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原始の(プレハブ)小屋|ミゼットハウスにはじまる勉強部屋ブーム

5年ほど前からでしょうか、小屋ブームという言葉が聞かれるようになりました。いま一度、暮らすことや住む家について原点に帰って考える時代なのでしょう。

ハウスメーカーの原点にも「小屋」があります。それは「ミゼットハウス」。日本社会にプレハブ住宅が定着するキッカケともなった「ミゼットハウス」という「小屋」とはいかなるものだったのでしょうか。

原始の小屋

西洋建築史の教科書に「原始の小屋」と題した絵が出てきます(図1)。

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図1 原始の小屋

18世紀フランス、バロック建築の装飾過多などを問題視したマルク=アントワーヌ・ロージエが、著書『建築試論』のなかで示した考えを図像化したものだそう。

修道士であり建築理論家でもあったロージェは、あるべき建築を考えるために、建築の「原点」に立ち戻るべき、と主張したといいます。

樹木は大地からまっすぐ生え、その上方で枝が水平と三角屋根状に架け渡される。これこそ必要に基づく単純明快な自然の原理であり、建築もその原理に沿ってつくられるべきだというのである。こうして、円柱、エンタブレチュア、ペディメントの三要素が建築の真なる表現として抽出された。
(「建築思想大図鑑・第2回:原始の小屋」)

ところで、最近また「小屋」がブームなのだそう。そういえば2017年4月に「無印良品」は、その名も「無印用品の小屋」を販売し話題となりました(図2)。

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図2 無印良品の小屋(下記HPより)

ホームページにはこうあります。

はじまりの小屋。 「気に入った場所でくらす」。だれもがもつ小さな憧れを、かたちにする道具ができました。家や別荘ほど大げさではなく、旅ほど気軽でもなく。山や海、庭など、自分のすきな場所に置けばたちまちその土地の一部となり、もうひとつのくらしがはじまる。そんなイメージから生まれたまっさらな小屋です。
(「無印良品の小屋」HP)

「はじまり」だとか「まっさら」といった表現に「原始の小屋」の残響がこだましているよう。暮らすことや住むことの原点を見つめ直すと「小屋」にたどり着く。小屋ブームの今は、持ち家社会が失調してしまった現代社会にあって、住宅を再考する動きと密接に関連していることでしょう。

そういえば、戦後日本の住風景をつくったハウスメーカーの歴史も、その最初の1ページ目には「小屋」が登場します。それは大和ハウス工業が1959年に販売開始したプレハブ住宅のヒット商品「ミゼットハウス」(図3)。

ミゼットハウスちらし(小)

図3 ミゼットハウス(同商品リーフレット)

小屋ブームな今だからこそ、ハウスメーカー史の原点に位置する「原始の(プレハブ)小屋」=「ミゼットハウス」についてスケッチしておこうと思います。

ミゼットハウスの登場

敗戦間もない1946年のニュース映画「みなさんの聲」には深刻な住宅難の状況が紹介されています。子どもたちは自分の居場所が家になく、外で食事したり勉強したりといった風景にショックを受けます。

その後も、いわゆるベビーブームで家族数は膨れ上がり、住宅問題は一向に解決しない。そんな状況にあった1959年に「ミゼットハウス」は登場します。

手狭となった住宅に増築するのは難しいけれど、庭の片隅に小さな小屋なら建てる余地はある。

しかもそれが3時間という速さで建てられ、しかも11万円程度という低価格。坪数も確認申請が不要な3坪タイプ。販売元である大和ハウス工業は、そんな「ミゼットハウス」を「今日のプレハブ住宅の原点」と言います(図4・5)。

ミゼットハウス2

図4 ミゼットハウスのパンフレット

ミゼットハウス3

図5 ミゼットハウスのパンフレット

仕様は次のとおり。

基礎:コンクリートブロック。経3寸松杭、長さ3尺、四隅打込み土台に鎹止。
床組:土台、大引はヒノキ材3寸角、ピッチ3尺、床板パネル3尺×6尺のハードボード。
屋根:型鋼の棟木及び軒桁にヤネパネル(ハードボード鉄板張り)をとりつける。パネルジョイントは瓦棒を、最後に棟包鉄板を取り付ける。
建具:窓は妻、桁側に各々2カ所中央両開(ラワン材)ニス仕上げ、モールガラス入り、パテ止め。出入口、片開ベニヤフラッシュ扉1カ所、ニス仕上げ、モールガラス。
塗装:柱その他鉄材はオイルペンキ仕上げ、ハードボードパネルは防水耐火塗料仕上げ。

