否認

(2021年秋ごろの手紙)

 私は、怒っている。何が、心的外傷だ。何が、「未来が短縮した感じ」、「慢性的な希死念慮」、「世界が安全でない感じ」だ。事実だろうが。
 世界が安全でない「感じ」ではない。事実だ。「感じ」にするな。世界は、安全ではない。何が、認知の歪みだ。何が、安全な場所での回復だ。安全な場所なんか、ない。

 そもそも、安全とは、何だ。私は、とても怒っている。何が「セーフティプレイス」だ。何が「世界が戦乱で吹き荒れていようとも、この中だけは安全という場所を、心の中に作る」だ。

 そんなの、世界が戦乱で吹き荒れてることには、変わりないじゃないか。嘘つき。
 肉の外が安全じゃないのに、肉の中の安全が、守られるわけない。
 「気の持ちよう」と、どう違うの。こんなの、まるで、私の日常感覚の、ほとんど全てが、症状みたいじゃないですか。

 だとしたら、何ですか。健康な人、私は、そんなものが実在するのかどうか知らないし、見たことないが、健康な人は? 自分の未来を想像することが、できて? 世界は、全体的に安全なものに見えていて? 慢性的に死にたい感じは、なく? 世に戦乱が吹き荒れていようとも、心の中に安全な場所が、あり? それさえあれば、大丈夫で? 静かな空のような感覚で、いつも生きているんですか? 
 私は、そちらの方が、病気だと思う。そんなのが、正常な状態なんですか。

 私は、私の方が、嘘つきと言われているように感じる。心的外傷、症状の説明文を読む。全部、本当のことじゃないか。
 これが、症状であるはずがない。事実が書いてあるだけだ。

 私にとって、未来はなく、未来はなく、というのは、未来を想像できない、という意味ではなく、未来、という概念ごと、ない。
 私は、生きている限り、怖いことが起こり続け、気休めみたいに自分の中に安全らしき幻を立てても、現実によって踏み潰される。

 何が、心の中の安全基地だ。人間は、肉でできている。肉は、簡単に壊れる。本当に。みんな死んだ。その人のせいでもなく。
 にも関わらず、私は、なかなか死ななかった。おかしい。心の中が安全であろうがなかろうが、外力によって、簡単に、私たちは、左右されるのだ。なのに、どうして外側から、私の、内面の問題にされている。

 現実には、お金がないと生きていられず、福祉に頼れば、生かさず殺さずの金額しかもらえない割に、不釣り合いなほど、公的な支配を受ける。
 この場合の、支配、という言葉は、私のことを私ではない人間が決める、くらいの意味で言っている。

 私が、どんな身分であるのか。どうするのが私にとって「よい」のか。私が、どうすべきであるのか。それを、私ではない人間が決める。
 何が「不完全ながら制度があるから大丈夫」だ。死なない程度の大丈夫は、大丈夫とは、言わない。
 
 死なない程度に劣悪な大丈夫をいただくために、私は、せいぜい可哀想にする。
 自分が生きていることに、絶えずお許しをいただかないと、お恵みをいただけない。役所でも、病院でも、そうだ。

 私は、可哀想にしていないと、話を聞いてもらえないが、可哀想にしていると、言葉が端から奪われる。
 可哀想な人間は、言葉を持っていないから。だから助けてあげなくちゃ。そういうことになっている。

 権利はない。人権はない。お金がないと、人権はない。何も選べない。
 どこの病院にかかるか。どこに住むのか。お金を使ってはいけない。それ以外のことを考える余裕は、先に奪われている。誰もいない。全部、事実だ。

 こんなのは、症状ではない。もし、ここまで書いてきた、私のこれが、症状による考え方だというなら、この通りである現実の方が、病んでいる。
 現実、私の嫌いな言葉。何が、現実だ。現実なんか死ねばいい。私は、とても怒っている。病気なのは、私ではない。おかしいのは、私ではない。回復すべきは、私ではない。私が、おかしいのではない。