セキスイハウスA型

セキスイハウスA型|バーバパパと「プラスチックの夢」

住宅展示場に並ぶモデルハウスではさまざまなキャラクターがお出迎えしてくれます。たとえば、トヨタホームは鉄腕アトム、ミサワホームはミッフィー。

鉄腕アトムは製鉄所で大量の電力を使用するため「原子力ナシには動けないロボット」を、ミッフィーは日本の住宅がウサギ小屋と揶揄されたことを逆手にとったブラックジョークとして選ばれたものです。

冗談はさておき、1999年からバーバパパをキャラクターに使用していたのが積水ハウスです(ただ、現在はもう降板)。正確には積水ハウスの現場見学イベント「住まいの参観日」のキャラクター(なお、先代は佃公彦のイラスト)。もう「住まいのさ~んか~んび~」というバーバパパ一家のコーラスを聞くことはできません(図1)。

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図1 住まいの参観日チラシ

さて、積水ハウスとバーバパパ。ちょっと落ち着いて考えると、マスプロダクションによる画一化・規格化・工業化住宅の最大手メーカーと、セルフビルドと多様性を尊ぶバーバパパでは、なんだかミスマッチに感じられませんでしょうか。というか、ミスマッチどころか真逆?これもまたブラックジョーク?

実はミスマッチどころか、積水ハウスとバーバパパは「プラスチック=夢の新建材」で結ばれた深い絆があるのです。そんな両者の関係を知るために、まずは積水ハウスのはじまり、1960年にさかのぼってみましょう。クルクルバビンチョパペッピポ、ヒヤヒヤドキッチョのモーグタン!

セキスイハウスA型の誕生

積水ハウスの歴史を紐解くとき、その第1ページを飾るのが「セキスイハウスA型」(1960)です(図2)。

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図2 「セキスイハウスA型」チラシ

販売当時は未だ積水化学工業ハウス事業部(後に、積水ハウス産業、さらに積水ハウスへ社名変更)。しかも商品名は「セキスイハウス」で、「A型」とはチラシには記載されていません(プラン番号として、A1-S型など表記)。

この「セキスイハウスA型」、1963年に建築した「山崎家及び臼井家別荘」が2016年8月、プレハブ住宅として初の国(文化庁)の有形文化財(建造物)に登録されます。大和ハウス工業・ミゼットハウス(1959)の翌1960年に販売された「A型」は、水回りも備えた「家族が暮らせる一戸建て」として初の「国産工業化住宅」でした。

話は脱線しますが有形文化財になった「山崎家及び臼井家別荘」は、一見したところまったく「セキスイハウスA型」には見えません。どちらかというと後継機種「セキスイハウスB型」に見えるほど。この「A型に見えない改変がなされている」こともまた、個人的には有形文化財たる意味合いがあると思うのですが、それはまた別の機会に。

話を戻して、「セキスイハウスA型」の謳い文句は「鉄とアルミとプラスチックがガッチリとスクラム組んだ新しい住宅」でした。従来の「木と紙と土」でつくられた家から「鉄とアルミとプラスチック」の家へ。この大転換は、総合化学メーカーである積水化学工業のプラスチック需要拡大といった思惑だけでなく、新時代の新住宅を新技術による新素材で実現するという使命感もあったはずです。

当初は柱・屋根・壁などオールプラスチックでつくりあげることを妄想。そのネタ元はアメリカのディズニーランドに建設されたモンサント社の「House of the Future」でした。

ただ、やはりオールプラスチックは難しい。ならば、なるべく多くの部材をプラスチックでまかないたい、という試行錯誤の結果がこの「A型」なのでした。

商品パンフでは「セキスイハウスと従来の住まいはどこが違うか」と題して①保温性および保冷性、②堅牢性(台風・地震に強い)、③防湿性、④居住性、⑤色彩(カラフルな住まい)、⑥短工期、⑦衛生的、を挙げています。

ちなみに、「A型」の開発にあたった技術者たちにはある共通点がありました。

プラスチックハウスの開発に取り組んだ技術者藤野、石本の2名は、建築現場は未経験であった。それだけに伝統的な普請感覚で、古い因襲にとらわれる既成の建築技術者よりも、従来の常識に左右されない自由な発想で開発が進められるという思わざるメリットもあった。
(積水ハウス『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』)

この「開発」におけるメリットが「販売」におけるデメリットにつながるのですが、それはまた後ほど。

バーバパパのいえさがし

そんなこんなで、積水ハウス創業にプラスチックが大きく関わっていたわけですが、じゃあ、「バーバパパとプラスチックって関係あるの?」というと、実は大いに関係あるのです。

その手掛かりを得られるのが、バーバパパのフラッグシップ・シリーズ第3作目『バーバパパのいえさがし』(1971)(図3)。主人公バーバパパが独身時代に住んでいた住まいが手狭となり、家族全員が楽しく住まえる新たな住まいを探す旅にでるのが物語の発端。

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図3 バーバパパのいえさがし

家さがしの過程で、せっかく見つけたステキな中古住宅から追い出されたり、鉄筋コンクリート造のアパートに押し込められたりしながら、画一的で不健康な都会を出て、郊外に家族みんな協力しながらセルフビルドした住まいを建設する(図4)。そんな内容です。

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図4 セルフビルドした住まい

絵本らしくも露骨に表現されているように、自宅建設は、画一的なアパートを否定し、自分らしい住まい=生き方を探し求めるお話となっています。クライマックスは宅地開発にやってきた建設業者の重機たちを駆逐し、セルフビルドの住まいを守ってメデタシメデタシ。

