、時代によって信じられていた言葉も今では「虚言」として捉えられる場合がある。その一例として「女の敵は女」に付いて書いて行く。誰しも耳にした事があるだろうが、この言葉の「裏」にはどんな意図があるのだろうか。「男の敵は男」成る言い回しを私は聞いた事が無い。それは至極当たり前の話で社会に出れば敵ばかりなのが男の世界である。「男は世に出れば七人の敵が居る」と言われて育った世代なので、若い人には通じない感覚かも知れないが。

 「女の敵は女」と七十歳を過ぎた母に言うと、納得して居る所がある。母の世代では女は家を守るものとして存在して居るので、姑や義理の姉などと一緒に暮らすのだから軋轢に堪えながらの生活だろう。その様な状況下では「女の敵は女」成る言葉も意味を持っている。昔話をしても仕方ないのだろうが、要は「環境問題」なのだ。「環境問題」と言うと地球温暖化などを指して言う言葉だと思いがちだが人にも当て嵌まる。人間が置かれている状況を勘案すると、環境の変化に如何に対応するかが問われてくるのだ。

 私が若い頃に年配の女性小説家が「女の敵は女」と言ったが、母の例があるので納得してしまった。その女性小説家は「男は所詮、敵ではない」とまで言っていた。それがリアリティーを持って語られて居た時代なので、私は今でも「女の敵は女」なる感覚を持っている。それが常識として語られる事に違和感を持たないで居たが、最近は違う様である。「女の敵は女」ではなく「女の敵は社会」と表現しなくてはいけないのだ。

 「女の敵は社会」と成ると歯切れの悪い言葉に感じるし、何も女だけの問題ではなく男にも当て嵌まるので、何を意図しているのか分からない。分からない成りにも考えると、女性の社会進出によって不当な差別を受けて居る、との環境問題が出てきた。具体的には男性と同レベルの仕事をしていても役職に付くのは遅れる。結婚や出産が会社側からすれば不安定材料に成り、仕事を任せられない。と言った状況では「女の敵は女」などの言葉は「虚言」として受け止められるだろう。

 では「女の敵は女」が「嘘」かと言えば、それも違う様にも感じる。まだまだ女性が置かれている環境は、女同士の意地の張り合いが見受けられるからだ。女性の社会進出が叫ばれて居るが、それは家庭を持った女性の活用方法ばかりが取り沙汰されて居る様に感じる。男性と同等に扱って欲しいと願う女性も居れば、早く結婚して仕事をしないで暮らしたいと思う女性も居る。女性と一括に捉える事自体が間違いなのである。

 では男性はどうかと言えば環境問題が無い訳でもない。男性でも育児休業取得を推進する、とはよく見聞きするが現状では取得する男性は少ない。それは女性よりも難しい環境に居る事を意味している。育児がしたい男性は居るが会社勤めを辞めて従事するのは女性も反対するだろう。かと言って女性にだけ育児を任せている訳にも行かない。結果として託児所を利用するケースが殆どだ。それを「男性も育児に参加せよ」と声を荒げて叫ばれれば「虚言」なのではないかと思えて来る。

 此処で言う「虚言」とは実利を伴わないスローガンとしての意味で使っている。何かしら意図して使われる「虚言」とは区別しているので、間違わないで欲しい。この手の「虚言」は新聞などのニュースには散見される。一々書かないが何かしらの政策策定時にどう聞いても「虚言」と思える言葉が並ぶ場合がある。「男性も育児に参加せよ」と言うなら具体的な対策を指し示す必要があるが、トーンダウンした言葉で「企業努力によって育児休暇取得を推進する」くらいの、現実味の無い言葉で終わる。それを「虚言」と言わず何と言うのか。

 では有言実行が適切なのかと言うと、それも違うと答える。「君子豹変」成る言葉があるが、意味する所は「意見がころころ変わる」なのだが、本来の意図する内容と代わって使われている様である。本来は「一度決めた事でも、それよりも優れた方法があればそちらを採用する」の意味である。それを実行して居る指導者の方が少ないのが現状である。何故なら「昨日言っていた事と、真逆の事を言い出したら収拾が付かなく成る」からである。

