「理解力」

 「貴方の事を理解しています」と言う人を私は信用しない。「理解」とは何を指しているのかと、疑問に思う計りだ。「互いに理解し合い、良き伴侶となります」と結婚式で神父に向かって宣言するのを見聞きした人も居るだろう。その言葉通りなら離婚する人は居なく成るのだが、そう上手くは行かない。熟年離婚などあるので、何十年と一緒に暮らしていても「理解」は出来ないと思って居る。

 となると、夫婦ですら「理解」出来ないのだから他人の事を簡単に「理解」したと思うのは傲慢でしかないので、私はその様な事を言った事は無い。その為に私は未だに独身であるが卑下しては居ない。それ所か「理解できない他人と一緒に居るとストレスが溜まる」とまで思っている。「お前が結婚できないのは理解力が足りないせいだ」と言われれば、その通りだと言うので「理解力が足りない」と「理解」している。だが、この場合「理解」の中に「力」が必要なのが気になって来る。

 「力」とは「努力」によって得られる物だとするなら、私は「努力不足」なのだろう。しかし「理解」を深める為に、どの様な「努力」が必要なのか明示する人は少ない。「理解」とは主観でしかないとの結論を持って居るので「他人の考えている事は分からない」と言い切って居る。何事も「努力」で解決するなら問題は発生しない。それなので他人を無理して「理解」する必要は無いのだが、それでは話が終わってしまうので具体的な話を交えて書く。

 前にテレビで観たのだが、手話でコミニュケーションを取れるゴリラが紹介されていた。手話での遣り取りなので「お腹が空いた?」と問いかければ「空いた」「空いていない」くらいの会話が成立していた。そのゴリラにペットとして猫を飼育させて居たのだが、老衰の為か猫が死んでしまった。その時、ゴリラに聞くと「悲しい」と表現したのだ。飼育員はゴリラが死を「理解」出来ないと思っていたので、意外に思ったと話していた。

 悲しみを「理解」できるゴリラが特殊なのかと言えば「そうでもない」と私は答える。何故かと言えば「悲しい」を教えて居るのだからだ。人間の場合を考えてみると、幼少の頃に「悲しい」と言う言葉を教えられる。決して自然発生的に「悲しい」との感情が出て来る訳ではない。「お父さんお母さんが居なくなったら、悲しいよね」と教育する事で芽生えてくる感情である。ゴリラに手話を教える段階で「悲しい」との表現は、死に接した時に出て来る感情だと教えられただけの事だと思える。

 人間以外の動物にも「悲しい」感情が備わっている、と思いたい感覚が人間にはあるのかも知れない。その為、ゴリラが悲しむ姿を「理解」出来るのだが、それはエゴイストなものである。ライオンなどの肉食獣が草食動物を仕留めて食べる時に「悲しい事をした」との感情があるのかと言えば、大概の人は「弱肉強食」の世界では「悲しい」とは思わないとの意見が出て来るだろう。ではライオンに「悲しい」感情が備わっていない事だとすれば、「努力」によって教育すれば教えられる事を指す。

 感情を表現する言葉を知る事によって具体化するのである。また例示すると、雌猿が死んでしまった赤ちゃん猿を何時までも大事そうに抱えていた、とニュースに取り上げられて居た。それだけなら「猿でも自分の赤ん坊が死んだら悲しいのだろう」と人間は「理解」するが、何時までも雌猿が手放さないので、赤ちゃん猿が乾涸びてミイラ状態に成ってしまった。そこまで行くと「理解」の範疇を超えてしまう人が多いだろう。

 死んだ赤ちゃん猿をどう扱うがで、人間側の「理解」が変わってしまう。美談にするなら死んだ赤ちゃん猿を土の中に埋めた、とすれば「悲しがる猿」との「理解」が得られるが、乾涸びた赤ちゃん猿ではホラーチックな話として伝えられる。結局の所「理解」しやすい様に歪曲して人間は物を捉えるのが癖に成っている。そこには教条的な感情を動物までに広げてしまう人間の傲慢さを私は感じてしまう。

