「想像」

 「想像とは時間の経過により導き出される物」と此処ではそう定義するが、これだけでは理解できない人が出て来るので、何故そう思うのか書いて行く。但し、飽くまでも私が思っている事なので理解するには「時間」が必要な場合があるだろう。出来るだけ具体的な話を書く積りだが、的を得ていないと言われるかも知れない。

 批判される事に臆して「書かない」との選択肢もあるが、それは自分の「想像」力の欠如の言い訳として機能するだけだ。それなので以下に書いている内容は、私の「想像」の力を試しているだけの内容である。「想像」に於ける「時間」とは不可逆的な性質であるので、過去を顧みる事の多い人には難解な話と感じるだろう。それ程に「想像」とは抽象的な物なのであるので、具体的に説明すると言っても限界はあるが。

 「人生百年時代」との表記を新聞などで目にする機会が多くなった。個人的には「あと五十年も生きなくてはいけないのか」と感じ、先の見えない世の中をどう生きたら良いのか分からない。少なくとも「人生百年時代」と言うからには、百年後の世界を指し示す必要があるのは言うまでもない。しかし、具体的な内容を聞いた事が無いのは何故だろうか疑問である。一口に「百年」と言っても「想像」出来ない人の方が多いだろう。

 マスメディアでの「人生百年時代」が指し示すのは「生涯現役」との意味が込められて居る。超高齢化社会に対応した環境を整える為に、高齢者も社会参加するべしとの意味として捉える事も出来る。ただ、現状は公的年金制度の支給を遅らせ、医療の公費削減を目的としているのだった。その正当性を得るために「人生百年時代」との言葉が踊っているだけに感じる。この言葉を文字通り信じるのは「想像」を止めてしまう行為に思える。

 五十年後の社会を「想像」するには現状を考えなければ成らないが、超高齢化社会と共に人口減少社会にも成る。国の人口が減少している社会では環境の急激な変化が訪れるだろう。高齢者が肉体労働に携わるには無理があるとは誰しも思うだろう。と成ると、外国から労働者を雇う必要性が出て来るが、海外から出稼ぎに来るだけの価値がこの国にどれだけあるのか疑問に思う。それは私が「想像」して指摘する迄もなく、外国人の労働条件が法整備されているので、それなりの対応を国はしていると思いたい。

 高齢になれば若者や外国人と同等の労働は困難であるので、高齢者はどの様な形での社会参加をすれば良いのかとの問が出て来る。私が幼少の頃は児童館なる物があった。今風に言えば託児所だが、行政の政策なのか高齢者が働いていた。そこで働いて居た高齢者は「孫の面倒を見る」との感覚なのであろう。暇を持て余した老人達が子供の面倒を見るのは理にかなっていると思えた。

 何分、昔の話なので「想像」で書くしかないが、保育士の免許無しで高齢者は働いていたのだと思う。今から四十年程前なので、児童館がどの様な経営をしていたのかは分からない。無資格の高齢者に給与を払っていたのかも分からない。その児童館に私が行っていたのは小学一年生から三年生までで、その後に閉館に成ってしまった。それなので今では、その様な施設は無くなってしまった。何故無くなったか「想像」すると、そこに政治的な意図を感じるのだった。

 児童館で働いていた高齢者がその後どうなったのかと言うと、一例だけ知っている。家族の下で介護されていたが、寝たきりに成り十年程ベッドから出られない状態に成った。詳しい年齢は不明だが八十歳を超えて居ただろう。ベッドの中で十年間寝続ける事を私は「想像」するのだった。

 これも個人的な経験から「想像」する事が出来たのだが、それは大人に成って就職をしたが、当時は「人の倍働いて一人前」との考えて居た。その様な考えをしていたので肉体労働にも嫌な顔一つせずに働いていた。その結果、身体を悪くして一ヶ月病院のベッドに寝ている事になった。仕事から開放されて安堵したかと言えば正確には違うのだが、初めて取る纏まった休みではあった。入院した時は、精も根も尽き果ててしまい何もする気に成れずに、だた毎日病室の天井を見詰めていた。

