「農村」

 「田舎暮らしは良いですね」と言っている本人は羨ましいとの意味だろうが、私は腹が立つのだった。今現在は北関東の山間に暮らしていて、牧場なども点在しているが「それの何処が良いのか」と思っている。「農村」の閉塞感を知らない人は「長閑で暮らしやすい」との感覚があるのは分かっているが、実情と乖離しているので「そんなに良いと言うなら、実際に暮らしてみろ」と悪態を付きたく成る。愚痴を書いても仕方ない話だが、何故そう思うのか詳しく書いてみたい。

 結論めいた事を言うと「農村は存在していない」と思っている。言葉の綾ではなく現状を注視するとそんな感情になる。「農村」に付いて語ると成ると自ずと「都市」に付いても語らなくてはならない。「農村」は「都市」への供給源と昔なら言えたが、その「農村」を海外に求めた為に、今この国の「農村」は機能不全とも言える状況に陥っている。具体的に感じたのは新聞での取り扱いで、その変化からも見え隠れする。

 農産物の貿易関税撤廃は昔から新聞のネタに成っていた。二十年程前は食料自給率の低下が政治の議題に上がっていたが、今では安い農産物が輸入されれば家計が助かる、との表現に変わって来た。一応、主食とされているコメには高い関税を維持しているが、それも時間の問題だろう。食料自給率の低下が問題視されなく成った背景を考えれば、農水族系の政治家の発言力が弱く成ったのが原因と思える。地域差があるので飽くまでも私の主観でしかないが、選挙で「農村」に依存しなくても勝てる環境に成ったのが原因だ。

 だが「政治が悪い」と言って片付けるのが嫌いである。理由は色々とあるが選挙だけを考えれば「都市」と比べて「農村」での票集めは効率が悪い。「農村」での選挙活動の費用対効果の悪さは目に見えている。そんな状況では誰も「農村」の必要性を考えなく成ってしまう。それは政治家だけでなく、個人でもその様な考え方に成る。極端な飢餓でも発生しなければ「農村」の必要性を口に出す人は出現しない。

 海外に「農村」を求めた結果が、この国の農業を衰退させたと声を上げて言う。農業だけでなく工業製品なども同じ末路を辿って居るが、何か対策が成されて居るのか疑問に思う。各分野で人手不足が叫ばれているが、外国人労働者の雇用で補うと言い切る人には懐疑的な視線を投げつける。それで何の解決と成るのだろうか。そんな場当たり的な対応しか、して来なかった結果として、問題が山積されてしまった。

 「政治家が二枚舌なのは当たり前」と否定的に捉えて、片付けるのに抵抗がある。私が住んでいる「農村」の田んぼ中に政党のポスターが立て掛けてあった。キャッチフレーズとして農村の活性化を進めると書いてあるが、ニュースで見る限り真逆の事をしていた。そのポスターが雨曝しで薄汚れていたのが、何かを暗示している様な気がして悪寒すら感じるのだった。政策を変えるなとは言わないが、変えたなら説明責任はあるだろう。それすら蔑ろにしていたのでは、一体何を基準に政治を判断したら良いのか分からない。

 これもニュースで知った話だが外国人の不法滞在先に農家が加担していたと。農業従事者の不足を外国人に頼った結果だが、雇用主の農家が罰せられたとの話は聞かない。外国人を不法滞在で本国に送り返すとはよく聞くが、本来なら雇用主の農家にもそれ相当な刑事罰を適用するべきだと思う。それが出来ない理由は一々書いても仕方がないが、政治的判断と言えるだろう。こんな国に働きに来る外国人を憐れに思うのだった。

 生産性だけを考えれば「農村」は低いと言わざるを得ない。稲作を体験した人にしか分からない事だが農繁期の仕事は多忙である。稲作に付いて書くと切りがないのだが「植えとけばコメが勝手に採れる」と思っている人が「都市」には多い様に思える。それは農作物と工業製品を同列に捉えて居るのが、諸悪の根源だろう。農作物が天候に左右されて不作の時があると考える人は「都市」の人には少ない。それは食料の供給源が多様化した結果であるので「都市」が悪いとは言いたくない。

