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【読書メモ】(4-5)『天人五衰』論の感想:『三島由紀夫論』(平野啓一郎著)

600頁超の大作を読むという行為は贅沢です。ひたすら三島作品の世界観に浸りながら、平野啓一郎さんの解説に唸る、ゆたかな時間でした。三島は、『天人五衰』の最終回の原稿を編集者に渡したその日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地でのあの事件で最期を迎えます。『豊饒の海』全体もそうですが、『天人五衰』を読む際には、どうしても彼の死について考えてしまいます。今回は、『天人五衰』を扱った第四章「『豊饒の海』論」の49節以降についての感想を書きます。

物語の結末の意味

平野さんの解説を読んでいて妙に納得したのは、三島が、自衛隊での自決の日程を先に決め、そこに向けて作品を書き進めていたという仮説で、それが故に『天人五衰』はやや書き急いでいる感があるという指摘です。読んでいて、『天人五衰』が最も共感しづらい作品です。

しかしながら、その最後のシーンがあまりに秀逸なので『豊饒の海』を読み返すという方も多いのではないでしょうか。平野さんは以下のように解説しています。

 作者は、『天人五衰』に「四巻のラストとしての重み」を求め、「大対立が必要」と考え、「愛と死、政治と運命の大対立であるべきだ。そこでは、行動者と記述者、存在と行為、肉体と精神等の人間の最重要の対立あるべきなり」と「創作ノート」に記しているが、この場面は、その「大対立」を、本多の生と認識との相克として最終的に実現したものと見ることが出来よう。つまり、本多もまた、清顕や勲、ジン・ジャンと同様、確かにこの世界で「絶対的一回的人生」を生きながら、「最終的には、唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かし込まれてしま」うという運命を辿るのである。

625頁

宗教と文学

『豊饒の海』を通じて、三島は唯識を扱ってきました。しかし、その最終的な結末は仏教的な解釈にとどまらないものになっています。端的に言えば、主人公たちは仏教で救われないわけなんです。

 信仰によって救済される問題は宗教に委ねるべきであり、文学の固有性は、信仰には収まりきれない問題にこそ存しているはずである。

628頁

仏教ではなく、文学の可能性をこそ三島は信じていたのかもしれません。そうであればこそ、自死を選ばなければという願いを持ってしまうのですが。

文武両道

三島が好んだ言葉の一つに文武両道があったそうです。晩年において、文は『豊饒の海』の完結であり、武は楯の会および自決へと至る決起行動が担うことになってしまいました。

「<20・10・67>のメモ」に示された通り、この世界の実相を虚無と捉えつつ、それを言葉によって実在させる小説という三島の構想は、その作品もまた、畢竟、虚無へと帰すべきものという、自己否定の循環を内包して結ばれている。それは、その鍛え上げられた肉体の破壊という彼の行動と、死を挟んで均衡している。

628頁

自決までしなくてもと素人的には思ってしまいますが、本書での平野さんの解説によれば、『豊饒の海』が未完に終わる可能性もあったそうです。そうであれば、『天人五衰』を書き終えてくれた三島には、その点は感謝しなければならないのかもしれません。


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