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建築史家・内藤昌と木割のモダニズム|1950年代、建築モデュール研究と建築史学の復権

『モデュールと設計』という小冊子があります。

日本建築学会が1961年に出版したもので、建築生産の工業化で鍵となる「モデュール」について解説したものです。この小冊子をパラパラめくっていくと、唐突に「日本の木割」と題し、書院造のお屋敷の断面図(図1)が登場します。

図1 「日本の木割」の図

ここにでてくる「木割」とは「建築に必要な寸法を原木にスミツケする技術」。建築工業化に関するゴリゴリの専門的冊子(出版元は建築専門出版社である彰国社)が突然、日本建築史コーナーに変わる不思議な体験。これなんでしょう。

建築史家・内藤昌

日本建築学会建築設計計画規準委員会モデュール分科会のパンフレット『モデュールと設計』。そこに収められたこの図は『匠明』に収録された「殿屋集」と呼ばれる古文書に記された木割の図だとかなんとか。

この小冊子は主としてモデュラー・コーディネーションによる設計の考え方・進め方を解説したものですが、まずここらで、モデュール、モデュラーコーディネーションってなによ?について、『図説・やさしい建築計画』(深水浩、学芸出版社、2011)でおさらい。

モデュール
建築における長さの基準となる単位寸法。また、それに基づいた寸法組織全体をいうこともある。
モデュラーコーディネーション
モデュールに従って、建築物のぜんたいや部分の寸法を調整すること。設計や施工が合理化され、同時に部材の規格化により大量生産が可能となり生産性が向上する。建築物を人間の尺度に馴染ませたり、建築物全体を美しく見せることにも貢献できる。

さて、『モデュールと設計』には、「日本の木割・モデュールの伝統」が4頁にわたり収録されています。さらに「雑工三編・大工棚雛形・座敷向略木割の表」を1頁分掲載するなど、他の章と比べてみて明らかに異色な内容となってます。この不思議な日本建築史(?)パートの執筆者は、建築史家・内藤昌(1932-2012)。

内藤昌(図2)は、近世都市史や城郭を中心とした近世建築史の領域でたくさんの研究をなしとげ、戦後建築史学に大きな貢献をなした人物として知られます。

図2 内藤昌

特に「間」に関する一連の研究に対して日本建築学会賞(1975)を受賞したほか、安土城の復元はセヴィリア万博(1992)日本館に天主復元が展示されるなど大いに注目を集めました。

大河ドラマ30作目「信長 KING OF ZIPANGU」の建築考証なんかもやってます。著書は『江戸と江戸城』(1966) や『新桂離宮論』(1967)、『近世大工の系譜』(1981)などなど。

そんな内藤昌は1932年10月、長野県諏訪市にて生まれました。1955年に東京工業大学理工学部建築学系を卒業。出身は清家清(1918-2005)研です。清家研で後に「“間”の建築的研究」として展開することになる卒業論文をとりまとめ、さらに大学院修士課程では谷口吉郎(1904-1979)研究室に所属。さらに博士課程は藤岡通夫(1908-1988)研究室へ。1960年に学位論文「書院造における間の建築的研究」により工学博士の学位を取得します。

博士号取得後は、昭和女子大学、東京工業大学、名古屋工業大学等で主として歴史・意匠講座において教鞭を執った後、1993年に愛知産業大学学長に就任(2005年まで)。その後、愛知産業大学大学院教授の職を2007年に退いた後、2012年に亡くなりました。

内藤の研究者人生は1950年代にスタートしています。1956年には「空間の表現としての「間」の建築的研究序説」を日本建築学会大会で発表。以後、間の建築的研究として継続的に展開されていきます。

ところで、内藤が研究者としての活動を始動した1950年代は、戦後モダニズムの真っ只中。特にル・コルビュジエ(1887-1965)の「モデュロール(Modulor)」に関する本が日本でも翻訳出版されて、モデュール研究が日本でブームになっていきました。建築寸法の標準化が重要課題として注目された時代。

内藤にとっても例外じゃなく、「空間の表現としての「間」の建築的研究序説」(1956)は清家清がモデュール研究がらみで仕込んだんじゃないかと邪推します。仕掛けた学会活動でも日本建築学会設計計画委員会モデュール部門委員(1958-1963)からスタートし、同じく日本建築学会の建築設計資料集成モデュール部門委員(1959-1961)に任じられています。冒頭に紹介した『モデュールと設計』に登場する日本建築史コーナーはこの流れというわけです。

では当時のモデュール研究はどんな状況だったのでしょう。

日本のモデュール研究

1953年にル・コルビュジエの著書『モデュロールⅠ』が吉阪隆正(1917-1980)の翻訳により出版されました。当時、日本は高度経済成長期にさしかかり、建設産業の近代化が急がれていました。たくさんの住宅需要に対応するためには、建築工業化が必須。その基礎的条件としてモデュール研究が活発化します(注1)。

