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モンターニュのつぶやき「人はハンデキャップを意識する瞬間から変貌する」 [令和3年5月18日]

[執筆日 : 令和3年5月18日]

 今年は、どういう訳は梅雨入りが数週間も早くやってきて、今週は全体として雨が多いようですが、私にとって梅雨の季節は紫陽花とセットですが、季節感が変化しそうなコロナ禍です。言葉を変えると、時間が、時間の密度が薄くて、骨粗鬆症的時間を生きている、そんな感じであります。

 国内にコロナ禍を抱えていると、島国日本人は、あまり海外の事には目が向かないでしょうが、気になっているのは、ミャンマーの事、そしてイスラエルとガザでの戦闘。ミャンマーは軍と民間人の戦い、イスラエルとガザは軍とイスラエルから見ればテロリストのハマスとの戦いですが、犠牲者は民間人なので、これも軍と民間人の戦いとも言えます。勿論、国連安全保障理事会ではイスラエル軍の行動を批判する声明など出せる筈もないのでしょうが、ことイスラエルの話になると米国は黙認します。日本はまあ、追認ということもあるでしょうが、圧倒的な軍事力の違いの中での戦闘、大人の喧嘩ですから、どっちが悪いのかをきちんと検証すればいいし、その対策を国際的にも構築すればいいのに、イスラエルのことになると、皆弱腰的に。何故でしょうね。資源があって、経済的に国際社会に影響を与える国でもないのに。
 イスラエルは小さな国ですよね、縦横、車で数時間の領土(確定はしていませんが)。唯一の見どころというか、重要な地区は、エレサレム(アメリカは首都としていますが)。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの聖地。市内の「嘆きの壁」を見るとユダヤ人の悲劇に心を打たれますし、数世紀に亘る流浪の民、ホロコーストの犠牲者等々、彼らが受けた苦しみは時間が経っても消えないであろうことは理解できるのですが、それでもナチス・ドイツによる民族の浄化的虐殺までは、そこそこ共存できていたし、むしろ、かなり特権的で快適な生活を送っていたのがユダヤ人ではないかと思うのですね。英国におけるシェークスピアの「ヴェニスの商人」やフランスの「ドレフュス事件」など、ユダヤ人への差別的視線は西欧においては潜在的にあったとしても、まだ話せば分かる人たちであった気がするのです。
 しかし、イスラエルという国が出来てから、どうでしょう、彼らは隣人の異教徒たちと平和的に話をして妥協点を見出すような、度量というか、寛容性は持っていないのではないかと思うのです。とても不幸な事だと思うのですね。イスラエルのユダヤ人とそうでないユダヤ人(パレスチナ以外の地に住むディアスポラ)の間の意識上の違いはあるでしょうが、ユダヤ人問題は、彼らが国家を、領土を持つことで部分的には解決したものの、本質的な問題の解決には程遠いように思えます。それは、ユダヤ人には、なんと言っても選民意識があるからです。幸福であれ、不幸であれ、それが選民の証であると意識している民族と、そうではない民族では対話は成り立ちません。そうした選民意識から生まれたイスラエルは、国際社会で何をするのか、隣国との関係も含めて、相互依存的な存在として共同歩調を取ることが出来るのかと。

