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この手を離さないで ~女神脱走編~

 老婆に背中を押されて、彼の前に少女が立つ。まぶかに被ったフードで顔は見えなかった。今回の遠征で、何度同じ光景を目にしただろうか。彼は大きくため息をついた。少女の手を引き、後ろに控えている80人余りの兵団に向けて歩きだした。

『まて! ねえちゃんをかえせ!』

 村人たちの間をかき分け、彼の足に掴みかかってきたのは、まだ年端のいかぬ男の子だった。最前列の兵がこちらに銃を構える。

 とっさに甲冑を纏った重い足で男の子を蹴り飛ばした。男の子は宙を舞って、どさりと地面に落ちた。駆け寄ろうとする少女の手を引き、彼は兵団の元へ歩く。

 男の子はぴくりともしない。折れたのか鼻から血がドクドクと流れていた。村人は誰一人、男の子に駆け寄ろうとはしなかった。

 『もう、下ろしていいだろう』

 銃を構えていた兵に、彼はそう言った。少女を馬車に押し込みながら、彼はまた大きくため息をついた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 オッチデントは西一帯を統べる大陸一の王国だ。最先端の科学を集約した中央の城は、機械城と呼ばれ、自然の多い大陸には似つかわしくなく、しかし堂々と鎮座していた。城に仕える兵士の数は一万、下働きを含めると十万を超える。

 並んで十人はゆうに通れる広い廊下を黙々とモップで掃除しているその少年は、下働き仲間にヘルトと呼ばれていた。掃除係を五年。はじめて研究所の掃除を任された。

 ふとヘルトは手を止めて昨晩、同じ寮の仲間に言われた言葉を思い出していた。

―――研究所の女神様に会えるかもな。

 ヘルトは一度だけ、『女神』と呼ばれる少女を見たことがあった。

 仲間の臨時で教会の掃除をしていた時のこと、白いケープを羽織った少女は、屈強な兵士に囲まれていた。数十人の熱心な信者の中から、女が歩み出て、少女の前に跪く。女の腕には幼い女の子が抱かれいた。女の子の膝に赤黒い血が見えた。

 少女は女の頬にそっと手をやって、抱えている女の子の膝の傷を見た。

『痛かったね。痛い時は泣いていいんだよ』

 女の子はふるふると首を振った。唇をぎゅっと結んで痛みに耐える女の子に、少女はにこりと微笑みかけると、傷を両手で優しく覆った。傷を包むように柔らかい光が生まれて、瞬く間に消えていった。少女が手を離すと、女の子の膝の傷はまるでなかったように消えていた。

 あの光、見たことがある。教会が割れるような歓声でいっぱいになる中で、ヘルトは静かな視線を少女に向けていた。

『さすが女神様だ!』
『女神様、オッチデントにご加護を』
『奇跡の力は本当だったのね』

 ―――奇跡だって? 違う、あれは【北の魔術】だ。

 ヘルト以外に気付いた者がいただろうか。女神と呼ばれる少女が足を引きずっていたことを、床に落ちた赤い鮮血を。

 女神は国民を騙している。

 その一件以来、ヘルトは女神のことを調べはじめた。女神が使ったのはヘルトの故郷、北の山岳地帯で研究されている魔術のひとつで間違いない。下働きの仲間はもちろん、懇意にしている兵士たちにも、女神のことを聞き回った。

 しかし、調査は一向に進まなかった。分かったのはヘルトと同じ、北出身者独特の白い肌をしているということだけで、女神が、いつ、どこから現れたのかは2週間経った今でも、手がかりひとつ掴めていなかった。

 女神自身の事は分からなかったものの、月の中日、決まった日時に研究所に来ることが分かった。研究所の掃除係になるため、担当区長にそれとなく売り込んだり、掃除係に賄賂を渡したり、裏工作に励んだ。

 同室のスピンにはかなり訝しがられたが、研究所の掃除係が決まると一緒に喜んでくれた。ヘルトが下働きになってからずっと同室だが、本当に気のいい奴だ。何はともあれ、ようやく女神と対面する日がきたのだ。

 研究室から監視の兵士が出ていった。通りすぎる兵士に、ヘルトは白々しく挨拶をして見送った。あの兵士は鍵を締めない。そのまま20分ほど煙草を吸いに外に出る。事前の調査で分かっていたことだった。