ミゼットハウスが登場した頃は「インスタント時代」。たとえば『週刊朝日』1960年11月13日号は、その名も「インスタント時代です:衣食住なんでも”即席”」と題した特集を組んでいます(図6)。ラーメン、汁粉、コーヒー、凍結真空乾燥食品、冷凍食品、そして組立住宅。

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図6 週刊朝日のインスタント時代特集

なかでも”住宅のレディ・メード”として、インスタント・ブームに拍車をかけたのが、ミゼット・ハウス。大手メーカーの「大和ハウス」は、六年前、資本金わずか三百万円の小会社だったが、いまや三億五千万円。年内に倍額増資するというインスタントぶりである。
(「インスタント時代です」週刊朝日、1960年11月13日号)

お湯を注いで3分待つだけのように「3時間」で組み上がる住宅。それは「住宅一邸ごとに注文を受けて施工するいわゆる請負方式以外に、「商品」として建築を提供するスタイルが消費者に受け入れられることを証明」することにもなります(図7)。

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図7 ミゼットハウス組立風景(アサヒグラフ、1960年3月6日号)

1959年に3カ月程で「ミゼットハウス」を開発し、3坪(約9.9㎡)タイプと2.25坪(約7.4㎡)タイプの2種類が発売された。(中略)価格は坪単価4万円以下、建築確認申請の必要がない10㎡以下の面積とし、「3時間で建つ勉強部屋」として爆発的なヒットとなった。
(新建築編『大和ハウス工業:建築設計の仕事』、2018年)

なお、「ミゼットハウス」は全国27か所の百貨店で展示販売を実施されました。当時はまだ常設型の総合住宅展示場がなかった時代。「請負」ではなく「商品」として登場したプレハブ住宅は「洋家具」のように売られたのでした。

ちなみに「ミゼットハウス」は勉強部屋の用途以外にも、茶室、応接間、書斎、仕事場、店舗などさまざまな利用がなされたといいます。実際のところ、そっけない「無目的な箱」だったわけで、多彩な用途・使われ方に開かれていたのです。

その後、要望の多かった水回りを追加し、少し広くした新婚夫婦向け「スーパーミゼットハウス」が登場。「新しい時代の国民住宅!」と謳って販売されます(図8)。

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図8 スーパーミゼットハウス(同商品チラシより)

プリファブ建築の日本に於ける育ての親、大和ハウス工業は、34年10月ミゼットハウスを発表して以来、多くの人々より好意あるご発言を得てまいりました。その言葉を研究資料に、居住性ある最少プラン14.87㎡(4.5坪)を設計・試作して参りました。住宅を大衆のものにするための市場価格、建材の研究、構造施工の改良等により、国民住宅として、まず恥じない建築技術的工夫をいたした次第です。
(「スーパーミゼットハウス」チラシ)

その後、大和ハウス工業は「ダイワハウスA型」を1962年に発表(図9)。在来工法の一戸建て住宅に遜色ない住宅を手掛け、大手プレハブ住宅メーカーへの道を突き進んでいきます。

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図9 ダイワハウスA型(同商品パンフレットより)

ミゼットハウスへ続け

爆発的な売れ行きを示した「ミゼットハウス」。当然、ブルーオーシャンのままではいられません。

この成功は、住宅一邸ごとに注文を受けて施工するいわゆる請負方式以外に、「商品」として建築を提供するスタイルが消費者に受け入れられることを証明しました。それを知った異業種の企業がプレハブ建築に続々と参入。また、プレハブ建築のために乾式工法等の建築部材を提供するメーカーも次々に生まれ、今日のプレハブ住宅産業を創出することとなりました。
(大和ハウス工業HP)