1955年 雑誌『国際建築』「モデュール(建築尺)」特集
1958年 日本建築学会にメートル法と建築モデュール委員会設置
    日本建築家協会にも建築モデュール委員会設置
    雑誌『建築雑誌』「メートル法と建築モデュール特集」
    雑誌『国際建築』「世界のモデュール」
    同上「公共住宅のモデュラー・コオーディネーション」特集
1961年 雑誌『国際建築』「モデュール」特集
    日本建築学会『モデュールと設計』出版
1963年 日本建築家協会『モデュール』出版
1964年 日本建築学会『モデュール割りと建築生産の工業化』出版
1976年 日本建築センター編『モデュラーコオーディネーション』刊行

こんな怒濤のモデュール研究ラッシュが展開。当時、モデュラー・コーディネーションにどんな期待が寄せられていたのかが知れる貴重な科学映画があります。東京シネマ製作、大成建設企画による「生活と寸法:モデュラー・コーディネーション」(1962)です。

1950年代になされた建築モデュール研究。その研究蓄積に貢献した人物が、横山不学(1902-1989)や池辺陽(1920-1979)、広瀬鎌二(1922-2012)、池田武邦(1924-)、内田祥哉(1925-)、田辺員人(1927-)といった人たちです。

なお、1961年には、日本建築家協会主催「建築展'61:モデュール-くらしの尺度-」が東京、名古屋、福岡、大阪を巡回し、広く一般へ向けてモデュールの重要性を啓蒙する試みが開催されています(図3・4)。

図3 モデュール-くらしの尺度-展

図4 モデュール展の内藤昌パート

こうした動きと併走しながら内藤も、研究論文のほかにも博士課程で師事する藤岡通夫の編集による『世界建築全集3:日本Ⅲ近世』(1959)では、「畳割」の項目を担当。『建築設計資料集成Ⅰ』(1960)でも「江戸時代の木割」を(注2)、そして冒頭で紹介した『モデュールと設計』(1961)では「日本の木割・モデュールの伝統」を執筆するなど積極的に「木割・畳割」について、『モデュール割りと建築生産の工業化』(1964)では「モデュール・歴史的展望」について(注3)、研究成果を発表していきました。

日本建築史学、特に近世都市・城郭研究の研究者として広く知られるコテコテの建築史家にみえる内藤にとって「モデュール研究」とは何だったのでしょうか。それを知るためにも、建築史家とは別の内藤の顔を見てみる必要があります。それはモダニズム建築家としての内藤です。

モダニズム建築家・内藤昌

実は、内藤は博士課程在籍中の1959年に、友人の自邸を設計しています。「人工台地にたつ家」と名付けられたその住宅作品は、雑誌『今日の建築』(1960.5)にも掲載されました(図5)。

図5 人口台地にたつ家

内藤は次のように解説しています。

わたくしは、建築史を専攻している。そのわたくしが友人桜井氏の住宅を設計しようとは思ってもみなかった。計画の話しがもちあがつたとき、なんとなくデザインする気持がわいたことは、いまにしてみれば不思議の一語につきるようである。

てっきり純和風の木造住宅かと思いきや、十字型の平面コアや鉄筋コンクリート造(最終的には地耐力不足から2階部分を木造とした)の採用など、当時のモダニズム住宅を意識した設計に仕上がっています(図6)。

図6 人口台地にたつ家

学部では清家清研究室、修士課程では谷口吉郎研究室に所属した内藤は、建築設計の道へ進むことを夢見ていたようです。かつて建築設計の道を夢見た建築史家という内藤のキャリアは、きっと彼の研究モチベーションへも影響しているのではないでしょうか。

伝え聞いたところによると、あるとき内藤は指導教官である谷口吉郎から「内藤君は歴史のほうが向いているよ」と言われたといいます。そのアドバイスを胸に内藤は立派な建築史家となったわけですが、ちょっとカングリー精神をはたらかせると、谷口のアドバイスは「内藤君は建築設計には向いていないよ」の湾曲表現では中廊下・・・なんて思ったりします。

建築モデュール研究が活発化する1950年代に研究活動をスタートさせた内藤も積極的にモデュール、モデュラー・コーディネーションについて発言していきます。モデュール研究の中心に、「間」の研究を指導した清家清がいたことも影響しているでしょう。

内藤は日本近世の柱間寸尺や木割書に関連した学術論文はもちろんですが、『建築雑誌』、『国際建築』、『デザイン』といった建築雑誌へも積極的に論考を発表する評論家・内藤昌という顔も持つことになっていきます。

間とタタミー日本におけるModuleの伝統、建築雑誌、1958.10
江戸時代のモデュラーコオーディネイション、国際建築、1985.12
モデュロールとタタミモデュール、デザイン、1961.3
日本建築の空間構成と設計寸法、国際建築、1961.8
度(スケール)の歴史、『モデュール講習会資料』、1961.10
歴史的にみた日本のプレファブ建築、建築雑誌、1963.12
日本におけるユニット化の伝統、DNIAS、1966.7

ちなみに、内藤は建築史の研究室をもつようになって以後も、建築設計に関わっていきました。ストライクゾーンたるお城の復元設計なんかのほかにも、名古屋の寺院建築なんかも手がけているそう。

木割=モデュラー・コーディネーション!?