 ゆっくりと研究室のドアを開ける。室内はぐるりと機械で埋め尽くされていて、誰が触らなくても、勝手に動いているようだった。中央には大きな円筒状の水槽らしきものがあった。太いパイプがタコの足のように繋がっていた。

 水槽の中に、女神は浮かんでいた。目をつむったまま微動だにしない。今にも折れそうな華奢な体。白いぴったりとした服がそれを一層際立たせた。まじまじと観察していると、不意にぱっちりと女神の目が開いた。
 ヘルトはドキッとした。女神と目が合う。顔を押さえられているかのように、目を離すことが出来ない。ドキン、ドキン、大きく高鳴る鼓動。女神は両手をガラス越しに伸ばしヘルトに向けて言った

 ―――た、す、け、て

 声は液体と分厚いガラスに阻まれて聞こえなかったが、確かに【たすけて】と見てとれた。水槽の中の女神は大きく拳を振り上げて、ガラスを思い切り叩いた。―――たすけて! 今度はしっかりと分かった。

ビィーーー!

 背中から大きな音がなる。非常音か、それともただの作業音なのか、ヘルトには判断がつかない。どちらにしてもこれ以上、ここに居るわけにはいかなかった。ヘルトは水槽に背を向けて走り出した。

 後ろ髪を引かれる思いに胸が痛む。走りながら振り向くと、女神はヘルトの背中を絶望の表情で見送っていた。それを見て、自分でも思いもよらない感情が沸き上がってきた。―――彼女を助けなければ!

 一日の作業をなんとか終え、寮の自室に戻った。同室のスピンが荒々しくいびきをかいている。今夜は眠れる気がしない。女神の絶望に満ちた顔が忘れられない。思い出す度に、助けたいという感情が、幾度も、幾度も沸いてきた。

 一夜明け、ヘルトは腹を決めていた。女神をこのオッチデントから逃がすことにしたのだ。それが自分の使命だと感じるまでになっていた。

 研究室に入るまでは出来た。残り、やることは二つ。女神を水槽から出すこと、脱出ルートの確保だ。脱出ルートは五年の掃除係の経験がものを言った。ヘルトたち下働きは気が乗らない時など、兵士や監視カメラの死角でサボることは日常茶飯事。ルートの構想は練りながら、研究室の機械の調査を進めた。

 機械のことは機密事項に類していて、調べるのは容易ではなかったが、酒の力を駆使し、研究員からなんとか聞き出すことに成功した。オッチデント脱出後の逃走ルートにも気を配り、故郷である北の族長宛に文を出した。

 調査と準備を終えるまで、女神を見ることはなかった。半年が過ぎ、ようやく全ての準備が整った。明日、ついにその日がくる。落ち度はないはずだが、落ち着かない心を冷ますために、窓をあけ冬の夜風に当たっていた。

 『スピン、お前は最高の親友だよ』

 同室の友人にそう言わずにいれなかったのは、気持ちが昂っていたせいだろう。言われたスピンは面食らって、なんだよ気持ち悪いなと言いながらさっさと床についてしまった。ヘルトは窓を閉めて、二段ベッドの下に横になる。早く明日がくればいいという気持ちと失敗したらどのような仕打ちが自分と女神に待っているのかという不安がない交ぜになって、目を瞑ることも一苦労だった。

 女神が連れてこられたのは昼を過ぎた頃だった。いつも午前中なので、ヘルトの計画は早々に狂ってしまった。が、研究室に女神が来たことには、少し安堵した。ヘルトが以前忍び込んだ時と同じ兵士だ。兵士はドアを閉めるのも忘れて、あわただしく機械の設置をしていた。

 水槽に液体が注がれる。女神が薄紫色に染まっていく。その様があまりに美しくて、ヘルトはしばらく目を奪われていた。水槽がいっぱいになるのを見届けて、兵士は研究室を出た。

 ―――作戦決行だ!

