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音楽でなら、私は本当の自分を出せた。歌詞でなら、私は本音を言えた。

2004年の2月3月、
私は、
7つの曲をレコーディングした。

その音源は、
それ以来ずっと、
世に出すことはせず、
私の中だけでの楽しみとして、
保管してきた。

しかし、
つい最近、気が変わって、
自分のYoutubeチャンネルをつくり、
再生リストを利用して、再現することにした。

この7曲をレコーディングし、
完成させたとき、
私は、
心の底から救われた。
そして、
その後、
日々の生活の中で、
事あるごとに、それを聴いては、
勇気をもらった。
そして、
最近、
思ったのだ。

これまでずっと、
私のパソコンの中、ソニーのウォークマンの中、CDRとして、
私の生活の内部だけで、
日陰に置かれ続けていたその7曲を、
成仏させたいというか、
解き放ってあげたいというか、
「ありがとう」の気持ちを込めて、
額縁にきちんと収め、最高なカタチで飾りたい、
と。

そんな思いから、
簡単な、歌詞付きの動画をつくり、
Youtubeにアップした。


今日のnoteは、
さらに、文章として、
その7つの曲へ、
最上級の賛辞と感謝を述べたく、
その儀式として、
書いているのである。



私は、
小さい頃から、
「自分を抑え、まわりに合わせる」
という癖が強かった。

自分の気持ちを言葉にするのが苦手で、
「あなたはどう思う?」
という質問をされても、
自分の感覚を言葉にできず、
しかし、
質問されているから答えなければならない…、
私は、
相手が納得するような答え(あるいは相手が困らないような答え)を、
頭で考えて導き出し、
それを自分の気持ちとして、
回答していた。

そんなやり方を繰り返していた私は、
その内、
自分の気持ちが本当に分からなくなっていった。

そのもどかしさのピークは19歳の頃。
悶々とし、
心は重たく、
鬱屈していた。



そんな私は、
中学3年生の頃、
家にあった父親のギターを弾き始めた。
そして高校生になるあたりで、
ベースを弾き始めた。

70年代のディスコミュージックから、
グルーヴや、
からだ全体で音を感じることを覚えた。
さらには、
体内にある高揚感・ワクワクを、
ベースを弾くことで解放する、
あるいは、ドラムとピッタリ合わせることで、
楽しい感覚を、より倍増させる、
そんなことも知っていった。
それは、
私の心にあった鬱屈を、発散することにも繫がっていた。

そして、
18歳の頃、
ジョン・フルシアンテというギタリストから、
私は、
心の底の底にある、言葉にならない感情を、
解放する、
ギターを弾くことで、それを成す、
ということを、
学んだ。
心の叫びとしての、ギター。


「自分の気持ちを抑える」ということは、
心の底に、
抑えた感情が積もっていくということ。
どんどん重たくなる。
私は、
ギターを弾くことで、
ベースを弾くことで、
それに、あらがっていたのだ。
体内の鬱屈を、
美しい音に変換し、
思いっ切り、発散する。




自分の気持ちを言葉にするのが苦手で、
「あなたはどう思う?」
という質問に対し、
自分の本当の気持ちではなく、
相手が納得するであろう回答を、
自分の気持ちとして口にしていた。
先ほども書いたが、
それが、
小さい頃の私のスタンスだった。
このスタンス、
最初の内は、
何の問題もなく、
トキは流れていくのである。
しかし、
だんだん、不具合が表れてくる…。

まわりが思っている、私という人間と、
私自身が知っている、私という人間が、
全く違う、
という現実が浮き彫りになってくるのである。
本当は、
徐々に食い違っていっているのだが、
そのことに私は気付いていなくて、
というか、
そこに気付けるような余裕などなくて、
そして、
まわりの人がそこに気付くことも、
まずないわけで…。

「あなたはこういう人間だものね」
と、笑顔を向けられたりする。
そんなとき、
私は、
内心では、
『違う、そうじゃない』
と思いながらも、
【質問されたら、相手が困らないような回答をする】というスタンスが発動し、
「うん」
と笑って答える。
そんなとき、
『違う、そうじゃない』という思いととも、
『そうじゃなくて、こうなんだよ!』という的確な答えがあるのなら、
まだ救いはあるのだが、
『こうなんだよ!』という部分が、
私には無かった。
自分でも、わからないのだ、
自分のことが…。
ただただ、
『違う、そうじゃない』というもどかしさだけが、
積もっていった。



自分の気持ちが分からなくなって、
その内、感情の感覚すら分からなくなって、
涙が出ない時期が数年続いた。
そんな中、
『違う、そうじゃない』という違和感、
それだけは常にあって、
いつもそれを、
心の中でつぶやいていた。
その『違う、そうじゃない』という感覚は、
日に日に大きくなっていった。
小さい頃から、
「怒る」ということがなかった私だが、
自分のことが分からないというモヤモヤした状態がずっと続き、
『そうじゃない』という感覚が強まってくると、
そのモヤモヤしている状況にいることに、
だんだん腹が立ってきて、
『もう嫌だ』
と、何かしら吹っ切れるような瞬間を迎えた。
そのとき私は、
こんな行動に出た。


「自分はいったい何を思っているんだ?」
「自分はいったいどうしたいんだ?」

「俺は、いったいどうしたいんだ!」

大学ノートを広げ、
頭に浮かぶ言葉を、
とにかく、
書いた、
書いた、
書いた、
書き続けた、
殴りつけるように、
書き続けた!

