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まちを目指したプレハブ住宅|積水ハウス「テラステン」

住宅産業ブームに乗って登場

今年、2018年は和田アキ子歌手デビューから50年であるだけでなく、通産省官僚・内田元亨の「住宅産業:経済成長の新しい主役」(1968)が中央公論に掲載されブームが勃発した「住宅産業元年」から50年でもあります。

1959年の「ミゼットハウス」登場以後、大和ハウス工業や積水ハウスが着実に技術開発を進め、試行錯誤のなかプレハブ住宅・住宅産業の基礎を固めてきた甲斐あって、1968年には自動車産業の次を担う未来産業=住宅産業と謳われるまでになったのでした。

そして1971年、積水ハウスは創立10周年を迎えた記念商品住宅として、専用庭付き2階建連棟式分譲テラスハウス「テラステン」を販売開始します。それはどんな住宅だったのか。特徴を社史は次のように記しています。

構造体を共有し、庭を前後に集約することによって、敷地を最大限に有効活用しながら、自然と住空間を融合した戸建感覚の住宅を目指した。日本で初めてとなる軽量鉄骨造の分譲テラスハウスであった。

『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ』、2010

1階をパブリックスペース、2階をプライベートスペースとし、ユニット家具の配置やセントラルヒーティングの採用、さらには電線地中埋設等の試みもなさたこだわりよう。なかなかの先進的提案だったことがわかります。

伊保原レジデンスパークとテラステン

ちなみに、『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年の歩み』(1990)には「名古屋営業所ではトヨタ自動車工業の社員分譲住宅用に大量に採用」されたことが記されています。

社史にはそれ以上、細かく記述されてはいませんが、これはトヨタ自動車が従業員の持家取得のために関連会社・トヨタ住宅を通して住宅開発した豊田市伊保原団地、通称「伊保原レジデンスパーク」のこと(写真1)。

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図1 伊保原レジデンスパーク内のテラステン(google先生より)

1969年に設立されたトヨタ住宅(今のトヨタホームとは異なる会社)はトヨタ自動車とその関連会社の福利厚生を手がける会社。地方から流入してきた若年労働者が持家取得の適齢期になってきたことを受けて、1971年から75年にかけて豊田市伊保原に住宅開発を展開しました(田中勝「リタイヤメント・コミュニティの再生手法に関する研究」1996)。

この住宅開発は『アール・アイ・エー建築綜合研究所30周年記念1953~1983』(1983)によれば、トヨタ住宅から発注を受けてRIAが線を引いたもので通称「豊田伊保原団地計画」(1969)。全720戸のうちの一部を積水ハウス名古屋営業所が受注しました。

実際、現地に赴くと2階建てのテラスハウスがゆったりと建っており、住戸を緩やかに雁行させて共用庭を設けている様が意外と心地よい空間となっていて好印象。その住環境の先進性は『トヨタ自動車株式会社住宅事業20年史』(1996)でも紹介されています。

テラステンへと至るプレハブ住宅の発展

そんな「テラステン」ですが、その元となったのが壁勝ちのモダンな外観を備えた「H型」(1969)(図2)。これを共同住宅向けに発展させたのが「HA型」(同じく1969)。共に「B型」(1961)で採用されたユニバーサル・フレームシステム=Bシステムを採用するなど、積水ハウス創立以来、発展させてきた10年間の総決算が「テラステン」だったのです。

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図2 積水ハウス「H型」

日本における商品化されたプレハブ住宅の第1号が大和ハウス工業の「ミゼットハウス」で1959年。ただし、これは水回りのない勉強部屋。翌年の「セキスイハウスA型」(1960)で核家族が暮らす一軒家に展開。さらに平屋建てから2階建てへ、とプレハブ住宅もその技術を向上させてきました。

「テラステン」販売の1971年は、積水ハウスの元・親会社だった積水化学工業が「セキスイハイム(後のM1)」の販売でもって住宅産業に参入した年でもあります。プレハブ住宅はそれまでの技術の蓄積を経て、高度工業化路線へと舵を切ったのでした。

住宅単体からコミュニティ提案へ

「テラステン」開発の経緯が、野田経済研究所『ヒューマンスペースへの挑戦:積水ハウス急成長への秘密』(1973)に登場します。開発にあたった太田博信は、イギリス・バースの三日月型連続住宅=クレッズント形式(1769、ジョン・ウッド)にヒントを得て、この「テラステン」を構想したとのこと。

当時の社長・田鍋健はそのアイデアを高く評価。田鍋は「住宅による人間性の回復」を標榜しつつ、人口増大を続ける日本社会にあっては戸建て住宅には限界がくること、とはいえ高層住宅は非人間的だと懸念していました。太田の提案は、単体としての住宅ではなく、連棟型の住宅が町を構成するという発想でした。田鍋にとって太田の提案は願った叶ったりなものでした。

勉強部屋から平屋建て、そして二階建てへと展開してきた日本のプレハブ住宅。積水ハウスは創立から十年目にして、プレハブ住宅という家づくりから町づくり・コミュニティづくりへと成長した。それを世に示すのが太田博信のロマンだったのです(ちなみに、太田は自ら高幡不動の「テラステン」に入居したそう)。

それゆえ太田は電線の地中埋設でコストアップするのを嫌がる社内に対して、テラステンのねらいが「住宅を売ることと同時にコミュニティをも併せて売る、そして町づくりをすることにある」といって説得したといいます。

ここまではイイ話。とはいえ、マンションでも戸建てでもない「テラステン」は日本人にとってやはり馴染みの薄いもの。販売当初は苦戦したといいます。地道なセールス活動の甲斐あって、「テラステン」の居住性・環境性は次第に評価され、以後、積水ハウスだけでなく他社もテラスハウスの開発が進んでいきました。

新たなステージへ離陸した頃の息吹を

「テラステン」は販売開始から40年以上の歳月を経ており、既に取り壊されたものもありますが、いまでも街でみかけることができます。先に紹介した豊田市の事例のほかにも、藤沢市、静岡市、そして東久留米市などなどをGoogle先生が教えてくれます。

たとえば東久留米市のテラステン滝山(図3)。

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図3 テラステン滝山(Google先生より)

ストリートビューで眺めてみると、外壁はたぶん塗り替えているであろうものの、比較的オリジナルな状態で保たれているようです。

あるいは名古屋市天白区のテラステン。ところどころリフォームや建て替えが行われています(図4)。

天白区表台テラステン

図4 天白区のテラステン(Google先生より)

こちらは新座市のテラステンむさし野。複数のお住まいで外回りをリフォームしたり、3階部分を増築したりといった、それぞれの住みこなしぶりがうかがえます(図5)。

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図5 テラステンむさし野(Google先生より)

あるいは静岡市のテラステン池田(図6)。8棟が小ぶり建っています。

テラステン池田

図6 テラステン池田(Google先生より)

なんかレトロな住宅だナとしか思えない住宅であっても、それが生まれた経緯や詳細を知ることで、俄然違った味わいが得られます。「テラステン」も、プレハブ住宅が町づくり・コミュニティづくりへ離陸することを決定づけた歴史的住宅。ぜひ皆さまも、そうした歴史の趣をご賞味いただければ幸いです。

ちなみに、テレサ・テンが日本で初ヒットを出したのは1974年ですので、「テラステン」のネーミングには影響していないはずです。

(おわり)

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