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【読書メモ】『ふつうの相談』(東畑開人著)

著者の書籍のファンになり乱読状態なのですが、本書は、ウィットの効いた軽妙な語り口を想像して読み始めたらしっかりした内容かつ少々硬い文体で驚きました。『心はどこへ消えた?』から『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』へと読み進めた身としては少々面くらいましたが、エッセンスのなるほど感は著者の他の書籍と同様に高いです。

ふつうの相談とは何か

私が読み飛ばしただけなのかもしれませんが、本書のタイトルにもなっているふつうの相談のかっちりとした定義はなかなか見つかりません。ただし、まえがきでは「心理療法論の伝統に対するオブジェクション(あるいはオルタナティブ)」(p.6)としてふつうの相談を提示したことが触れられています。

ではなぜ「ふつう」が大事なのでしょうか。

 クライエントは得てして「ふつう」を見失いがちである。苦悩の中にいて、孤立しているときには、共同性や社会性が失われ、実際の現実よりも厳しい「ふつう」を想像してしまう。だから、臨床家が現実的な「ふつう」を補うことは、クライエントが社会と再接続していくのに役立つ。<ふつうの相談>では、「ふつう」が処方されるのである。

p.43

<ふつう>に暮らしていると、<ふつう>を見失っている方がおられることに自覚的になりづらいものです。<ふつう>を語る時には大上段に構えて居丈高になることも懸念されます。そうした点に留意しながら、<ふつう>を見失っている人には、心遣いをしながら<ふつう>を補うことが支援につながるという考え方を大事にしたいものです。

複数の知をメタに見る

ではどのようにしてふつうの相談を提供するのでしょうか。著者は世間知、学派知、現場知とを挙げながら以下のように簡潔に述べています。

 世間知と学派知と現場知。いずれも賢いのだろうが、ときにバカになる。専門知は世間知らずになりやすく、世間知は傲慢になりやすい。学派知は暴走しやすく、現場知は閉塞しやすい。知とは複雑な現実をシンプリファイする装置なのだから、そこには常に単純化による暴力が潜んでいる。
 だからこそ、心の臨床家にはこれら三つの知をメタに見る視点が求められる。

p.123

この後の箇所で著者が指摘しているように、中村雄二郎さんや河合隼雄さん以降に臨床心理学でよく用いられている臨床の知という概念があります。この概念は、世間知と学派知と現場知のいずれにのみコミットするのではなくバランスを取るための知のあり方を問うているものであり、著者が本書で主張するふつうの相談にとって大事な考え方であると言えるようです。

ふつうの相談を行いながら読み返す本

本書を読むと、日常におけるふつうの相談を受ける際に、自身の意識や言動に目が向くことになるでしょう。しかし、自覚的になればなるほど、「これでいいんだっけ?」と不安になることもあると思います。少なくとも私はそうです。

専門家でない限り、おそらく本書を一回通読して完全にふつうの相談を理解することは難しいと思います。過度に恐れることなく日常的にふつうの相談を行いながら、あれ?と思った時に本書を読み返すというような取り組みが良いのではないでしょうか。


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