 真っ白な天井に湿度対策か、小さな穴が規則正しく空いている。締め切った部屋の窓から外を一度も見なかったのは、外と言う社会に希望が持てなかった証拠だろう。部屋に定期的に掃除が入る時だけ、車椅子に乗せられて屋上に行き空を眺めた。CDプレーヤーを片手にイヤホンで音楽を聞くと「一生此処から出れなくてもいいや」と思うのだった。

 私の入院と寝たきりの老人を比較しても仕方ない話だとは思うが「ベッドの中で身動きできない状態」と、そこだけに注目すれば共有された感覚ではと思える。後は「想像」で補えば十年間寝たきりの状況を感覚的に捉える事が出来るだろう。少なくともリアリティを持って十年と言う時間の流れを感じられる様に私が成ったのは、一カ月入院した経験からで「そんな状況に成りたくない」と言われれば「その通りだ」とは言う。

 しかし「経験」から導き出される「想像」とは、切実な状況を体験していないと分からない物である。「経験」を言い換えるなら「時間を使い体験した事」と成るだろう。十年間寝たきりの老人の気持ちを本当に分かっているのか、と聞かれたら「十年間かけて寝たきりに成り、死を迎えなければ分からない」とは思っている。だが、人には「想像」する力があるので「経験」だけが全てだと言うのは変な話だと思っている。

 私がこの様な考え方に成ったのは最近の話で、若い頃は四十五歳に成った自分が「想像」できなかった。それなので、今の若い人が将来に不安を持っているのも「想像」出来る。この様に将来の自分を「想像」出来ないのは何故かと疑問に思うのであった。若さ故に自暴自棄に成った事も私にはあるので、知った様な口を効く積りは無いが「未来の見えない世界を漂っているのは、貴方が世界をまだ知らないだけだよ」と言う。

 そこには当然「想像」する力が問われて来る。何も年寄りだけが「想像」する力を持っていると言いたい訳ではない。逆に「想像」する力の無い年寄り程、厄介な者はないと思っている。「戦争を始めるのは老人で、年寄りが指示して、若者が死ぬ」と言った著名人が居た。言葉通りに受け止める事も出来るが、どうも若者目線の感覚に思えてしまう。それは私が若者ではなく、年寄りの一員に成った事に依拠する為だろう。

 年寄りの一員として、老人も若者も何方の意見も正しいと思える瞬間があるから誠にややこしい。だが「戦争反対」と呪文の様に唱えていれば「老人」は戦争を初めないのだろうか。狡猾な老人は若者を揺動して、若者を戦場へと駆り立てるのは歴史が証明している。戦争へと突き進む若者を押し止めるのが年寄りの仕事だと思う。それが年寄りとしての私の使命かも知れない。戦争など「想像」する事の無い世界を求めているが、それは無謀な行為と言われるだろうか。

 ふと「この道は何時か来た道」と思い出す。私達は先人達が切り開いた道を歩いているだけだ。と成ると「想像」する事も、既に誰かの「想像」した跡を追って居るだけかも知れない。「想像」の「連鎖」が齎す物を「戦争」か「平和」、何方かにしたいかは個人の判断に任せるしかない。少なくとも私は「戦争への道」に進むのには反対する。

 「戦争」が「正義と正義」の戦いであると指摘しなくては成らない現状が、既に「戦争への道」を辿って居ると言える。「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。「戦争」に勝った事で全てが帳消しに成るとの考え方に嫌悪感を持っている。戦勝国にも罪はあるが、それは戦場に居る兵士ではなく、戦争を始めた老人達が負う物だ。同じ様な事を書いているが、何が言いたいのかは「想像」する事を止めると、いとも簡単に「戦争への道」と突き進むのである。

 それは「時間」との戦いであるとも言える。「戦争を知らない世代」と一括にされるのは間違いである。憲法上で戦争を放棄したのは、世界中を探しても我が国にしかない。それが何を指すのか今一度「想像」しなくては成らない。「戦争を知らないくせに、知った様な口を聞くな」との意見がまかり通る時代があった。では聞くが「知らないから分からないで済まして良いのか」と。