 「農村」は自活した存在として機能するべきかとの考えが出て来る。農家の老人が言っていた事に「これからは勉強して大学に行かなくては」と。これが何を意味しているのかは、「農村」は衰退するから「都市」で暮らせる様に成れ、との意味に取れる。農業従事者の減少を問題視する人が少なくなると、田舎の老人すら感じている事を指して居る。決して農家に成って地域の為に働けとは言わないのが、私には悲しくも感じる。

 人口が減少している国では国力の低下は避けられない問題である。他国に労働力を頼れば軋轢が生まれるのは明白だ。アメリカ合衆国の様な移民に支えられた国を目指すと言えば、議論百出だろうが、少なくともこの国の行く末を考える一助には成るだろう。それすらもしないで居たら滅ぶだけだが、その時「農村」を必要としても時遅しだろう。それ程までに今の「農村」は疲弊して居ると言えるのだった。

 「農村」から夢見て「都市」に行く。とは社会通念上として認められて居る行為だろう。だが逆に「都市」から夢見て「農村」に行く、と成るとどうだろうか。昨今のテレビなどを見ると「憧れの田舎暮らし」なる内容の番組が多い。「都市」に疲れた人は「農村」での暮らしに憧れて居るとの事だろう。それが何を指すのかと一歩踏み込んで考えると「都市」が必要としない人は「農村」で暮らせ、との意味だと思っている。

 そこにあるのは頓に生産性だけを求める「都市」の存在がある。「スローライフ」なる言葉があるが、そこに付随するのは「農村での暮らし」が否が応でも付いて来る。「都市」での生活に不満がある人も多い。それと同等に「農村」での暮らしに嫌気を指す人も居る。こうなって来ると不満を持って居る同士が、立場を交代すれば良いだけの問題とも言える。しかしそれを許さない社会が存在して居る。

 個人的な体験談として、山奥に住んでいる老人の言葉が分からない時があった。今も存命なら百歳は過ぎて居るだろう人だったが「同じ地域に住んでいて言葉が分からない事があるのか」と驚いた。息子と言っても六十代の人だが「通訳」をしてくれたので、何を話しているのかは分かったが、その時「農村」に生まれ育った人は「言葉」の問題が大きく立ちはだかると思った。何処の地方でも方言があるので、私だけの話ではないとも感じるが。

 しかし、「昔はそんなものだった」と昔話にしたくはない。現に外国人の労働者とのコミュニケーションで「言葉」の問題は必ず出て来る。国は「農村」を利用する「都市」の存在によって機能して来たのだから、そこには絶えず搾取する者の存在が居る事を意識しなくてはならない。それは単純に「都市」が「農村」を搾取するだけでなく、逆に「農村」が「都市」を利用する場合もあるのだ。

 「都市」とは何か。人口の密集した地域、と仮にそう定義する。と成ると、過剰な人口が生まれたならば「農村」へと回帰する必要が出て来る。要は生産性の低い人は「農村」で暮らせ、との事である。「都市」は余剰人員を抱え込みたくない場所である。絶えず生産性の向上に寄与できる人材しか居られない。そんな「都市」に嫌気を感じる人が出て来るのも理解は出来る。

 かと言って「農村」は「都市」の負担を担う存在である必要はない。言葉は悪いが「都市」の廃棄物を処理する為に「農村」がある訳ではないのだ。その見地から考えれば「都市」から「農村」に移り住んだ人を排除するのは自然な行為に思えてしまう。「都市」には「農村」にある閉塞感は無い。利害関係を無視して他者に興味を持つ人が「都市」には少ないが、「農村」はと言えば他人との距離感が近い。

 距離感が近いと成ると軋轢が発生する。これも体験談だが祭りの寄付金を集めていたら、支払いを拒否した人が居た。近隣の「都市」から移り住んだ人で、近所付き合いは良くなかった。当人が言うには「お祭りに参加する子供が居ないから」との理由だった。しかし「農村」はそれを許さない。「お祭りの寄付金を払わないのはケチだ」くらいの話は一瞬で広まる。それが「農村」の本質なのである。

 当たり前の話だが「都市」と違い「農村」は小規模である。それ故に共同体として機能する為に脱落者を許さないのである。それなのでお祭りの寄付金を払う払わない、それだけでも問題になる。何故なら払わない人を認めてしまっては、それに追随する人が出て来てしまうからだ。だから「ケチ」だとの悪口を言って非難する。それを咎める人は「農村」には居ないのである。

