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「自己肯定感」がなくても習慣化は可能。必須なのは自分への期待

まだ読んではいない本ではあるものの、そのタイトルをみたときに少し違和感を覚えたので、その違和感の正体を探ってみた。

「習慣化」に必要なのは自分への”期待”

なぜ、「習慣化は自己肯定感が10割」という言葉に違和感を覚えたのだろうか?

それは私自身の経験として、コンフォートゾーンを抜け出すための努力習慣を身に着けるために必要なのは、自己肯定感ではなく自分への期待だと感じているからだ。

自己肯定感が低くても自分には”期待”出来る。

自分への期待というのは、自己肯定感が低くても可能だ。

恋愛に例えると、どんなに自信が無い人でも誰かに恋することは出来る。

その恋を成就させるために、たとえ自分に自信が無かったとしても成就させるための努力をすることは可能だ。

清潔感に気をつかうようになったり
ファッションに気をつかうようになったり
減量してシャープなルックスを目指したり
コミュニケーションスキルを勉強しはじめたり

その努力は長期に及ぶこともあるだろう。

たとえその努力が結果的に成果に結びつかなかったとしても、努力のプロセスで身に着けたことは何かしらの形でいずれ役に立つこともあるはずだ。

そう考えたら、”習慣化は自己肯定感が10割”とは言えない。

もちろんあるに越したことはないものだけど。

私はYOASOBIの歌「群青」が大好き。この歌の歌詞でもこんなことを言っている。

何枚でも
ほら何枚でも
自信が無いから描いてきたんだよ
何回でも
ほら何回でも
積み上げてきたことが武器になる
周りを見たって
誰と比べたって
僕にしかできないことはなんだ
今でも自身なんかない
それでも

自信が無いからこそ出来ること、習慣化出来ていることはたくさんある。

習慣化しないことを自己肯定感のせいにすることで生まれる新たな問題

そして、コンフォートゾーンを抜け出すための努力習慣が身につかないことを、”自己肯定感が低い”ことのせいにしてはいけない。

というのも、”自己肯定感が低いこと”を原因にして、「だから自分は習慣化が苦手なんだ」と、そのことを問題視するようになると

今度は、自己肯定感を上げようと、自己肯定感の問題を解決することに意識を向けがちになってしまう。

望ましい自分を実現するために必要な習慣化を身に着けることから、低い自己肯定感を解決するためにいろいろ考えを張り巡らせるようになってしまう。

そうなってしまうと、当初立てた目標はどこかへ行ってしまいがち。

私の例

私も、その自己肯定感とやらは決して高くないと自分では感じている。

いくつか具体的に実績をつくってきたことはあれど、常に社会から葬られそうな不安は感じているし

いろいろな方面における”本命”としている目標はなかなか手に出来ていない。”いろいろな方面”と表現を濁しているものの、それが具体的に何なのかは想像にお任せするとして。

そんなんでも長期間に渡って努力し続けられていることはいくつかある。

その中のひとつに「合氣道の初段取得」がある。

当時、やっているときのストレスは全く感じることなく、努力している感覚を持たずに、突き動かされる衝動だけを頼りに長期間に及んで習慣としてきたことだ。

合氣道は、10代の頃から興味はあったものの、まったく手を付けてこなかったこと。

それが当時ふと何を思ったのか忘れたけど、会社帰りのルートに一件道場をたまたま発見したので見学にいって軽く「氣とは何ぞや」と体験してみたら、そのままハマってしまい、会社帰りに週3~5回もの道場通い。

道場通いだけにとどまらず、家では最低30分の呼吸法やら身体の使い方は年がら年中、寝ているとき以外研究し続けていた。

その甲斐あってか、2年で黒帯が取れてしまった。

その自分に自己肯定感があったか?といえば、「無かった」と断言できる。

当時は、学生時代に患ったうつ病の後遺症の治療のために通院を続けていた時期でもある。

そんな人間の自己肯定感が高いはずはない。

それでも、そうやって望ましい自分を実現するための習慣化は可能なのだ。

習慣化を可能にしたのは、自己肯定感ではなく、その努力を続けていくことで何か新しい自分になれるかも、という自分に対する期待に他ならない。

まとめ

故に断言できる。

習慣化に必要なのは、自己肯定感ではなく、自分への期待なのだと。


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