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即席ラーメンとプレハブ住宅|すぐ/どこでも食べられる/建てられる

インスタントラーメンとかインスタントコーヒー、インスタントカメラといった表現はよく聞きますが、インスタント住宅という言葉も昔はちょいちょい使われていたようです。そして、最近になってまたインスタント住宅なる用語が使われるように。それは3Dプリンターでつくられる家。

インスタントにものをつくるロマンは、人類の夢でもあるのでしょう。インスタント住宅の究極は、漫画『ドラゴンボール』に出てくるカプセルコーポレーション社製「カプセル住宅」みたいに、ポイッ!と投げてBOM!とできあがるもの、あるいは、なかがわりえこ・おおむらゆりこによる絵本『そらいろのたね』に登場する、種に水をあげるとどんどん育つ住宅でしょう。

そんなインスタント住宅。同じく「インスタント」を掲げるインスタントラーメンと共通している部分も多々あります。そこで以下、両者を対比的にみていきながら、戦後の食文化と住文化の交錯をみてみたいと思います。

雑誌『図解製作』のインスタント住宅特集

ヤフヲクでたまたま見つけた雑誌『図解製作』1961年春号(電波技術社、1961.4)(図1)。この雑誌、1960年4月創刊で、年4回刊行されたようです。ただ、いつまで刊行されたのかは不明。雑誌の副題は「100マン人の趣味と実用の工作誌」。

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図1 『図解雑誌』1961年春号

この号の特集は題して「すまいの工夫とアクセサリー」。ソフトな特集名ながら、巻頭を飾るのはバックミンスター・フラーの「フラードーム」ときて、なかなか硬派な路線です。記事名は「未来の建築:フーラー博士と“インスタント住宅”」(図2)。

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図2 「フーラー博士と”インスタント住宅”」

時代の空気を少しでも感じ取るために、ちょっとこの号の目次を拾い出してみましょう。

未来の建築、フーラー博士とインスタント住宅
コウノトリと競争して買った一家族の記録
アメリカの簡易組立住宅

市販組立住宅を解剖する
 「骨組みパネル式住宅」電建エイコン住宅
 「パネル式組立住宅」セキスイハウス
 「パネル式組立住宅」大和ミゼットハウス
間取の研究:メーカーが推薦する間取り集
 太平住宅の間取り
 殖産住宅の間取り
 日本電建の間取り
最新の建材:種類と用法
 プラスチック建材とは
 誌上新建材展示室
メーカー新商品紹介
すまいの防火・防犯
すまいのアクセサリー集

1958年の「ミゼットハウス」販売から俄然盛り上がりをみせる新建材を用いた組立住宅にクローズアップした「すまいの工夫とアクセサリー」特集号であることが伝わってきます。

チキンラーメン時代のプレハブ住宅

大和ハウス工業の勉強部屋「ミゼットハウス」が1959年に販売開始されヒット(図3)。その後、他社も追随して類似商品を次々に打ち出していきます。

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図3 大和ハウス工業「ミゼットハウス」

そして次第に商品も大型化。後のプレハブ住宅ブームへとつながっていきます。で、さっきのフラーの記事タイトルにもあるように、この頃に「ミゼットハウス」などは「インスタント住宅」と呼ばれていたのです。当時、「チキンラーメン」(1958年)が大ヒット。世は「インスタント時代」と呼ばれていた(週刊朝日、1960年11月13日号)(図4)。

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図4 週刊朝日「インスタント時代です」

戦後復興期に建てた小住宅が手狭になってきたのを商機と捉え「3時間ですぐに建つ」ことを売りにした「ミゼットハウス」は、「たった3分ですぐに食べられる」ことを実現した「チキンラーメン」とよく似ていることに気がつきます。日清食品と同様、大和ハウス工業も急成長していきます。

なかでも”住宅のレディ・メード”として、インスタント・ブームに拍車をかけたのが、ミゼット・ハウス。大手メーカーの「大和ハウス」は、六年前、資本金わずか三百万円の小会社だったが、いまや三億五千万円。年内に倍額増資するというインスタントぶりである。
(「インスタント時代です」週刊朝日、1960年11月13日号)

