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封印 (短編)

 「走らない」と印刷されたA4サイズの貼り紙を、田原は慎重に剥がし始めた。壁の漆喰が少しばかり浮いており、落下しかねない。四隅のテープはくり返し補強されて分厚くなっていた。

 田原は貼り紙を剥がし終えると、くしゃくしゃと丸めて用意していたポリ袋に入れた。古い木造の建物にくしゃくしゃと乾いた音が響きわたった。

 少し歪みのあるガラス窓から隣県との境をなす山並みが見える。窓のそばまで枝を伸ばした桜はまだ硬い蕾のままだ。田原は来春からここで始まる事業のことを思い、目を細めた。

 役場職員の田原は、三年前に廃校となった小学校の校舎を若い芸術家たちの制作と発表の場にすることを提案し、その責任者を任された。まもなく全国に向けて募集を始める。その前に建物内を片付けておきたかった。田原は廊下をゆっくり歩いていった。

 どこからか地鳴りのような音が聞こえたかと思うと、どどどといきなり背後に迫った。ぎょっとして振り向いた田原は腰を抜かしそうになった。小学生の集団が恐ろしい勢いで廊下を走ってくるではないか。田原はとっさに壁に身を寄せた。

 「な、なんだ!?」

 目の前を駆け抜ける集団は子どもだけではなかった。田原が六年生の時の担任だった藤村先生がものすごい形相で走っている。それも密かに恋心を抱いていたころの若い姿のままである。スカートがひるがえって白い太ももがあらわになった。

 田原はこれが現実のものではないことを悟った。

 「もしや」と、先ほど剥がした貼り紙を探すが、走りの風圧で吹き飛んだのか、どこにもなかった。

 年が明けると、町に大きな動きがあった。他県からの移住希望者が相次いだのだ。役場はわけがわからないまま対応に追われた。町内の空き家を持ち主の承諾をとって貸し出す。単身者には一軒を数人でシェアすることで了解を得た。この様子を見た地元の建設業者が急ごしらえのアパートを用意したほどだ。

 三月初旬までに、募集に応じた芸術家を含む二十一世帯三十八人もの移住が決まった。前代未聞のことである。その中には新年度に就学予定の子ども七人をはじめ、六年生まですべての学年の子どもがいた。役場は廃校の利用計画を見直して校舎の半分を教室に、残りの半分を芸術家にあてがった。

 田原はあの日以来、何度も学校へ足を運んだが、集団で走る現象が日に日に収束していくのを感じていた。移住者家族らが下見に訪れるころには、すっかりなりをひそめ、もとの静寂を取り戻していた。

 学校と芸術家スペースの両方の開設準備が大詰めを迎えるなか、田原は密かに校則から次の一文を削除した。

 走らない。


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最後までお読みいただきありがとうございます。

※この話は#シロクマ文芸部のお題「走らない」(10/9〆)に応募しようとして間に合わなかったものです。提出は叶いませんでしたが、書き始めた以上は最後まで形にしようと思って仕上げました。初めての創作です。酷評を覚悟して公開しました。どうぞよろしくお願いいたします。

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