 ヘルトはすぐに研究室に入った。女神はいきなりの闖入者に目を丸くした。ヘルトが機械を操作すると、みるみる内に女神を包んでいた薄紫の液体が排出されていく。排出が終わると、自動で水槽のガラスが上に開いた。よろよろとした足取りで女神が出てくる。ヘルトは駆け寄って、肩を支えた。うん、ぬめってない。液体の粘度が高いとうまく走れないかと思ったが、その心配はなさそうだ。
 前回、ヘルトを追い払った音は鳴らなかった。あれがただの時報だったことは調査済みだ。

 この服のままでは目立つ。下働きに配布される上着を羽織らせ、ゆっくりと歩かせる。

『大丈夫? ひとりで歩ける?』

 女神は頷く。肩から手を離し、代わりに女神の手を握って研究室から出る。

『おい! お前たち何してる!?』

 担当とは違う兵士が、なぜかこちらに歩いてくる。担当以外の兵士が来るなんて聞いたことない。

―――逃げるしかない!

 ヘルトは女神の手を引いて、兵士とは逆方向に走り出した。

『おい、待て!』

 兵士の呼び掛けを無視し、ヘルトと女神は無我夢中で走った。―――くそ! どうして今日に限ってこんなに予定が狂うんだ。なぜ今日を選んでしまったのかと、ヘルトは自分を恨んだ。しかし、今、止まるわけにはいかない。左手にある儚い温もりがヘルトを奮い立たせた。目的の部屋まで来た。今のところ、後ろに兵士の姿もない。

 そこは、ゴミ置き場に繋がるダストシュートがある部屋だった。ヘルトはダストシュートの大きな口に駆け寄り、その闇の中に入ろうとしたが、グイっと引っ張られ、バランスを崩しよろめいた。見ると女神が手を震わせて、大きな瞳に涙をためていた。

『大丈夫だよ。ここから外に出られるから』

 そう言っても女神は首を横に振る。ここで押し問答をしてる暇はない。ヘルトは女神の華奢な体を両手で抱えて、ダストシュートの口に飛び込んだ。

 思ったより広くて二人で滑れるのは良かったが、予想より全然スピードが早い。ほぼ垂直に落ちている。真っ暗闇で内臓が持ち上げられるほどの引力を体に受けながら正気を保てたのは、強く握られた右手の柔らかな痛みのおかげだった。

 いきなり何かに体が捕まれ、下方向の引力が、横方向に転換する。未だ暗闇で足は空中のままただ体だけが、何者かの力で引っ張られていた。これは、ゴミを粉砕する刃が壊れないための排除システムだった。

 1m以上の物体は、粉砕刃に届く前にアームで排除する、ということは知っていて飛び込んだヘルトだったが、衝撃的な落下スピードに、頭の中が真っ白で気絶寸前だった。アームから放り出され、とっさに女神をかばって、ヘルトは尻からズドンと落ちた。激痛がヘルトを襲う。女神はすぐに立ち上がりヘルトを心配そうに見つめた。痛みをこらえ涙目でにっこりと笑う。そんな演技が通じるはずもないが、女神も笑顔で返した。

 『おい、いきなりダストシュートから出てきて・・・。どうしたんだよ!?』

 駆け寄ってきたのは同室のスピンだ。だがヘルトの傍にいる女神を見て、目を丸くした。

 『お、お、お前、その娘・・・』

 驚き過ぎて二の句が継げない。遠くから声がした。スピンを探してるようだった。スピンはヘルトから説明を聞かされる間もないまま、二人を背中に隠し、後ろ手に、行け行けと指図した。

 スピンがダストシュートの粗大ゴミ係であることも計算の内。彼なら見つかっても差し支えない。ヘルトはスピンに一言、ありがとうと言い残し、女神の手を引いて走り出した。

 門を抜ければ城の外。昼間は一般の国民も入れるよう解放してある。門兵がひとりいる。大きな背中だ。ヘルトは見覚えのある背中に平手で一撃食らわした。よろける門兵。門兵は即座に顔を上げ、それがヘルトと認識した。

 『なんだぁーヘルト! 昼真っからデートかよ!』

 門兵は笑いながら、走り抜けるヘルトと女神を見た。

 『じゃあな、ドミニコー!』

 笑い返して手を振るヘルト。ドミニコと呼ばれた門兵は、横にいる娘に見覚えがあった。走り去る二人に、ドミニコはそれ以上、動くことも、声をかけることも出来なかった。

 【女神脱走】を知らせるベルが鳴ったのは、それから数十分後のことだった。

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