 ユダヤ教の経典、旧約聖書は昔さらっと読んだ気がしますが、選民意識は神が与えたものでしょうが、ユダヤ教も、キリスト教のプロテスタントは、基本的に自助努力の宗教だと思うのです。そもそも努力することは、誰にでもできることでありません。能力がないと出来ませんし。能力の有無に係わらず、自助努力を促すのがユダヤ教であり、プロテスタントにあるように思うのです。仏教で言えば、小乗仏教的で、他方で、カトリックは、凡夫向きで、他力本願で、大乗仏教。大衆を動かすための宗教という意味合い(政治的)から見れば、ユダヤ教もプロテスタントもエリートを刺激するものですが、特段銀の匙を口に加えて生まれたわけでもなく、さしたる才能もなく、使命観も抱かない名もなき庶民にとっては、居心地のよいのはカトリックのように思えます。
 フランス人と日本人が文明史的には対極的な位置づけにあるにも係わらず、どこか気が合うのは、カトリックと浄土真宗といった他力本願的依存性という面にも係るかもしれませんが、宗教は色々ありますが、見方を変えると、「人は進歩する存在であるのか、それとも否か」ということをそれぞれが説いている教えだと思うのです。
 フランス人には日本人のような無常観はないとは思いますが、人間観察の点で言えば、彼らは、「人は進歩も成長もしないが、変貌する生き物である」と思っている節があります。プロテスタント色の強いドイツで、啓蒙的小説が人気があったり、哲学ものが好まれるのは、彼らには、ユダヤ教もそうですが、歴史の進歩観があるからでしょう。フランス文学の古典的名著をお読みになれば分かるように、フランス人は、人の行為の善悪を人が判断しない視線があり、それ故に、主人公の成長物語小説は限られているでしょう(アレキサンドル・デュマ「モンテクリスト伯」も、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」も、神は登場しますが、善悪的視点からの成長物語ではありませんし)。metamorphose変貌が好きなんだと思いますね。良かれ悪しかれ。ある特定の価値観で縛られないフランス人の良さがフランス文学の良さではないかと思うのですが、それはカトリックの寛容性から生まれている気がするのです。日本人の寛容性も特定の価値観から縛られていないことにあるのではないかと。無常観は選民意識を持っていたら多分生まれないものだと思うのです。むしろ選民意識を持つことが過去に如何大変な事になったかを日本の歴史は証明している訳ですし。選民意識、諸刃の剣です。

 なお、ユダヤ人には天才的な人が多いとされていますが、天才とは概ね意識の敏感な人で、左脳的で、科学的な人ということです。文明が科学の申し子とすれば、それは脳の申し子であり、意識の賜物であります。現代文明に合致した脳が天才的と言われる訳で、ユダヤ人の脳はそうした意識脳なのでしょう。ただ、本当の天才、例えばレオルド・ダ・ヴィンチのような人は、左脳は元より、発見・発明の源泉である右脳の感性に優れていたようですし、芸術面をも含めて優れている人こそ、天才であり、アインシュタインなんかもそうだったのではないかと。そうした天才性には、私が思うのは、彼らは幼い頃に、ある種のハンデキャップ(私の言うハンデキャップは、自分の力で変えることの出来ないもの、或いは、自分よりも遥かに偉大なものの存在を指します)を意識したからではないかと。脳が意識を活性化させ、言語能力を高めるようになる過程には、私が思うのは、他者との間に存在する違い、つまりハンデキャップを脳が意識した瞬間があったのではないかということです。他者としての最初の人間は、多分母親だと思いますが、身近な人間との間で感じたそうしたハンデキャップを脳が意識した瞬間から、その人は「天才」に生まれ変わったのではないかと。フロイトならもう少し上手く説明するかもしれませんが、ハンデキャップを劣等感的に意識するのではなくて、意識することが特別に与えられた恩寵的な才能として、脳がポジティブに認識することで、天才が、そして、人は生まれ変われるのではないかと。勿論、私の仮説です。

