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峠 最後のサムライ

小泉堯史は黒澤明作品の助監督を務めていたことで知られている。1970年の「どてすかでん」で黒澤作品に初めて参加して以降、黒澤最後の監督作品となった1993年の「まあだだよ」まで、ソ連映画となった「デルス・ウザーラ」を除く全ての黒澤作品に参加してきた。

普通の助監督ならとっくの昔にひとり立ちしていたと思うが、大巨匠に気に入られていたために、また、本人も黒澤の下で働くことが好きだったために監督デビューするタイミングを逃していたのだとは思う。

結局、監督デビューは2000年の「雨あがる」まで待たなくてはならなかった。この時、小泉は55歳だ。いくら、40代が若造扱いされる映画界とはいえ、55歳のデビューは遅すぎるくらいだ。しかも、この「雨あがる」は黒澤の残した脚本を映画化したものだ。キツイ言い方をすれば、他界した黒澤の代理でメガホンをとったに過ぎないということだ。

まぁ、1970年代から長いこと黒澤組に仕えていたために黒澤流のやり方しかできない体になってしまっているから、そう簡単に小泉堯史という1人の監督としてスタイルを確立するのは難しいと思うので仕方ない面もあるけれどね。

そして、監督デビューから22年経ったが、監督作品は本作を含めてまだ6本しかない。77歳の“巨匠”と考えれば22年で6本というのはハイペースかもしれない。黒澤だって1970年から他界した98年の間では7本だったからね。
シネマ歌舞伎などイレギュラーな作品を除いても2000年以降で14本も新作を発表している山田洋次がおかしいだけだしね。

でも、デビュー22年の監督として考えると6本は明らかに少ないと言わざるをえないと思う。
しかも、6本のうち半分は時代劇で、残りの3本も1本が戦争映画で残りの2本が障害もの。完全に“巨匠”クラスの監督のラインアップだよね…。結局、黒澤の代理なんだよね…。

それから、「最後のサムライ」というサブタイトル、ポリシーをもって映画を撮っている監督なら拒否すると思うんだよね。
誰もが、2003年公開のハリウッド製時代劇「ラスト サムライ」を思い浮かべてしまうしね。
小泉は黒澤の助監督時代から時代劇に関わってきたわけだから、本来ならこんなタイトルなんて拒否するはずなのに、できないってことは、やっぱり、小泉は監督ではなく、黒澤の助監督としか思われていない=軽視されているってことなんだろうねと言いたくなってしまう。

まぁ、コロナの影響で何度も公開が延期になってしまい、やっと公開されたことに関しては素直に“良かったね”と言いたいとは思う。

「トップガン マーヴェリック」も何度も公開延期されたが(同作に関してはコロナ禍に入る前から既に公開が延期されていたが)、「トップガン」にしろ、本作にしろ、公開時期が2022年になってしまったことにより、別に公開延期によって内容を変更したわけでもないのに、今のご時世と合致してしまった部分はあるように思った。

本作でいえば、戦争したくないのに戦争せざるを得ない。和平のために戦争をするという考えは嫌でもウクライナ情勢を想起してしまう。
左派にはどんな理由があろうと戦争すること自体が悪だみたいなことを主張する連中がいるが、それでは好きなだけ領土を荒らしてくれ、略奪してくれ、殺してくれ、レイプしてくれって話になってしまうわけだからね。
つまり、平和を勝ち取るために戦うことは必要ってことなのかな。

それから、本作で描かれた長岡藩は中立姿勢を保つという理想を守り抜くために、結果として、破滅することになってしまったが、それって、一度決めた方針を変えることができず、破滅の道へと向かっている今の日本そのものだなと思った。

本来であれば、方針が時局に合わないと思えば修正や撤回すべきなんだけれど、第2次安倍政権以降のこの10年近く、日本は一度決めたことは変更できない病が悪化している。
東京五輪、コロナ対策などもそうだし、現在の最大の問題である円安の進行もそうだ。

円安というのは、第2次安倍政権の経済政策「アベノミクス」で進められた方針だ。円安を否定すれば、アベノミクスの否定につながり、さらには安倍晋三の否定にもつながる。だから、安倍政権時に日銀総裁に就任した黒田には金融政策を変更することができない。
円安、インフレ、原油高、原料高、コロナ、ウクライナ情勢など日本経済を悪化させる要因は山ほどあるのに、全く日本政府や日銀が動こうとしないのは安倍政権時に決まったことを修正・撤回すればアベノミクスは失敗だ、つまり、安倍のやったことは意味がなかったと認めることになるから黙認しているだけだしね。

本来なら消費税を減税もしくは撤廃すべきだし、消費を落としてしまったレジ袋の有料化だって撤廃すべきなんだよね。でも、安倍政権時で決まったことだからやめられないんだよね。
本当、安倍が他界するか逮捕されない限り、安倍政権時で決まったことの修正はできないなんだよね。このままだと、日本は沈没するぞ!経済制裁を受けているロシアより日本の方が苦境に立たされているのはおかしいだろ!
しかも、ネトウヨどもは相変わらず、安倍批判=在日・反日という洗脳をかけられたままだから、いまだに円安は正しいと思いこんでいるしね。

まぁ、一度決めたことを変えられなくなってしまったのは、改革を主張し、それを信じたら国民生活が貧しくなってしまった小泉政権。その小泉や竹中のせいで貧しくなった生活を良くするために改革してくれると期待していた民主党政権がど素人過ぎて余計、格差が広がってしまった。そういうことを経て、日本人の間に改革に対する恐怖症が悪化してしまったというのはあるよね。だから、どんなに問題があっても、政治に改革は求めないし、一度決めたことを変えない政治家の方を支持するようになってしまったんだろうね。

そして、思った。新潟の東北にも北陸にも属さない中途半端な立ち位置って、本作で描かれていた時代で既に確立されていたんだなと。

全体としては右派寄りの思想に基づいて作られている作品のように感じた。

オープニングでいきなり、資料の再撮ベースにナレーションつきで、作品背景が説明されるが、完全に江戸時代を終わらせた欧米は悪という主張が展開されているしね。作中で言及されている外国人の扱いに関しても見下している感じはする。

でも、愛国主義なのか国粋主義なのか分からないが、そういうものをアピールするなら、日本の読み方をにほんにするか、にっぽんにするか統一しろよ!結構、右寄りの連中ほど、こういうのいい加減なんだよね。ネトウヨほど、安倍という字を間違える率が高いのもそれと同じなのかな。

まぁ、小泉堯史作品は以前から右寄りのにおいはしたけれどね。黒澤明というと、大手映画会社に噛み付いたりしたことから反権力のイメージが強いかもしれない。また、1970年から90年までの約20年間は日本の映画会社に避けられ、5年に1本のペースでしか作品を発表できなかったし、75年の「デルス・ウザーラ」から90年の「夢」までは4作連続で海外資本の作品となっていた。
でも、黒澤のキャリア最後の2本の監督作品「八月の狂詩曲」と「まあだだよ」なんて、完全に年取って保守化した老害の戯言みたいな作風だったからね…。そう考えると、晩年の黒澤の思想に影響を受けていれば、小泉作品が右寄りでもおかしくないんだよね。

《追記》
松たか子が“ありのまま”という台詞を発していたが、絶対、狙ってやっているでしょ?
あと、芳根京子って、こんなに微妙な演技をする人だったっけ?小泉演出とは合わないのか?というか、彼女が演じたキャラは出番も少ないし、全カットしてもストーリー進行には何の影響もなかったよね。


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