「疑問」

 「全ての疑問は解決される」と言うと宗教の勧誘の様に感じるので、その様な事を口にした事は無い。それ所か日々、疑問に思う事ばかりで、気が付いたら何かしら書いている。結論として「疑問は解決されず、絶えず新たな疑問が浮かんでくる」のであった。それは私が世の中に対して、不平不満があるのが災いしているのだろう。けれども「疑問」が全くなく暮らしている人の方が少ないとも思っている。それなので最近は何に対しても猜疑心を持って観てしまう癖が付いてしまった。

 新聞を毎日読んで居るが「疑問」が解消された事は無い。一応、大手の保守層が好む新聞を読んでは居るが、ある日の記事の内容を抜粋する。「国の税収が少なくなった」「消費税導入の影響で高額な商品が売れなくなった」「法人税を下げて企業を活性化する」と。個別の記事として掲載されていたが、私には「疑問」が浮かんで来るだけであった。記事を関連付けると矛盾を私は感じるのだった。

 「消費税を上げといて国家予算が少ないとは何だ、それで何で法人税を下げるのか」との考えが浮かんでくる。「企業が活性化すれば社員の賃金も上がるからだ」と言い出す人も居るだろうが、今まで一度として奏功した事があったのかと逆にその人に聞きたい。ただ単に私が馬鹿なだけで理解力が無いのかも知れない。けれど、増税されるのが嫌なだけで文句を言う積りは無いのだが、少なくとも私が理解できる様な記事にして欲しいと、その新聞を読んで思う。

 物事を疑り深く観ているので、そんな新聞の記事にも「疑問」を持ってしまうのが私の癖で、ネットからの情報も同じ様に観ている。その中でも為政者を褒めている情報には注意している。と言うかそんなネットの記事など始めから読まない。田舎暮らしなので年配の方は「誰だって叩けばホコリが出る体」との感覚で、為政者を擁護する人が多い。しかし、その人が特別に政治に興味がある人とも思えないのだ。社交辞令的な挨拶として言っているだけだろう。

 ここで「疑問」が出て来る。「何故、政治に興味の無い人が居るのか」と。理由は色々とあるが突き詰めると「自分の生活に影響が無ければ関心を示さない」だけなのだ。それを「野党がだらしがない」と言って、与党を支持するのは何か矛盾を感じる。野党の活動を注視している訳でもなく、精々私が読んでいる保守系の新聞やテレビの受け売りだろうと推測する。それで「疑問」を解決した気に成っているのかも知れない。

 私は特定の政党を支持した事は無いのであるが、選挙になれば各政党の公約などを一通り見る事にはしている。だが実現可能かと思える内容となると、ある程度の支持基盤がある政党に成ってしまう。それなので投票先も極端に保守やリベラルに片寄る事は今の所は無い。ノンポリティカルと言われれば「違う」と答えるが、支持政党を持っていないのと政治に興味が無いのとは別の話だと言いたい。

 ある党のスローガンに「夢を未来につなげる」などと書かれていたが、具体性に欠けているのは私が指摘しなくても分かるだろう。それに付け加えるなら「夢と言う名の利権を何時までも独占していたい」と私はそう解釈する。スローガンに「疑問」を挿むのは筋違いだとも思っているが、耳あたりの良い言葉を並べただけの物に、何の意味があるのか「疑問」である。「スローガンは党のイメージを伝えるため」との言葉にも「疑問」の目を向けてしまう。

 「明治維新」は幕末期のスローガンだ、と言う人が居た。意味する所は明治政府こそ文明開化を齎して来れると言う事なのだろうが、私としては明治時代が好きに成れないのであった。何故かと「疑問」に思うのだが「徳川幕府は少なくとも二百年以上も大きな紛争もなく、天下泰平の世の中だった。それが明治以後は軍事国家と成ってしまった」との考えからである。「軍事国家」と言うと些か語弊を招く表現ではあるが、歴史を学ぶとそんな感想に私は成る。日清・日露戦争での勝戦が太平洋戦争へと続く、との認識でそこには軍政があると思って居る。