 それなので指導者には確固たる意志の下に発言しなくてはいけないが、それの殆どが「虚言」だったらどうだろうか。誰も忠告する人が居ないのでは指導者とは言わずに独裁者と呼んだ方が適切に思える。「虚言」であるかを検証する機関がなくてはいけないのだが、上手く機能していない様で、前記の様に「男性も育児に参加せよ」の言葉だけが先行して居るケースがある様に感じる。誰も実情を鑑みないで居るだけの世の中は、一体何処に向かってしまうのかと恐怖すら私は覚えてしまう。

 温泉に来る「アイツ」の言葉を信じはしないが否定もしない。それは検証が成されていないのが理由である。それと「女の敵は女」も環境の変化によって本来の意味を失ったに過ぎない。「虚言」と言い切るには現状を見極めた上で判断しなくてはいけない。誰しも「嘘」で「騙される」のは良い気持ちがしないが、それが個人的な場合でも国の政策でも同じ事だと思っている。では信用される言葉とは何だろうか。

 「嘘」に「嘘」を重ねた言葉は何時しか「本当」に成るとしたら、誰でも「嘘」を付く様に成るだろう。それを率先して指導者がして居るのなら皆同じ様に成ってしまう。テレビを見たら今時の小学生でもそんな「嘘」は分かるので、「語るに落ちる」を地で行って居る指導者を見かける。「虚言」が罷り通るのは創作の物語だけにして欲しいと切に願うのだが、それが上手く機能していないのでこうして書いて居る。

 何故そんな事を考えるかと言えば個人的な体験が大きいのだろう。若い頃に椎間板ヘルニアを患った事があり、医師から「手術しても50%の確率でしか治らない」と言われたからだ。常識的な判断が出来るなら50%の確率で手術する人は少ないだろう。命に関わる大病ならそれでも手術するだろうが、椎間板ヘルニアと言っても全く歩けない状況ではなく、歩くと腰に痛みを感じるだけだった。それなので手術をしないで痛み止めの薬を飲んで過ごした。

 その時に言われた「手術しても50%の確率でしか治らない」が、責任者の常套句だとの認識として今でも記憶している。50%なら医師は治らなくても責任を負う事もなく、仮に治ったとしても説明した内容と乖離している訳でもないので何の問題もない、との考えなのだろう。この場合「嘘」ではないが如何様にも受け取れる「虚言」の言葉として私は受け止めた。その後、椎間板ヘルニア治療の為に他の病院に行く事にしたが、今でも軽い障害が残っている。

 為政者や医者の「虚言」は責任逃れの為に機能している。決して「嘘」ではない。「嘘」と断罪する材料を私達に提示しないだけなのだ。もし「嘘」と知りながらも同じ事を何度も繰り返し言って居ると本当の様に思えて来るのが「嘘」の怖い所である。嘘付きの自覚も無く言い放つ言葉は「虚言」にも成るだろう。私はその様な言葉が嫌いなのである。単純に「手術しても50%の確率でしか治らない」と言われて「50%の確率にかけて勝負しよう」とは私には考えられない。

 私の人生は「嘘」に塗れたものかも知れない。何故なら物語を信じて居るからだ。想像力を羽ばたかせれば何処にでも行けると信じている。それなので嘘付きと言われても私は動じない。しかし「虚言」と言われれば反論したく成る。意図的に自分に有利な「虚言」を吐いた事は無い。それ所か陽気な「嘘」や、小説を書く時は如何に読んで居る人を楽しませ様かと考える。それを貴方が「虚言」と言いたければ言えばよい。

 此処に書かれた文章も自分の為に書いて居るのだが、読んだ人が何か思う所があれば、それは有意義な「虚言」として機能した事を意味する。言葉は独りでに生まれる事は無い。誰かが何かを意図して生まれる。それなので全ての文章は「虚言」なのかも知れない。だた、そこに搾取する気持ちがある場合、私は断罪する。「嘘」で塗り固め、他人を欺く人達の意図する「虚言」を信じるには値しないと。

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