怒りのエネルギーをガソリンとし、
「何なんだ自分は?」という怒りとともにある問いの答えを、
探した、
探し続けた。

諦めるという選択肢は、
なかった。
何故なら、
その作業をしなければ、
その先の人生はない、
と、
はっきり分かっていたからだ。

自分の思いを、
言葉にした。
文章にならなくったっていい。
「俺は自分のこういうところが嫌いだ」とか、
「何で自分はこういう反応をしてしまうんだ」とか、
ときに、見たくない自分自身に目を向けることもあった、
しかし、
そこに躊躇はなかった。
今までおろそかにしてきたことを、
「怒り」により、
グイグイ掘り下げていった。
「なるほど、自分にはこういう思いがあるのか」
小さな気付きを積み重ねた。
1日に、ノート1冊を書きつぶすこともあった。
毎日毎日、
ただひたすらに、
それを続けた。
数カ月は続けた。
少しずつ、
少しずつ、
自分が軽くなっていく。
そして、

「やりたいこと」は結局よく分からないが、
「これだけはやっておかないと、死んでも死にきれん」
ということは、ある。
ハッキリと、ある。

そこまで辿り着いた。

よし、
20代は、
それをやろう。
その先のことなんか知ったこっちゃない。

「これだけはやっておかないと、死んでも死にきれん」
ということを、
まとめた。
時間がかかること、まず出来ること、
整理した。
そして、
着々と、
妥協なく、
ひとつずつじっくりとやっていった。

そのひとつが、
レコーディングだった。

自分で作った曲、
自分の中にある音像、
それを、
自分でレコーディング、
徹底的に具現化しよう、
と。




まわりの人達が思っている私の人間像、
それに対し、
『そうじゃない、そうじゃないんだ!』
と、心の中でくすぶっている。
もどかしい…、
もどかしさで日々が埋まっていく。
苦しい…。

その先でレコーディングした音源は、

『これが俺だ!俺という人間だ!』
『こうなんだよ!』
という、
叫びそのものだった。
心の底からの、私の叫びだった。

やっと、叫べた。

やっと、発散できた。

やっと、自分を解放できた。

やっと、心の底からの深呼吸ができた。


ただギターを弾くでは足りない。
ただベースを弾くでも足りない。

自分の感覚で、曲をつくる。
それは、
自分の思う美しさを、カタチにするということだった。

そして、
頭の中だけで留めておくのではなく、
実際にレコーディングして具現化する、
それは、

『そうじゃない、そうじゃないんだ!』
に対する、

明確な、答えだった。

『こうなんだよ!』

『これが俺なんだよ!』




『そうじゃない、そうじゃないんだ!』
という思いに対し、
『こうなんだよ!』という部分がなかった、
それが、
ずっと、
悔しいやら、悲しいやら、腹立たしいやら、
もどかしく、やりきれなかった。

そこが、
くつがえった。

そこを、
くつがえした。


私が、
どれだけスッキリしたことか。
どれだけ嬉しかったことか。



そして、
私の喜びは、
それだけではないのだ。

大学ノートに「書く」という作業を、
これでもかという程にこなした私は、
いつの間にか、
『自分の言葉』を持つようになっていた。

自分の気持ちを言葉にするのが苦手だった私は、
そこも、
くつがえしたのだ。

しかし、
まわりから「あなたはどう思う?」と質問されたときの私の対応の仕方は、
何も変わっていない。
やはり、
相手に合わせてしまう。
相手が安心するような回答を口にしてしまう。

でも、いいんだ。
だって、
『ホントはそうじゃなくて、こうだけどね』
と、
心の中で思えるようになったのだから!

もう、
以前のようなもどかしさに苦しむことはないのさ。


そして、


自分の本当の思い、
面と向かっては言えないけど、
歌詞の中でなら言える、
ということに気付いた。

歌詞を書くとき、
私は、
まず、自分の中にイメージがあり、
そこに、文字数を意識しながら、言葉を当てはめていく。
全体として、
イメージが滞りなく言葉にでき、
俯瞰したときに「美しい」と思えたなら、
そこで完成となるのだが、

そこにどんな恥ずかしい本音が書いてあろうと、
私は、
他人に、
堂々と、それを見せることができる。

面と向かって、本音は言えないが、
歌詞に書いてなら、堂々と本音を見せることができる。

これも、
私にとって、
圧倒的な進歩だった。




若かりし日の私が、
積もり積もった鬱屈を、
これでもか!という程の喜びに昇華した、
その実物が、
これです 👇 

もしよかったら、
聴いてみてください。
23歳になった頃の私の、喜びに満ち溢れた作品です。



ちなみに、全曲歌詞紹介 👇 です。


そして、音楽的側面からの自作解説 👇 です。


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