 太平洋戦争の敗戦後、自虐的歴史観でこの国を捉えて居ると批判する声もある。此処で付け加えたいのは敗戦から復興する事が至上命令と成ったのも、老人達が決めた事である。と成ると自虐的歴史観もまた老人達から齎された物だとも言える。それが何を意味するのかと「想像」すれば、誰もこの国のあり方を知らないで居ると言える。それでは同じ過ちを繰り返すだけなのは目に見えている。

 敗戦後七十年以上過ぎると「戦争」を体験談として話す人は少なくなった。それでも「戦争」に付いて書かれた書籍は大量にある。「敗戦を忘れるには早すぎる」と言う時点で私は年寄りの仲間入りだろう。そう言われても一向に気にしない所か「年寄りの冷水」として「戦争とは何だ」と絶えず「想像」するのである。此処で忠告するが、書物に書かれて居る事が全てではなく、書かれなかった事の方が重要なのだ。

 始めに「人生百年時代」とは何か、と書いたが人が経験できる年月の限界が百年である。当たり前の話だが夭折の人も居るので、誰でも百歳まで生きれる訳ではない。だが、百年間の歴史の流れを「想像」する事は、誰にでも出来ると信じたい。そうしなければ悲劇を繰り返すだけなのだから。ニヒリズムに囚われて「世界を見れば戦争の無い時代の方が稀だ」と、私は絶対に言いたくはない。それ所か「正義の名の戦争とは何か」と「想像」する。

 「正義」は気持ち良い物である。絶対的に正しいのだから異論を挟む余地が無い。此処で注意しなくてはいけないのは「余地が無い」点である。「正義」と言って何を「想像」するかは人それぞれなので、私が殊更「正しい」と思える事を羅列しても仕方がない事である。しかし「法を守る事」と「秩序を保つ事」は違うと「想像」する。「法の名の下に人は平等である」とするなら、これ程的はずれな言葉はないだろう。

 私は「法を守るよりも、秩序を保つ」のが先決との認識だ。「悪法も法」との言い回しがある。憲法をどの様に解釈するのかと成ると、司法などに精通している人に任せるしかないが「秩序」と成るとどうだろうか。「秩序」は庶民の暮らしに直結している守るべき事である。それがどうも「憲法」と「秩序」を一緒くたにしている人が見られる。それが誰かは貴方の「想像」に任せるが。

 此処まで書いてきて結論を出さないと怒り出す人も居るだろう。しかし「想像」に付いて書いて居るので私が「想像」する事を止めない限り話は終わらない。かと言って、何時までも書いて居られる程、人生は長くはない。「人生」に結果を求めた時点で終わりだと思っているが、長くはない私の人生。後、二〜三十年くらいで終わるだろうが、その時に悔いが残るのかは分からない。少なくとも「人生と向き合って居た」と言いたい所だが。

 「想像とは学ぶことによって培われる」と書く。それに付け加えるなら「学ぶ事に終わりはない」と。それで何が得られるのかは知らない。人によっては「やるだけの事はやった。後は天に任せるしかない」との境地に成れるかも知れない。または自分が「想像」していたのと違う「人生」に落胆するだけかも知れない。「時間は平等ではない」正確には「寿命は平等ではない」にするべきか。

 何方にしろ憲法は平等を保証して居る。今の所は。私はそれが覆る事を「想像」するので「戦争」とは何だ、「人生」とは何だ、と「想像」してしまう。それが文章として此処に書かれて居るだけだ。だが、現代人の特徴的な感覚として「平等」なる「人生」を求め、それと同じく「想像」する「時間」が存在しているのではと思っている。

 「平等」ならば人は同じ事を「想像」し、「人生」ならば対等な「時間」が存在していると思っている人が多い様な気がする。しかし、私に言わせれば何方も逆説的な意味として存在しているのだ。人は同じ事を「想像」出来ない、「人生」は否が応でも必ず死を齎す。

 そう思えれば最初に書いた「想像とは時間の経過により導き出される物」の意味が分かるかも知れない。「時間」を使って学び「想像」をする事で人と繋がる、その際に軋轢に塗れたとしても「人生」は待ってはくれない、と結論は出す。

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