 話を手話が出来るゴリラに戻すが、そのゴリラが他のゴリラや自分の子供に手話を教えたのならどうだろうか。他の動物を教育するゴリラならば私は興味を惹かれるが、そんな話を聞いた事は無い。SF映画なら幾らでもある話だが今の所、現実には起こっていない所をみると「理解」と言う物は人間特有の感覚なのだと思える。「悲しい」など感情を表す「言葉」の意味を「理解」しているから、他の動物を「教育」したく成ると私はそう思う。

 と成ると、動物を教育するのは人間の本能としてある様だ。それは当然、私にも当て嵌まるのである。我が家には猫四匹居るが取り立てて躾はしていない。それなので木製のドアでよく爪研ぎをしていた。流石にドアが見窄らしく成って来たので、専用の爪研ぎ棒を設置した。何度かここで爪を研ぐ様に「教育」したら、そこでしかしなくなった。それを「我が家の猫は賢い」と言って「理解」してはいない。

 それが証拠に雄猫が私に向かって威嚇の鳴き声を上げる事がある。特に虐待した訳でも驚かした訳でもなく、何の気まぐれか威嚇してくる。他の三匹はその様な事をしないので「理解」に苦しむ。その雄猫に嫌われているのかと思っていると、私の姿を見ると近寄って来て甘える様な仕草をするので、益々その猫が何を考えているのか分からなくなった。「所詮は畜生のする事だから」と意に介しない事にはした。

 その他の猫三匹は威嚇の鳴き声を上げないが、夜中に窓際で誰かを呼ぶ様な鳴き声を上げる。それを聞いては「近所の野良猫でも呼んでいる」と「理解」してみる。それにしてはよく鳴くので「もしかしたら、お母さんに会いたいのかな」とこれまた身勝手な「理解」をする。悲しく鳴いていると「理解」するのは人間の方なので、猫達は「そんなの関係ない」と言った様子で気ままに生きているだけだと、これまたそう「理解」出来る。

 「悲しいと思うのは私が悲しい心を持っているから」と我が家の猫達を観ていると、こんな表現に行き着く。それならば「悲しみは何処からやって来るのか」との問に答えて欲しくなる。それは単純に「人の死に接した時に悲しくなるのだ」と言うと、何とも単純な感情にしか思えない。私は普段、冷静沈着を装って居るが、目の前で人が死んだ場面に出会した事は無い。それなので人の死が悲しいと思えるか、自分の事ではあるが疑問であった。

 それを「理解力が無い」と言われると、私は憮然とした表情を浮かべるだろう。又は「手話が出来るゴリラより劣っている」とまで言われたなら「言葉にするだけで良いのか」と言い返したく成る。では「悲しい、悲しい」と言葉を並べれば、多くの人から「理解」されるのならばそうするが、幼稚な感情を吐き出すだけで他人から「理解」を得られても何の助けに成るのだろうか。時に「言葉」は無力に感じるのである。

 アフリカでの話。部族間の衝突で娘を殺された母親がインタビューに答えていた。テレビのドキュメンタリー番組だったが、アフリカの言葉など当然分からないが字幕が付いていた。それを読むと、娘は生まれ育った自分の部族から他の部族に嫁に行ったが、母親の所属している部族と対立が激しくなり、娘の所属していた部族は皆殺しにされた。

 そのドキュメント番組で一番興味深かったのは、野蛮な部族が未だに存在している事ではなく、娘を殺された母親の目であった。「人間は本当に悲しい事があると、こんな瞳に成るのか」と私は思った。母親は誰に文句も言う訳でもなく、淡々と自分の身に降り掛かった惨状を語るだけだった。娘の嫁いだ先の部族を襲った中に息子も居た。結果としては、自分の子供達が殺し合っている状況だったと。

 そう言う母の瞳は輝いていた。こう表現するのは適切ではないとの指摘が出て来るのは分かっている。「悲しみに沈んだ瞳」と書けば適切だろう。だが私は敢えて「輝いた瞳」と書く。それが一番私の感情を奮い起こさせる表現だからだ。遠い異国の話なので本当に「理解」しているのかと聞かれれば「分からない」と返答する。しかし、その母の瞳の輝きだけは何時までも忘れられなく、私の脳裏に刻まれてしまった。

