見出し画像

軍歴証明書を取得 祖父の足跡を辿る

祖父が残した戦時中の3冊のアルバムについて、これまで2本の記事を書いたところ…

福山41連隊の歴史をまとめた『永遠の四一』著者の大田祐介先生とお会いする機会を得て「藤川さん、おじいさんの軍歴証明書を取ることから調査を始めてみられては?」とアドバイスをいただいた。

軍歴証明書とは都道府県や厚生労働省が発行する旧陸海軍軍人・軍属・従軍文官の召集から除隊までの履歴を記載した公式な記録だ。
海軍は厚生労働省に、陸軍は終戦時に本籍があった都道府県に申請できる。
多くの自治体では3親等までの遺族(一部では2親等まで)しか請求ができない。申請書に本人との関係を証明する戸籍謄本をつけて提出するのだが、詳しくは各自治体、厚生労働省のHPを参照していただきたい。

私の祖父は終戦時の本籍が広島県なので、広島県庁に請求した。
すると1週間も待たずに送って下さった。

画像1
画像2

どんなことが書いてあるのか見てみよう。
昭和10年(1935年)20歳~21歳  
1月20日    現役兵として歩兵41連隊第5中隊に入営。
12月1日    喇叭手 歩兵一等兵
入営時の記念写真。後列中央が祖父。

画像3

昭和11年(1936年)22歳     
   2月19日 担架術習得
   8月11日 脛骨骨膜炎のため福山衛生病院に入院 
 11月30日 現役満期

画像4

昭和12年(1937年)23歳  
7月30日   充員召集の為、歩兵41連隊に応召

画像5

   8月 7日   宇品港出港
   8月 8日   釜山港上陸
   8月14日  鴨緑江通過
   8月15日  山海関通過
   8月22日  長城隊

画像6

同8月22日 アキレス腱鞘炎のため蔚県(うつけん)に於いて      
                  第五師団北支第二野戦病院に入院 
   9月20日  宣北野戦病院に入院
 10月23日  北平兵站病院に入院
 10月25日  秦皇島出発
 10月28日  戦時補充令第28条に依り歩兵第41連隊補充隊第6中隊に転属   
                  大阪港帰着 大阪陸軍病院に入院
 10月31日  大阪陸軍病院金岡分院に入院

画像7

昭和13年(1938年)24歳
1月10日 福山陸軍病院に入院
1月15日 退院 
      歩兵第41連隊補充隊に在りて支那事変勤務に従事
4月25日 陸支機密第59号に依り召集解除 歩兵上等兵となる

昭和16年(1941年)27歳 
簡閲点呼済

ラッパ手をしていたというのは初めて知った。
そして現役満期から1年後の昭和12年に日中戦争が勃発。
23歳の祖父は招集を受けて、8月7日に宇品港を出港、 8月 8日   釜山港上陸、8月14日 鴨緑江(中朝国境の川)を通過。8月15日  山海関通過など…かなり細かく記録されている。
8月22日 万里の長城に到着。
「長城隊」と書かれているが、なんとこの日に、アキレス腱鞘炎を発症して野戦病院へ送られてしまう。総攻撃の2日前のできごとだ。
現役時にも訓練後に足の痛みを訴えて脛骨骨膜炎で入院しているという記録があった。

画像8

治りきっていない脚を庇いながら、40kgの装備を背負って行軍した結果、アキレス腱に負荷がかかりアキレス腱鞘炎を発症したものと思われる。
そこから野戦病院を転々として大阪港に送られて、大阪陸軍病院に入院。
翌年の昭和13年に福山の陸軍病院に移り、やっと退院だ。

「えー…。全然活躍してへんやん。おじいちゃん。」
大変な戦闘の末、異国の地で亡くなった方がほとんどの連隊なので、なんだか申し訳ない気持ちだが、たぶん本人が一番、そう感じていただろう。
しかし、だからこそ生きながらえることができて、私が今ここに存在しているということでもある。

軍歴証明は、今を生きている私たちにとって、その家族の大切な記録だ。
「あのとき、祖父はどこにいたのか?」
軍歴証明を取得して、たどってみてはいかがだろうか?




                                           
         

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?