建築モデュール研究において建築史家・内藤昌が演じた役割。それはモデュールやモデュラー・コーディネーションに歴史的で伝統的な意味づけを与えることでした。いわば「木割=モデュラー・コーディネーション」という図式。

木割は木砕とも言われ、建築に必要な部材の寸法を原木にスミツケする技術を意味する。従って広義にはディザインする事を指すのであるが、狭義には単位寸法(モデュール)を使用して統一的な設計をする為の寸法調整法と解される。即ち、今日的な把握をするならば、木割はまさにモデュラーコーディネーション(MC)のことをいい、単にモデュールを意味するものではない。
(内藤昌「日本の木割:モデュールの伝統」1961)

日本の伝統的な建築設計手法が、実はモダニズム建築の重要課題と目されていたモデュラー・コーディネーションの系譜に位置づけられるものであり、西洋の人体比例論や黄金比とも関連したものだと示唆してもいます。

内藤により歴史的・伝統的に意味づけられた木割=モデュラー・コーディネーションの図式は、その他の論考でも反復して提示されていきます。モデュール分科会「モデュラー・コォーディネーション(MC)の方法」(1958) でも、内藤は「桃山期の基準格子の変化」について論述し、先に紹介した「建築展'61:モデュール-くらしの尺度-」では、「木割とたたみ」、「街割りと住まい」のテーマ作成協力を担当しました。

モダニズム建築の重要課題がすでに日本の伝統建築において高度に実現していたということ。さらにはそうした設計手法や理念が息づく日本建築は、人体比例論や黄金比といった西洋古典建築とも関連づけられる、みたいな。

なんだか法隆寺とパルテノンをつなぐエンタシスのお話しや、下手をすると戦前に花開いた日ユ同祖論なんかとも似てしまう論理展開にも受け取れてしまいます。西洋建築は偉大、でもその西洋建築の真髄をすでに日本の伝統建築は実現しているから、日本は西洋よりも偉大、みたいな。

余談ですが、日本古来の木割や畳割とモデュラー・コーディネーションを結びつける言説は、国粋主義が大繁盛した戦前期から存在していて、若き頃の西山夘三が徹底批判したりしています。

ちかごろ往々、日本住宅においては規格の統一された畳なるものがあって、これによって平面が決定され、したがって柱太さが定められ、住宅がかかる標準によって統一されているということを提唱することによって、近代にて問題とされる規格統一のイニシァティーフは日本にありとして国粋思想を満足せしめんとするのをみるが、分析不充分だというべきである。畳の大きさが一定しているということは、あくまでも封建的手工業的生産の一つのあらわれであって、大工業生産の結果における不可避的な規格化とは全然意義を異にするものである。
(「dezam」第7号「建築と建築生産」、1932.12)

そんな、モダニズム建築マンセー下において日本建築を権威づけする内藤の試みは、裏を返せば「第2次大戦直後の建築史講座無用論のモダニズム全盛時代」と内藤自身が回顧する昭和30年代における建築学の雰囲気とも強く関連しているのでしょう(内藤昌「日本(伝統)建築学の行方」1987.1)。

建築界の重要課題である建築モデュール研究に資する建築史学という位置づけは、建築史講座無用論下において建築史学の存在意義を証明する絶好の機会というわけです。モダニズム建築を先取りする日本建築という論法にせよ、実学至上主義下における建築史研究の職域奉公にせよ、「歴史」はつねに外部との関係性のなかで都合良くパッケージしなおされる。

このあたりの屈折具合は、内藤昌がもともと谷口・清家に師事し建築設計の道に進みたかったという事実を踏まえつつ眺めると、なかなか味わい深いものがあります。

その後の内藤は、建築史学の道を究めていく過程で、日本建築史における建築設計技術の衰退過程を強く認識していきました。その忸怩たる思いを込めつつ棟梁へのノスタルジーを綴った成果の一端が『近世大工の系譜』(1981)。

ここでは、古代の「大匠」から中世の「番匠」、そして近世の「棟梁」と変遷を遂げていきながら、江戸末期に棟梁の時代が終焉していくことが描かれています。かつて誇った建築技術が廃れていくプロセスの延長線上に自分が立っているという認識。そこに内藤の悔しさとイラだちがあるように思えます(注4)。