 それなので「悲しい」が「理解」出来なくなったのだ。何不自由なく生きて来た私にとって、死は遠くにあった。他人の死は客観的に見えるものなので、葬式に参列しても死を感じる事は無く「人間誰しも死ぬ」とニヒリズムに駆られて観てしまう。それは死が身近ではない証拠だろう。他人の死は客観視できるが、自分の死はどうだろうかと疑問に思う。自分か死んでしまう事を想像する事は出来るが、それを他人がどう受け取るかとなると「理解」の範疇を超えてしまう。

 娘を殺されたアフリカに居るその母以上に、死を身近に感じる事が出来ないのが本当の所だろう。決して「貴方の事を理解しています」などとは言えない。「生きている人間が一番恐ろしい」と言うのは簡単だ。そう言ってニヒリズムに浸っているだけの人間が私は一番嫌いなのだ。そんな考えを捨てた上で「理解」する必要がある。単純に娘を殺されれば「悲しい」と言えるが、そこに息子が殺した側の人間として居る場合、母は何を思うのだろうか。

 答えは出ないと言ってしまいたいが、もう一歩踏み込んで考える。種としての人間は「教育」によって如何様にも感情を植え付ける事が出来る。それが負の感情だとしてもだ。誰しも負の感情を持って居るので、誰にでも当て嵌まる事であると「理解」する。その上で人としての生きる術を考えなくてはならない。「平和」でいるには「努力」と「忍耐」が必要であるが、それが欠けたら、いとも簡単に「戦争」へと突き進んでいく。

 アフリカの部族間の争いと言って他人事には思えない私が居る。「戦争」が悪い事であるのは自明の理であるので、今更声を荒げて言う事でもないと思っていた。それが今は誰かが「戦争反対」と言わなくてはいけない状況に成っている。その事自体が社会情勢の不安定を指し示しているのである。それなので今一番求められているのは「戦争」への「理解」と成る。何度も同じ事を書くが「戦争」への道を進まない様にするのが大前提である。

 これも私に取っては当たり前の話なのだが「愛する人の為に戦う」なる言い回しに嫌悪するばかりで「戦う相手にも愛する人が居る」と、何故「理解」出来ないのか不思議で仕方がない。こんな事を書くと「では貴方は銃口を向けられて何もしないのですか」との発言をする人が居る。これほど「理解」の向ける方向が間違っている発言はない。「何故、銃口を向けられる様な事をしたのですか」との考えが浮かばないのが不思議でならない。

 本当に「理解」したいなら「努力」を止めてはいけない。それは小さな話なら夫婦関係であり、動物の感情だったりもする。切っ掛けは何でも良いのである。他を「理解」する事がどれだけ困難なのか先ずは知るべきなのだ。その上で「理解不能」なる言葉は最後に取って置けば良い。

 「想定内」なる言葉が嫌いである。仮に想定内の出来事しか起こらないのなら人はどうなるか。その様な状況に居る人は「神」であろう。全てを「理解」しているのだからそう呼んでも間違いはないだろう。だが付け加えて置くが人間が「神」として崇められるに値する事は無い。それ所か「神」と呼ばれる人は何とも「理解力」の無い人だと思えてしまう。

 「神」を求める人は大概は思考停止な行為に陥るのではと思っている。と成ると「理解」を止めると何かしらの「争い」が起こると言えるかも知れない。その時、人は「神」の名前を上げる事で免罪と成る。「神」を求めない動物は本能の儘に生きれば良いが、人間はそうは行かない。「理解」する事でしか繋がれないのだから。そして「理解不能」の言葉の下に悪辣な争いをする。

 「理解不能」なら黙って消え去れば良いのだが、それを拒む人が多い。誰だとは言わないが思い当たる人が貴方の近くにも居るかも知れない。私は精々「理解」しようと「努力」はする。その「努力」が実を結ぶかは分からないが、少なくとも「神」の様に振る舞いたいとは思わない。それなので「理解出来ない」事を「理解」する為に生きているだけだ。

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