同時多発的に生まれる製造法/構工法

日清食品の繁栄を築いた創業者・安藤百福が開発した「チキンラーメン」。その画期的な即席麺の誕生については、実はもともと台湾の郷土料理である素麺を油で揚げた伝統食・鶏糸麺(ケーシー麺)がオリジナルだという説があります。百福自身、呉百福という名の台湾人であり、当然に知っていたはずだと。また、「チキンラーメン」より先に即席麺が商品化されていたといいます。

敗戦後、台湾は独立して中華民国になりました。そのため百福さんの国籍は中華民国に変更されています。その同じ台湾出身の陳栄泰(大和通商)が、チキンラーメンより前に即席「ケーシーメン」を商品化し、昭和33年に東京の百貨店で販売していました。それを大阪でも販売するために、関西の代理店三倉物産が設立されました。興味を持った百福は早速その会社の株主になり、日本人の口に合うようににんにくを使用しない、麺を太くするなどの改良を加え、改めて「チキンラーメン」として販売したという話もあります。それが8月25日だったことから、日清食品はその日を即席ラーメン記念日にしています。
(吉海直人『暮らしの古典歳時記』、p.77)

同年には、同じく台湾出身の張国文も即席麺「長寿麺」を販売。それぞれ特許出願し、特許騒動・元祖問題が巻き起こったそう。社会=庶民の口にどう着地させるのか

さすがにそうした泥沼闘争はおきなかったものの、「ミゼットハウス」もまた全くのオリジナルかといえばそうではないでしょう。組立住宅の試行錯誤は戦前からありますし、戦後復興期には前川國男の「プレモス」はじめ木質系の組立住宅が複数開発・製造されています。「ミゼットハウス」を皮切りに続々登場した組立住宅の企業化について、城谷豊はこう指摘します。

一見突然に出現したかのようなこの画期的な企業化の現象も、広義の技術という点からすれば戦前からのプレハブ技術の蓄積と開発のうえに成立したものといってよく、しかも技術進歩を含めた経済的・社会的状況一般の進展のなかで初めて実現したものである。
(城谷豊「プレハブ住宅産業」、p.264)

ただ、企業化のムーブメントを「広義の技術という点」からすればそうですが、個々の事例にフォーカスするとこれまた違ってきます。ルーツはあるといえばあるけれども、かといって直接的な影響はないようなのです。

この企業化が過去に蓄積されたプレモスその他のプレハブ技術の直接的継承としてでもなく、また住宅公団が開発を進めていたティルトアップ工法とも全く関連なく実現した経済的・社会的背景について正しく評価する必要があろう。
(城谷豊「プレハブ住宅産業」、p.270)

材料の量産が可能となり、その販路を開拓するために組立住宅開発の必要に迫られた。「主要な動機は鉄やプラスチック製品を売ることにあった」のだと。そこには後から振り返ることであったかのように見える系譜は見当たらない。大和ハウス工業の商品開発に深くかかわった東郷武は「ミゼットハウス」や「ダイワハウスA型」といったプレハブ住宅開発に際して、参考にした事例があるかとの問いにこう答えている。

特別参考にしたものがあるとは聞いていませんね。ただ青木敬二郎さんは勉強していましたから、グロピウスのトロッケンバウの考え方は頭にあったんじゃないかな。A型をやるときには。
(松村秀一ほか『箱の産業』、pp.27-28)

あきらかにルーツが想定されるのに、開発者自身にとっては、それほど直接的影響があったわけではないと認識しているのは、パクリの隠ぺいではなくって、本当にそうなんだろうなぁ、と思えます。同時多発的に新たな技術の開発が行われる。単線的に整理できる系譜は、あくまで後世から見ての視点なのでしょう。

いままでにない商品を販売する

また、販売方法=売るための仕組みづくりがヒットの味噌になったのも、共通するポイントかと思われます。試行錯誤を繰り返し、晴れて世界初の即席麺として誕生した「チキンラーメン」は、販売にあたって壁に突きあたります。