そんな思いは『近世大工の系譜』著者あとがきに触れて確信にかわります。あとがきは、大学紛争で研究環境が破壊されていた思い出話から書き出しているのです。

もはや一昔前のことであるが、昭和四十年代初頭、大学は紛争に明け暮れていた。まさに動乱の時代であったといえよう。研究も思うようにできない毎日が、「学問とは」「建築学とは」・・・・・・といった根源的な問いつめをせまったのであった。私もおよばずながら「日本の建築学」を歴史的に究めたいと思ったりもし、筆を起こしたこともあった。本書のそもそもの草稿は、そうしたさいのメモとして書いていたものである。
(内藤昌『近世大工の系譜』1981)

そこでは学術研究の没落と大工職能の降下が重ねあわされているように思えてなりません(注5)。学の衰退は建築創造の衰退につながる。内藤はそう考えたはず。当然にその背後には、よい意味でも悪い意味でも内藤のエリート意識と屈折があるんじゃ中廊下、と。

さて、後日談。

内藤昌のエリート意識と建築設計実務への屈折した思いを昇華させるチャンスは、「造形学部」のもとに「建築学科」を設置する地方私立大学の学長就任というかたちで巡ってきました。いわゆる工学部建築学科ではなく、造形学部建築学科という枠組みを、内藤は自身のロマン(とルサンチマン?)の発露として捉えていったのでは中廊下と。

その頃は、加藤尚武の環境倫理や工学部を問い直す村上陽一郎の科学技術史観がちょうど流行り始めた頃。そんなムーブメントのなかで、きっと内藤は「造形学部建築学科」構想を練り上げたはず。具体的にはそこで歴史意匠の復権が目指されたのだと思います(注6)。しかし、東工大・名工大を舞台に教育・研究に邁進してきた内藤にとって、複数の専門学校を学園母体とする地方私学を舞台にした歴史意匠復権は、それはそれで茨の道であったに違いありません。

(おわり)



1)難波和彦「モデュールの現在」(『建築の四層構造』所収、INAX出版、2009)や、同じく難波「住宅の寸法」(『新しい住宅の世界』、放送大学教育振興会、2013)が詳しい。
2)『建築設計資料集成1』(1960)。改訂版で新たに設けられた「モデュラコオディネイション」の章には内藤による「江戸時代の木割」が1頁分掲載されている。本章は主査・池辺陽のもと内田祥哉や田辺員人が執筆しているが、内藤はそのなかで唯一の歴史分野の研究者であり、他の項目は部品や組立、規格化、設計例で構成。なお、『建築設計資料集成4』(1965)では、神社・寺院の木割について執筆した。
3)『モデュール割りと建築生産の工業化』(1964)。「MCの方法」、「MCによる設計」、「構成材の工業生産とMC」といった章立てのうち、内藤は「MCとは何か」に収録された「モデュール・歴史的展望」を執筆担当している。日本の伝統として木造の木割を紹介しているほか、人体比例論や黄金比、フィボナッチ数列、モデュロール等について言及した内容。
4)内藤昌「日本(伝統)建築学の行方:建築史学からみた日本伝統様式の設計技術」(建築雑誌、1987.10)のなかで「いかに木構造がみなおされても、文化様態としての伝統建築は、これで全く断絶する危機にあるといえよう。このままで有職故実家的な日本建築史の学究は育っても、いたずらに歴史に埋没して伝統建築を設計できない「歴史の皮肉」を生むだけである」と指摘している。内藤が研究と設計の関係をどのように捉えていたか窺われて興味深い。
5)『近世大工の系譜』は後に文庫版『近世大工の美学』として再出版される。ただあちこちと加筆が加えられていて、メインタイトル変更のほか、サブタイトル「環境倫理としての日本古典建築学」がつく。さらに「序章 近代の大工職能」と「結章 日本古典建築学-美学へ」が追加された。あとがきも増量されているが、やはり学生紛争の話はそのまま。
6)同時に設置された造形学部デザイン学科ではデザイン教育研究の大家・真鍋一男学部長のもと、デザイン教育の復権が目指されたりしています。そのあたりの話はまた別の機会に。

参考文献
内藤昌『近世大工の系譜』、ぺりかん社、1981
内藤昌「日本(伝統)建築学の行方:建築史学からみた日本伝統様式の設計技術」、建築雑誌、1987.1
内藤昌『近世大工の美学:環境倫理としての日本古典建築学』、中央公論社、1997
名古屋工業大学工学部社会開発工学科建築学系意匠計画学研究室『内藤昌著述目録』、1993
愛知産業大学『内藤昌研究著述目録』、愛知産業大学、2007
難波和彦「モデュールの現在」、『建築の四層構造』所収、INAX出版、2009

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