 プルーストの「失われた時を求めて」のことをつぶやいたら、珍しくテレビの報道番組で活躍中の外務省の同期(男性)から、一度読んでみたいと思っていたけれど、というメールがあったのですが、若い頃に文学に目覚めた人であれば、一度は読んでみたいと思った本であることは間違いないでしょう。題名が洒落ていますし、なんだか如何にもフランス的ですし。彼は大学でフランス語をかじっていた(案外私よりも出来るかも)ようで、彼なりに青春時代の失われた時を求めたいと思ったのかもしれません。
 ちなみに、フランス語の題のA la recherche du temps perduを「失われた時を求めて」と訳している訳ですが、temps perduというのは、一般的には、何かの事情で遅れてしまった時間、あるいは実現しなかった(楽しいはずの)時間(非現実の時間)を意味するようです。敢えて「失われた時間」とすることで、あたかも過去において楽しかった時間があったように推測するのは、プルーストの小説の場合、必ずしも正しい理解ではないかもしれません。
 過去を思い起こすることが必ずしも幸せをもたらす訳ではない訳ですが、一般に、フランス文学は人間性を、真理を表現することが主たるテーマでもありますし、幸せであったと思った事の裏にあった真実を描くという目的がプルーストにもあったかもしれません。ただ、プルーストは、父方はカトリックですが、母方はユダヤ教徒。男は母の性格を受け継ぐ傾向がありますが、幼い頃から病弱であった彼は、マザコンとは申しませんが、母依存症的であり、女性遍歴があると同時に、かつ同性愛者であったと言われます。複雑なんです。カトリック教徒として育ちながらも、ユダヤ教に惹かれるという。でも、彼にもやはり選民意識があったと思いますね。
 個人的には「失われた時を求めて」よりも、英国の作家イーヴリン・ウォーの「回想のブライズヘッド」(岩波文庫)や、サマセット・モームの「人間の絆」の方が、私の青春時代に多少似ている感じがして、好感が持てます。こうした好き嫌いは、いかんともしがたいものがあります。生まれ育ちから形成させた嗜好性を教養や学問は必ずしも矯正してはくれませんので。なお、「失われた時を求めて」は新訳が岩波文庫から出ていますので、新訳で読むというのも案外粋なものかもしれません。でも、この本を読むなら、読む目的意識を明確にないと、多分、途中で挫折すると思います。

 さて、高齢者の私、コロナワクチンの予約の受付がまだで、なんとなく手持ち無沙汰でありますが、故杉原輝雄(1937-2011、大阪の茨木市出身)さんの「日本人のゴルフ 《ウッド篇》」徳間文庫(1984年)を読んでいるのですが、「一芸に秀でた人は」ではありませんが、杉原さんという人、感心してしまいました。いや、彼のゴルフが凄いというのは知っていましたが、文章がとても論理的で、私が言うのも僭越ですが、上手です。彼はご案内のように、小柄(162㌢)で、飛距離がアマチュアの飛ぶ人にも叶わなかったけれども、ウッドとパットの名手として活躍した選手でした。飛距離が出ないことをハンデと思わないで、自らの得意なことで勝負した、飛距離の出ない私のゴルフの理想的なゴルファーです。技術的な事を丁寧に説明しているこの本は、御値打ちだと思います。自助努力型の本とも言えますが、選民的でもなく、エリート意識の無いとても好感が持てます。他方、青木功(1942年-千葉我孫子市出身)さんの「飛ばす・寄せる」(廣済堂文庫、1992年)も読んでいますが、こちらはいわゆる天才の書いた本。青木さんは勿論選民意識を持っていた人ではないでしょうし、こちらも努力のお手本のような方です。違いは、杉原さんは身体的、そして飛距離にハンデキャップを持っていた人でありますから、左脳的意識の人、つまり論理的に物事を考えてプレーする人。青木さんは元々身体能力が高い(180㌢)という、恵まれた条件を持っていましたし、あまりハンデキャップを意識したことはないのではないかと思います(勿論、若い頃経済的な意味で大変苦労はしているとは思いますが)し、あの独特のパットにもあるように、右脳的感性の優れたゴルファーのように思います。「しょうがあんめい(仕方がない)」とよく失敗した時に口にしていたようですが、ゴルフの達人としての人生観は、他力本願的なものを感じる人です。

 人生は、自助努力型(左脳型)で行くか、他力本願型(右脳的)で行くか、それとも、その融合で行くか、人それぞれではありましょうが、人生もゴルフも、人が刮目するような素晴らしいことを成し遂げることが別段目的でも目標でもないとは思いますが、人は常に途上の存在であり、変わり得る存在であるとすれば、それは作家のプルーストもしかりで、ゴルファーの杉原さんのように、ハンデキャップ(プルースト的に言えば、「失われたもの」)を意識することが大事ではないかと。貴方がもしも今の自分を変えたいと思っているとしたら、変貌することを希望するのではあれば、それはお金ではなくて、こうした意識の変化が必要ではないかと思いますが、如何でしょうか。今日はこの辺で失礼を。


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