 「農村」の話として書いているが、「海外」で暮らしたいと思う人も居るだろう。田舎の閉塞感を知って居る人ならば、煩わしい人間関係に関わりたくないと誰しも思う。私もその一人であるが、かと言って「海外」に行った所で何が変わるのかとも思える。寧ろ、「海外」の方が要らぬ対人関係に悩む事態に成りかねないのではと。実際に「海外」で暮らして居る人の生活をよく知らないので分からない事が多いが、有名人でこんな事を話していた人が居た。

 その人はモナコ在住であったが、現地の人と近所付き合いをしていないと、矢張り不都合が出て来る。モナコに住むには莫大な資産がないと暮らして行けないのだが、かと言って快適な暮らしが約束されている訳でもない。その人は家政婦を雇って居るのだが、ゴミ出しの際に適切に分別されていない、と近所の人に文句を言われた。それなので定期的にホームパーティーを主催して近所の人とコミュニケーションを取らなくてはいけないと。

 そうしないと間接的に何かしらの危害を受ける場合があるそうな。その有名人は「誰かの誕生日には高額なプレゼントを用意したり」「面倒くさい集まりに参加しなくてはいけない」「結局、金で解決するしかない」と諦めた様な口調で話していた。そんな話を聞くと私は到底「海外」に移住したいとも思えないのであった。移住できる程の金銭的な余裕は無いので雲の上の話だとは思っているが。

 結局、何処に居ても煩わしい人間関係に悩まされるのだ。それが「海外」だろうと「農村」だろうと同じである。「都市」には比較的に見れば「農村」特有の煩わしさは少ないだろうが、それでも何かしらの対人関係が待っている。それが耐えられる範囲ならば良いのだが、度を過ぎている場合はストレスを感じてしまう。「都市」が抱え込んで居るのはストレスであり、その発散場所として「農村」が存在しているとも言える。

 その「農村」とて閉塞感が漂って居るのは既に指摘しているが、それでも地域住民と友好的な関係を模索すれば住み良い暮らしが出来るかも知れない。ここで一つ提案するが、「農村」に来るなら農作業をするべきである。何の活動もしないで観光目的だけでは、田舎の人は相手にしない。それなので子供の頃には「農村」の暮らしを体験させる必要があると思っている。

 それはイベントとして見せるものではなく、出来る事なら一年間暮らして「農村」の実態を見せる必要がある。そこには「農村」が持つ風習や因習などの地元の人でも嫌に成る事も伝えるのである。そうすれば自分が「農村」「都市」の何方に適しているか判断が出来る様に成るだろう。ただ、闇雲に「田舎暮らしは良い」と宣伝するのでは詐欺だと言える。

 「都市」は良くも悪くも絶えず変化を取り入れる。「農村」とて同じ様に変化を恐れてはいけない。今、「農村」を襲っているのは「都市」から必要とされなく成る事である。それならばいっその事、閉塞した共同体として機能するか、「都市」を取り込んで発展するしかない。結局、何処に居ても人間関係と言う軋轢は付いて回るのだ。それが「海外」だろうが「都市」「農村」だろうが。

 自分は不満足に生きていると思っているならば、何処に居ても満足できない。まずは必要とするのではなく、必要とされる事が大事だ。それは「農村」に生きている私が日々雑事に追われて自分を見失って居るから、特にそう感じるのかも知れない。「必要とされる農村」とはどの様な状態を言うのだろうか、今は答えを出せないで居る。

 だが、機能不全な「農村」から「都市」に移り住むのを否定はしない。それが人為的に齎されても、人は人から逃れる事は出来ない。例え山奥で一人で自給自足の暮らしが出来ても、「自分と言う人間」からは逃れられないのだから、それよりは例え閉塞感に覆われていても「農村」で暮らす事を私は選択して居る。

 単純に答えは出ない。出せるなら既に誰かが実践して居る。しかし、「農村」が完全に機能不全に成ったら「都市」も消滅すると思っているので、それを回避する術を考える時が迫っている。もう残された時間は少ないかも知れないが、「田舎暮らしは良い」とだけ言う人には成らない所か、悪い面も私は指摘する。それが「より良い暮らし」に通じればとの思いからだ。

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