 政治・歴史に付いて知ってる事は学校の教科書に書いてあるくらいの知識でしかないので、浅学菲才と言われれば返す言葉は無い。それに「疑問」に付いて書いているので、政治の話から一旦離れて以下に書いて行く事にする。

 使い慣れた言葉にも「疑問」を抱く時があるが「石の上にも三年」を例に考えてみる。ネットで名の知れた人が「石の上にも三年」に付いて書いたそうだが未読な為、既にそちらを読んでいる人には重複する内容かも知れないが。

 「石の上にも三年」を用いる時は「三年間辛抱すればどうにかなる」との意味で多用している人が多い。だが個人的には「才能も無いのに三年やった所で成功などしない」と思っている。何故、この言葉が盛んに使われる様に成ったのか「疑問」が出てくる。個人的な意見としては中学高校の三年制が根底にあるのではないかと。中高学生になれば目的を持つ事を強いられる。その時に「石の上にも三年」は便利な言葉として用いられている様に感じる。

 以前、演劇を教えている先生と話した時の事。その先生は「三年間で教えられるのは精々、発声と物語を読み取る力だけ」と言っていた。その時、私は「三年間でそれだけですか」と、ちょっと落胆した気持ちに成った。だがよく考えれば演劇の勉強を三年間して舞台に立ち、有名になる人の方が少ないのが現状である。となると「石の上にも三年」は才能があればの話なのだと言えるだろう。

 才能も無く「石の上にも三年」と「疑問」を持たずに続けるのは愚行だと言いたい。またここで「疑問」が出て来る。「才能」とは何を指すのかと。一般的には人よりも優れた能力の事を指すのは理解しているが、比べる相手が居たらの話である。自分には歌の才能があると思い込んで歌手を目指す為に都会に出て来るが、自分よりも才能のある人と比べられて挫折して田舎に帰る。と言った話はよく耳にする。

 近所に名前も知らない演歌歌手のポスタが貼ってあった。よく聞くとレコード会社でレッスンを受けて、自分でお金を出して活動しているとの事。私としては「金持ちの道楽だ」と思ってしまうが、本人は歌手である事に誇りを持っているので、他人がとやかく言う話ではない。この場合、歌手としての「才能」が有る無しに関係なく、それでお金を稼ぐ「才能」は無いと言うケースだろう。

 「才能」有る人と認められるとなると、金銭が関わって来るのでややこしい。誰でも聞いた事のある言葉に「1%の才能と99%の努力」がある。発明王のトーマス・エジソンの言葉として残っている。この言葉を知ったのは小学生の頃であったので、その時は素直に信じていた。しかし中学生にも成ると自分の実力が嫌になる程、知らされるので「1%の才能も無い」と悲観してしまうのだった。

 そう思いながら中学生の時にエジソンの伝記を読んでみたが、科学特許を取ったのは「真空でも電気は通る」の一つだけであった。蓄音機や電球などの発明品は多大にあるが、科学的に今でも通用しているのは「真空でも〜」だけである。そう思うとエジソンは科学特許に関しては凡才だったのではと思える。発明品で巨額の富を得たのは事実だが、非難されるのを恐れずに書くと「1%の才能」と「99%の金儲けの才能」があっただけかと思えて来る。

 さて「疑問」を持ったならば普通は「解決」したく成るのが人間の本能だろう。「疑問」を抱え込むのはストレスでしかないのだから、何かしらの「解決」策を追い求める。だが、大人は「解決」する事をしない。それ所か「疑問」ばかりを投げ付けて来る。そう言っている私は中年男なので「貴方も大人でしょ」と言われてしまうだろう。だが私がもし「大人」ならば、「大人」が「疑問」を「解決」してくれる事は無い、と思う様に成っただけと「子供」の頃の私に言うであろう。

 「答え」を出す必要はあると常々思っている。それが例え「正解」でなくても逡巡していると機会を逃してしまうのである。具体的には私は婚期を逃してしまったと思っている。その原因は「可能性」が捨てられなかったのだ。若い頃は現状を維持するだけで精神的な余裕が無く結婚する気持ちに成れなかった。それは言い訳でもあるが「結婚は人生の墓場」だと思っていた節がある。詳しくは書かないが、そんな事を考えている私が結婚など出来ようがない。