この斬新すぎる商品は、「こんなけったいなもの、どないもなりますかいな。持ってお帰り」「うどん1玉6円でっせ。乾麺でも2つは買えまっしゃろ。誰が6倍もの金かけて、ラーメン買いますかいな」と、保守的な体質をもつ食品問屋からは門前払いを喰らった。
(藤沢太郎『ぼくらのメイドインジャパン』、p.111)

食品問屋の「常識」の壁を迂回し、百貨店での直接販売や新聞広告で、消費者に直接訴えることにした。これが成功。売れることが理解できた食品問屋からも取引がはじまったという。以降、怒涛の爆売れ状態へ突入したのでした。

「ミゼットハウス」もまた、今までにない商品であったため「どのように売るのか」というモデルが存在しませんでした。まだ、常設型の総合住宅展示場もない時代。そこで「ミゼットハウス」は、銀座松屋、池袋西武、日本橋白木屋ほか全国27か所の百貨店で展示販売されます。「請負」ではなく「商品」として登場したプレハブ住宅は「洋家具」の延長線上に位置づけられたのでした(図5)。

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図5 「大丸特選」なミゼットハウス

しかも、商品名は当時はやっていた「ダイハツ・ミゼット」(1957年)にあやかり「ミゼットハウス」。

「ミゼット」などという商品名に、いずみたく作曲、吉武マキコ作詞の歌、松島トモ子、ザ・ピーナッツというマスコットガールまでつけて、広告宣伝を行った点にも、販売方式としての新しさがあった。
(松村秀一『「住宅ができる世界」のしくみ』、p.66)

さらに販売に拍車をかけたのが東芝が販売にかかわるようになったこと。「ミゼットハウス」の開発で中心的役割を担った吉村義治はこう証言しています。

実は加速度的に量が増えたのは、東京の東芝さんが売ってくれたからなんです。「東芝ミゼットという名前で売らしてくれ」という話が東芝さんからありまして、調印しました。東京での東芝さんのブランド力ってすごいですね。すでに10回払いとかで洗濯機、テレビ、冷蔵庫などを売っていましたから、それと同じようにミゼットハウスの割賦販売を東芝がやってくれた。
(松村秀一ほか『箱の産業』、p.26)

デパートでの現金売りに加えて、割賦販売の買いやすさも加わり、飛ぶように売れたといいます。インスタントラーメンもプレハブ住宅も、庶民にとって馴染みのない商品は、どうやってつくるかとあわせて、どうやって売るのかという販売手法・販売網が生命線になることがわかります。

もう一つ。さきほどリンクを貼った吉海直人氏のコラムには、販売にまつわる興味深いエピソードも紹介されています。

商品の売れ行きに関しては、百福のチキンラーメンがダントツでした。その理由がまた面白いのです。というのも、会社名をサンシー殖産(中交総社)から日清食品に変更したことが功を奏したからです。
(吉海直人「チキンラーメン誕生秘話」)

なぜ、「日清食品」に社名変更したら売れたのか。チキンラーメンが販売された1958年は、皇太子殿下と正田美智子様が婚約された年であり、美智子様の実父・正田英三郎が「日清製粉」の社長だったから。「日清製粉」のブランド力の恩恵にあずかったのです(例えば悪いですが「豊田商事」ですよね)。これは、当時まだベンチャー企業だった大和ハウス工業の「ミゼットハウス」が「東芝ミゼット」という名で販売することで飛躍的に売り上げが伸びたことと似ています。

カップヌードル時代のプレハブ住宅

「チキンラーメン」と「ミゼットハウス」の同時代性を見てきました。では、「チキンラーメン」の成功からふたたび食文化に革命を起こした「カップヌードル」はどうなのか?「チキンラーメン」を欧米で販売しようと模索するなか、そもそも欧米には「どんぶり」と「箸」がないことに気づきます。「麺をカップに入れてフォークで食べる新製品」が課題となった瞬間です。

その課題への回答が1971年9月18日に販売となった「カップヌードル」。「どんぶり」がない場所でも、お湯さえ注げば、どこでも食べることができる。このコンセプトに対応するプレハブ住宅ってなんでしょう?それは、レジャーブームに乗じて地方の別荘地でも簡単に建設できるユニット式セカンドハウスではないでしょうか。

