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人に気づきを与えようとする違和感

思うことがある。

人に気づきを「意図的に」与えようとすること、それを意識して文章を書くことへの違和感について。

最近、あの有名な糸井重里さんが、ほぼ日で毎日コラムを書かれていることを知ってアプリを登録し読むようになった。

コラムの内容は糸井さんが日々の活動で感じられていること、糸井さん目線で世の中に向けて思っていることなど様々。

僕は糸井さんの公開日記のように感じながら読んでいるのだけど、実際のご本人の意図はわからない。ただ読んでいると「あっそれ分かる」「こういう人はそんなところも見ているんだ」「なるほど」みたいに、その文章を受けて、色々と気づくことや感じることがある。

何より面白い。
全然気構えせずに読めるからだ。

あくまでも僕の感想だけど、糸井さんは本当に思うままに書いている気がする。そしてその発信を受けた自分が、たまたま何かと関連付けて気づいている、もしくは考えて何かを導き出そうとひねり出して気づく。

だが果たして糸井さんは、僕(読者)に何かを気づかせるためにコラムを書いているのだろうか。

もちろん文章にはそれぞれの目的があり、基本的には「伝える」ことが大前提にあるのだが、伝える内容は必ずしも相手にとって有益になるとは限らない。どれだけ、相手のことを想った(考えた)としてもだ。

何というか、「こういうこと伝えたらこんな人の役に立つだろう」って考えることが、凄く上から目線な気がしてしまっている。人様に気づきを与えられるぐらい認められている、成功している人は除いて。

気づきっていうのは、そもそも与えるものなのだろうかと。

気づきになりそうなことを書いて「置いて」おくのはいいと思う。ほぼ日の糸井さんのコラムのように、自身の見た物、聞いた物、感じた物を自分を主体として語るように。そこには糸井さんという主体(本人)が中心にいると感じている。

誤解を生むといけないので言うと、誰かのためを思って一生懸命に考えて文章を書くことを否定しているのではない。むしろそれが大事なのも分かる。

気づきは自分で気づくから気づきなのだと思うし、他人に干渉できる領域ではない気がするのだ。

その根幹にあるのは、教育とか指導とか、人に対して何かを「教える」行為は「教えられたい」と思う人が「教えて欲しい」と言ってはじめて成り立つと思っていることに関係しているかもしれない。

気づきを与えることや、人に生き方や考え方を教えるのは、求められることが先にあって、それに応えるという形でこそ、双方にとって意味のあることのように思える。

まだまだ上手くまとめ切れていないけど、これから先も文章を使って何かを発信し続けていくのは変わらないだろうから、もっと考えていかなきゃいけないテーマだ。

僕が他人にできることは、僕自身が一生懸命考えて実験して、そして見つけなくちゃいけない気がする。もちろん、人の教えはありがたいし、どんどんこれからも学びたい。だけど受動的な学びだけでは学びと言わず「ただ知った」だけになりかねない。

他人に気づきを与えられることがあるとしたら、それは自分の気づき体験を脚色せずそのまま書くことではないだろうか。

今のところ、僕はそう思っている。

だから読み手のことを考える前に、ちゃんと自分のことを考えてから書かないと血の通った文章は書けない。

ボールを投げるまでは自分の意思でコントールできるけど、投げてしまったボールを後から変えることはできないのと同じ感じ。だからこそ、発信元である自分を軽んじては良いものを届けることはできない。

今日もいろんな文章を書きながら「伝える」ってどういうことかを考えようと思う。

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