「ミゼットハウス」によく似た「小屋」たちがたくさん登場します。そんな例をいくつか紹介しましょう。

①カレッジハウス(三井物産)
なんかもう、まんま「ミゼットハウス」ですが、こちらのほうが木質感というか、より木造在来に寄せています。未来感あるプレハブイメージをトーンダウンさせることは、ハウスメーカー各社の課題でした(図10)。

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図10 カレッジハウス(同商品チラシより)

夢を育てる子供の城 成長期のお子様が求めるもの、それは独立・自由・発展です。自分の生活が自分で設計でき勉強の能率もあがる三井のカレッジハウスはプライベートなボクの家。堅牢で経済的です。色彩の調節もこまかく気を配ってあります。
(「三井のカレッジハウス」チラシ)

②ダイケン・ミニホーム(ダイケンホーム)
大建木材工業・大建ウォールボード工業により設立された「ダイケンホーム」の小屋「ダイケン・ミニホーム」。ただし、一戸建てのダイケンホームと同じ構造・工法を用いているそうで、写真からもわかりますが、随分ガッチリしていて建ちも高いです(図11)。

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図11 ダイケン・ミニホーム

お子さまの勉強部屋に、ご主人の書斎に、ご隠居部屋に、もう一部屋ほしい。こんなとき電話でお気楽にご注文ください。ダイケン・ミニホームで、5日以内に離れ座敷が完成します。この一部屋があなたとくらしを、あなたの過程をより楽しく、より豊かにします。
(「ダイケン・ミニホーム」チラシ)

③東芝ミニーハウス(東芝)
6畳や4.5畳の「S形」のほか、同サイズで「鉄骨柱フラット屋根タイプ」、12畳と8畳の「デラックスハウス」があったそう。「S形」は特に「ミゼットハウス」とよく似ています。なお、東芝とあって購入には「東芝電化ローン」が利用できました。(図12)

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図12 東芝ミニーハウスS形(同商品リーフレットより)

個室から小住宅までタイプがそろいました。 東芝ミニーハウスはコンパクトでも居住性能を充分考えました。グラスウールを敷込んだ屋根パネル、窓パネルに取り付けた換気口、電気配線を組込める壁パネルなど、部材は一般住宅なみです。ご使用目的によって、トイレ、間仕切、畳、玄関ひさしなど、別途工事いたします。
(「東芝ミニーハウス」リーフレット)

なお、東芝の住宅事業はさらに大型化・高級化を進め「東芝住宅メイゾン」へと発展していきました。

④勉強部屋(永大産業)
永大産業は「ミゼットハウス」の翌年、1960年に組立住宅で住宅事業「永大ハウス」をスタートさせます。後に「新富士」や「若葉」といった本格的な鉄骨造戸建て住宅を展開しつつ、それと同時に寮、社宅、アパート、事務所などの多用途に対応したプレハブ建築や、別荘、そしてプレハブの小屋も手掛けていました。そしてその名もズバリ「勉強部屋」も(図13)。

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図13 永大ハウス・勉強部屋(同社商品パンフより)

勉強部屋は、子供に独立心を育てるための理想的な環境だといわれます。永大の勉強部屋の広さは4畳半と6畳の2種類。〈キャッスル〉はそのデラックス・タイプです。応接室や書斎、離れ、事務所としてもご利用になれます。お手軽にお求めいただける10カ月月賦の制度もあります。
(「永大ハウス全商品案内」パンフ)

ほかにも数多の会社が「ミゼットハウス」へ続けと、プレハブの「小屋」を手掛けて住宅事業へと参入していったのでした。それを足掛かりに大型化・高級化をはかって一戸建て住宅を手掛け、そして、それぞれのオイルショックへ直面したのでした。

ロケットハウスの参入

そんなたくさんの「勉強部屋」に連なりながら、なんとも不思議なカタチをしたのに「ゴールデンロケットハウス」があります(図14)。

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図14 ゴールデンロケットハウス

広さはわずか2坪と、「ミゼットハウス」よりも小さい。A型とB型の2タイプがありますが、前者はバンガロー、勉強部屋、老人室、番小屋。後者は物置、道具入れ、穀物入れとあって、その差は出入口や開口部、床材といった差しかないので、ちょっと驚きます。