 「可能性」とは何であろうか、また「疑問」が出て来た。「実現可能性」と書くと意味が通りやすいだろう。先程書いた演歌歌手は「実現」している。それが「金持ちの道楽」と言われ様ともだ。その点ではストレスの無い環境を、もしかしたら手に入れたのかも知れないが、「実現」した時点で全てが終わってしまうのではと思えて来る。それが証拠にその演歌歌手がコンサートを開いたとの話を聞いたことが無い。歌手として評価されただけで満足してしまったのかも知れない。

 「私は生きるのが下手」と書くとネガティブな印象を持つだろうが、そんな感情に苛まれる瞬間がある。高校生時代の同級生が結婚して子供を創り円満な家庭を築いていると知ったならば、正直言って羨ましい。かと言って自分の「可能性」を信じて「答え」を未だに出せずに居る私は妬みを持ちながら、現状に耐えるしかない。けれど私の場合「私は活きるのが下手」との表現の方が適切かも知れない。結局の所、自分の活かし場所が欲しいだけなのだ。

 「いきる」とは何か。これも「答え」の出せない「疑問」として私の中にある。この私の意見に賛同する人は現代人と言える。現代では自分を活かす場所を探す事が求められる。それ所か、自分の居場所を探しているだけで人生が終わってしまう。私は「疑問」を絶えず持って居るので果敢にも世の中に対して戦っている。それが創作の源であるのだった。「それで何か得する事があるか」と聞かれても「分からない」と言うしかない。

 そう私は「分からないものばかりだ」と何時も呟いて居るだけなのだ。それが形に成る様に文章にしているだけで「疑問」が「解決」した事が無い。昔「神様を信じる力を僕に」と歌った歌手が居た。その人がその後どんな人生を過ごしたのかは分からない。逆に考えれば「神様を信じられない僕」が居るから、そんな歌が出来たのだろう。それに準えれば「信じる」事が「いきる」事への道なのかも知れない。

 それが出来ない私は「疑問」を絶えず繰り返す。そう思っている私にあるのは「疑問を持ち続ける才能」があると言えるかも知れない。世の中、知らない方が良い事がある。私は馬鹿なので一々「疑問」に思っては考えてしまう。それなのでストレス塗れの状態で居る。学校や会社でストレスを感じても逃げ場所はあるので、本当に嫌に成ったらそこから逃げれば良い。だが「自分自身」からは逃げ様が無いのである。

 ストレス社会は何故生まれるのか。と考えて行くと自己確立の問題が出て来る。デカルトの「我思うゆえに我あり」との言葉が思い出される。自我の発生を意味する言葉であるが、私は「疑問」に思うのである。それは幼子の様に「なに、なぜ、そうなるの」を未だに繰り返しているからだ。と言う事は私は自己確立が出来ていないだけとも言える。しかし、それは現代では当たり前の事の様に成っている気がする。「自分とは何か」と社会が問いかけて来るが、誰も明確な答えなど出せないで居ると思えた。

 「我思うゆえに我あり」を信じられれば良いのだが「我となる自分が一番信用できない」との考え方なのである。それなので世の中に自分の居場所が無いとの感覚に陥る時がある。為政者の様に「自分は万能だ」と思える人に憧れる。嫌味ではなく、国を動かしているとの感覚は万能感に浸れるのだから。となると、私はストレスから逃れるには政治に成るしかないのかとも思えた。

 絶えず「疑問」を持ち続ける私は、人を信じていないのかも知れない。人を信じていないのなら神様を信じる事も出来ない。かと言って他人に誇れる「才能」に恵まれて居る訳でもないので、自分の居場所を探し続けるしかない。ここに書かれた文章は「思考の連鎖」によって生み出されたとの自覚はある。「自我の発露」としての表現と成っていれば良いのだが、その評価は他者に任せるしかない。

 私の一番解決しない「疑問」は、ここに書かれた文章は何を伝えたいのかだ。それは読んだ人によって違う意見が出るだろう。私としては「赤ん坊が鳴き声をあげている」と受け取られても良しとする。この世に生まれた証として機能はしていると。

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