たとえば利昌工業が沖種郎と共に手掛けたFRP製住宅「フローラ」は「カップヌードル」の翌年、1972年に誕生しています(図6)。

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図6 利昌工業「フローラ」(出典、下記サイト)

海浜別荘用レジャーハウス「サンレポー」も同じ1972年(図7)。レジャーブーム、大阪万博を経て、日本列島改造論で拍車のかかった当時、十分な施工体制がない地方に最先端の別荘住宅を実現するのに、プレハブ住宅は最適だったのでしょう。

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図7 昭和アルミニウム「サンレポー」

ユニット型住宅のチャンピオン「ハイムM1」も実は別荘タイプもあって、やはり販売開始は1971年でした。

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図8 ハイムM1別荘タイプ(出典:下記サイト)

ただ、そうした背景ゆえにオイルショックを受けて、その後のユニット住宅によるセカンドハウスは影をひそめることになります。いまふたたび小屋ブーム、平屋ブームとなっていますが、どんなインスタントラーメンが対応するのでしょうか。日清食品が開発した宇宙食ラーメンに対応するプレハブ住宅とは?

中央研究所の精鋭が集められ、10人のメンバーで「ドリーム10」という名前のプロジェクト・チームが作られた。NASDAに話を持ちかけると、日本人の宇宙飛行士はラーメンを宇宙に持っていきたいという要望が強く、ぜひ共同研究に取り組みたいという返事が来た。2003年に予定されていた野口聡一宇宙飛行士のフライトに向けて開発が始まった。(中略)宇宙食ラーメンが完成し、「スペース・ラム」と名づけられた。
(安藤百福発明記念館編『転んでもただでは起きるな!』、p.115)

そんなこんなで「インスタント」を切り口に「すぐ建てられるミゼットハウスと、すぐ食べられるチキンラーメン」「どこでも建てられるフローラと、どこでも食べられるカップヌードル」という対をつくってみると、ややカングリー精神ながら、食文化と住文化がゆるやかにつながっていることを再確認できます。

安藤百福の戦時組立住宅

ちなみに「チキンラーメン」や「カップヌードル」の生みの親である安藤百福は、戦時中、朝ドラの万平さんみたいに根菜切断機だけつくっていたわけではなく、メリヤス(死語?)で財をなし、軍用エンジンの部品製造、動員学徒の教育に用いる幻灯機の製造へと事業拡大、さらには疎開先の兵庫県では、簡易組立住宅の建設へも手を出しています。

兵庫県相生市では、戦災にあった人のために十平方メートルほどのバラック住宅を製造する仕事に関係した。規格化された柱や壁材を現地で組み立てるのである。これは、現在のプレハブ住宅のはしりではないだろうか。何か人の役に立つことはないかと周辺を見渡すと事業のヒントはいくらでも見つかった。
(安藤百福『魔法のラーメン発明物語』、p.30)

そう思うと「チキンラーメン」誕生物語の舞台となった「研究小屋」もなんだか、いかにも戦時組立住宅っぽく見えてくるではありませんか(図9)。

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図9 百福の研究小屋(出典:下記サイト)

(おわり)

参考文献
1)城谷豊「プレハブ住宅産業」、金沢良雄ほか編『住宅問題講座9住宅生産』、有斐閣、1970年
2)松村秀一『「住宅ができる世界」のしくみ』、彰国社、1998年
3)藤沢太郎『ぼくらのメイドインジャパン:昭和30年~昭和40年代』、小学館、1999年
4)安藤百福『私の履歴書:魔法のラーメン発明物語』、日本経済新聞出版、 2008年 
5)松村秀一ほか『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』、彰国社、2013年
6)安藤百福発明記念館編『転んでもただでは起きるな!:定本・安藤百福』、中央公論新社、2013年
7)野口均『逆境のリーダー・石橋信夫』、ダイヤモンド社、2015年

※見出し画像は、写真AC内、はまこJAPAN氏による「カップラーメンとお箸」(ID:2343510)です。

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ミゼットハウスについては以前、こちらにも書きました。ミゼットハウス3部作、これにて完結です。


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