優美なスポーツカータイプのハウス/風速70mに耐え/隙間風、雨モレの絶対ない家/場所をとらず高床式で湿気が上らず/どこにでも据え付け可能/値段は最低で/半永久的に使用出来る革期的ハウスです。
(同商品チラシ)

販売元は日本ハードボード工業。現在のニチハです。

1956年の創業時に社名に掲げた「ハードボード」はいわゆる繊維板で、同社カタログの説明を借りれば以下のようなものです。

木材の繊維を主とした原料を高圧蒸気のもとで蒸煮し、機械で繊維状にときほぐしてからマット状に成形。これを高温・高圧プレスしてつくられています。木材に最も近い材料です。
(ニチハ『内外装建材総合カタログ一般地域用』、2019年)

主要都市が一面焼け野原になったがゆえの圧倒的な住宅不足の解消だけでなく、占領軍用の建築物・公共施設の建設も求められた当時の建設業界にとって、建築資材である木材の確保は喫緊課題でした。にもかかわらず、樺太・朝鮮・台湾の森林を失い、国内の山林も乱伐によってはげ山になっていました。

そこで枝条・間伐材といった未利用材、合板・製剤などから生じる廃材・屑材の利活用・合理化がもとめられたわけで、そうした時代の機運のなかで日本ハードボード工業は誕生します。このあたりの経緯、詳しくは『ニチハ40年史』(1997年)に詳しいです。

思えば、「ミゼットハウス」を生み出した大和ハウス工業の創業者・石橋信夫は、実家が奈良県吉野郡川上村の林業家であり、石橋自身も吉野林業学校卒業後、満州営林庁敦化営林署勤務。敗戦からのシベリア抑留後、吉野中央木材株式会社取締役に就任するも、国内のはげ山、そして空襲によって焦土となった都市をみて鉄骨造建築で祖国を復興する道を選んだのでした。

大和ハウス工業にせよ日本ハードボード工業にせよ、空襲、敗戦、そして在来木造ではない住宅の探究は密接につながっているのでした。そんな日本ハードボード工業が1962年に売り出したのが「ロケットハウス」。「ミゼットハウス」から3年後のことです。

ハードボードの曲げ加工・耐水性などの特性を活かして、屋根、壁一体構造の小屋を製作・販売しました。とはいえ「ハードボードをPRしたにとどまり、住宅としては完成された商品ではなかった」(ニチハ40年史)といいます。

とはいえ、これをベースに日本ハードボード工業は住宅商品の充実を目指します(図15)。「ロケットハウス」は「ゴールデンハウスA型」に改称されます。

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図15 商品ラインナップ(同商品チラシより)

その後、旺盛な住宅需要のもとでプレハブ住宅が脚光を浴びるなか、住宅分野への本格的な進出を図るため研究、開発を行い、事業化のめどがついた40年7月、“物置小屋からデラックス住宅まで”をキャッチフレーズに「ゴールデンハウス」の商品名で、物置、勉強小屋、小住宅、一般住宅の4種類の鉄骨構造プレハブハウスを販売した。
(ニチハ『ニチハ40年史』、1997年)

日本ハードボード工業が住宅事業へ本格進出した1965年には、すでに大和ハウス工業、積水ハウス、三澤木材(後のミサワホーム)、ナショナル住宅建材(現パナソニック・ホームズ)といったハウスメーカーが創業していました。

また日本ハードボード工業と同じく建材業から住宅へ進出し、勢力を伸ばしつつも後に撤退することになった永大産業も住宅事業に取り組んでいました。

「ゴールデンハウス」は中部地区を主戦場にこうした住宅産業に殴り込みをかけ、1962年からスタートした住宅金融公庫のプレハブ住宅融資、さらに1966年にスタートした政府の住宅建設5ヵ年計画にも後押しされて急成長していったのでした(図16)。

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図16 ゴールデンハウス栄展示場(同社社史より)

その後、「ゴールデンハウス」は民間住宅、市営住宅への採用が相次いでいきます。1966年、名鉄奥田駅近くの奥田団地にて土地付分譲住宅として「ゴールデンハウスK型」を販売、さらに同年に名古屋市市営住宅に「ゴールデンハウスEⅡ型」が指定され、市内各地の住宅団地に建設されたといいます。

1966年4月に営業部ハウス課を廃して、新たにハウス事業所を設置。さらに売れ行き好調で、伊藤忠商事・中村合板・日本ハードボード工業の3社出資によって、ハウス部門は別会社化、1969年に「ゴールデンハウス株式会社」となりました。その後、1971年には経営主体が岩倉組へと変わります。

住宅ブーム真っ盛りの時代に住宅事業へ進出していった日本ハードボード工業の「ロケットハウス」。「ミゼットハウス」へ続けとばかりに開発されたであろう「プレハブ小屋」が、その後紆余曲折を経ていったのでした。

岩倉組へと経営主体が変わった後、創業から半世紀を経た今も、実は「ロケットハウス」の子孫たちは作られ続けています。それは「イワクラゴールデンホーム」。

「ゴールデンハウス」は1973年に「イワクラゴールデンホーム」に改称。その後、1978年に在来工法による木造住宅販売を開始、その後もツーバイフォーや新築マンション、そしてリフォーム、スチールハウスを手掛けるなど住宅ニーズの変化に対応しながら多彩な展開を遂げてきたようです。そして2018年には創業50周年式典を挙行したそう。

多くの「プレハブ小屋」たちが消えていったことを思うと、もはや「ロケットハウス」の面影は皆無とはいえ、なんだか「おぉ、生きていたのか~」とうれしくなります。

小屋・平屋への回帰

さて、いまふたたび「小屋」が注目されています。そんなムーブメントの代表格が「YADOKARI」。同社ホームページには「YADOKARI」についてこう紹介しています。

これからの「豊かさ」とは。
インターネットインフラが整った今、ひとつの場所に固執し暮らしていく必要がなくなりつつあります。YADOKARIは、「ミニマルライフ」「タイニーハウス」「多拠点居住」を通じ、暮らし方の選択肢を増やし、「住」の視点から新たな豊かさを定義し発信していきます。そして、場所・時間・お金に縛られないライフスタイルを実現し、人生の満足度、幸福度を向上させることを目指します。
(同社ホームページ)

「もっともっと自由に暮らしていきたい」ためには「シンプル」に考え「ミニマル」に生活することが重要だと謳われています。ここでもまた暮らしや住まいの意味が「原点」へと遡って再考されています。

また「小屋」に続いて「平屋」人気も高まり、冒頭に紹介した「無印良品」もまた「陽の家」と名付けた平屋建て商品の販売をスタートさせました(図17 )。

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図17 無印良品の家「陽の家」(同社HPより)

パンフレットには「平屋は、快適な家の一つの理想と言えるのではないでしょうか」と謳われていて、ここにも、そもそもに遡る「原始の小屋」的な語られ方をみることができます。

大手ハウスメーカーもこれまであまり前面には押し出していなかった平屋建て商品に注力しはじめています。たとえば積水ハウスの「RIRAKU里楽」や「HIRAYAの季」、大和ハウス工業の「xevo GranWood」や「xevo Σ平屋暮らし」、ミサワホームの「Granlink HIRAYA」や「SMART STYLE A HIRAYA」など。

そのほか、積水化学工業やパナソニックホームズ、旭化成ホームズなどなど大手ハウスメーカーはほぼ全社が「平屋」の商品開発に励んだのでした。思えば1960年代前半まで、プレハブ住宅といえば平屋建てがあたりまえだったわけで、高度成長にともなって「持ち家といえば2階建て」に。

いまふたたび「平屋」、さらには「小屋」へと回帰して「暮らしとは、住まいとはなんなのか」を問い直す時代となりました。それは「ミゼットハウス」の頃から延々と膨張しつづけてきた「持ち家幻想」から解放されたといった楽観的な意味合いだけではないでしょう。同時に「戦後復興期の貧しさに後戻りした」と冷笑すればすむわけでもない。。。

もっともロージエの原理主義的な主張は、あくまで古典主義の伝統の範囲内でなされていたから、過剰・奇抜な装飾を否定したといっても、一足飛びに無装飾の建築とまではいかなかった。
(「建築思想大図鑑・第2回:原始の小屋」)

「持ち家幻想」からの解放は、はたしていかなる「範囲内」でなされているのでしょうか。

(おわり)


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