このほかにも、『バーバママのだいくさん』(1993)では、洗濯場の修繕を全くやってくれないパパに業を煮やしたバーバママが、自ら設計、木材加工、そして施工までを一貫してやってしまう活躍が描かれていて、『バーバパパのいえさがし』と共通したテーマが見いだされます。

建築畑ではよく知られていますが、『バーバパパ』の作者のひとり、アネット・チゾン(1942-)は建築設計の仕事をしていました。伴侶でもあるタラス・テイラー(1933-2015)は生物・数学の先生。チゾンの経歴が影響してか『バーバパパ』シリーズにはユニークな空間表現や、建築や都市、さらには地球環境などへの眼差しを随所に垣間見ることができます。

さて、話がそれてしまいましたが、バーバパパたちがセルフビルドした際の建材がプラスチック(図5)。あの不思議な住まいはオールプラスチックの住まいなのでした。さらには、建設業者を駆逐する際に使われた武器もまたプラスチック。

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図5 プラスチックで家づくりする

バーバパパたちにとっては、自らが自由であること、多様であることのための道具であり武器であるのがプラスチックだったのです。

もっと言えば、バーバパパたちが自由自在に体のカタチを変えられるその「可塑性(Plasticity)」もまたプラスチックの象徴でしょう。

バーバパパの第一作目が発表されたのは1970年。カフェでたまたま隣り合った二人がテーブルクロスに落書きしていた「バーバパパ誕生秘話」は、まさにパリ五月革命(1968)前後の空気のなかで作られたもの。

あらゆるものに異議申し立てがなされた当時の雰囲気を生きながら、特に建築家と教育者であった作者たち(1968年の時点でチゾン26歳、テイラー35歳)は、何に夢を見て、何に異議申し立てたのでしょうか。

1950-60年代、「プラスチック」はファッション、インテリア、雑貨などあらゆる生活文化を彩る素材として注目されていました。そんな当時の時代的な雰囲気が刻印された「プラスチックの夢」がバーバパパの物語にも投影されているのでは中廊下と思うのです。

日窒コンツェルンの夢

積水ハウスが無謀にもオールプラスチックの夢を追いかけたのは、当時の経営母体が積水化学工業だったから、というのは先述したとおり。この積水化学工業について少しばかり補足説明が必要です。

積水化学工業は戦後間もない1947年に積水産業という名で設立されます。ただし、これはGHQによる財閥解体の結果生まれた会社であって、その出自は日本窒素肥料を筆頭とした日窒コンツェルンにあります。

野口遵(1873-1944)率いる日窒コンツェルンは、戦前より石灰窒素・硫安の製造のほか、人絹工業、合成アンモニア製造にも成功し、朝鮮にも進出して巨大化した大財閥でした。太平洋戦争の敗戦に伴い海外の資産を全て失い、国内の水俣工場(チッソ水俣!)・延岡工場のみになったものの、戦後日本社会を牽引したチッソ、積水化学工業、旭化成へと継承されていきます。

住宅産業的な関心からすれば、積水ハウスも、セキスイハイムこと積水化学工業も、ヘーベルハウスこと旭化成ホームズも、元を辿れば戦前には同じ会社だったことになります。

そんな日窒コンツェルンですが、既に戦前からプラスチックの製造もしていました。旧日窒系の優秀な技術者が積水化学工業に合流、「7人のサムライ」と呼ばれる彼らがプラスチックメーカーとしての地歩を固めていったのでした。それは戦前に巨大勢力を築いた日窒コンツェルンが敗戦の混乱で全ての在外資産を失い、さらにはGHQによる財閥解体を受けた悲劇への一大リベンジだったのでしょう。

ただ、残念ながら「セキスイハウスA型」は市場に受け入れられたとは言いがたい展開を遂げていきます。建築現場は未経験という技術者集団が発揮しえた「開発」におけるメリットは、市場が求める家らしさを逸脱するという「販売」におけるデメリットにつながったのでした。

その失敗を建築学者・西山夘三(1911-1994)は積水ハウス30年史のなかで次のように記しています。

A型は斬新な新時代の住宅として大きな話題となり、新奇なものを進んで試みてみようとする知識人、医者、技術者などの買い手もあらわれて社会的にも注目されたが、合計207戸で中止しなければならなかった。A型を商品として積水ハウス産業は35年8月に資本金1億円、従業員34名の会社でスタートしたが、3年間で9000万円の累積赤字を抱えた。(中略)素材の信頼度についても少々不安で、風変わりな形であり、古い木造住宅の伝統や慣習がまだ根強く存在していたから、新しい需要を大きく開拓することには成功しなかった。
(西山夘三「積水ハウスとプレハブ住宅の歴史」1990)

玄人ウケする「A型」(※1)。発表翌年に積水ハウスが投入した「B型」(1961)は、ユーザーからの要望を全面的に取り入れたものの、何というか、全くもって大和ハウス工業と違わない外観の「フツーのプレハブ」になります。そこには「未来感が皆無」だったのです(図6)。

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図6 B型が建ち並ぶ住宅地

でも、そんな「B型」は、その後にバージョンアップやバリエーションの拡張を経て積水ハウスを業界ナンバーワンの地位へと押し上げる重要な役割を担うことになりました。こんな地味なのに。「House of the Future」への憧れも、「プラスチックの夢」も薄らいだ、その「セキスイハウスB型」は、なによりも市場ニーズに沿った住宅なのでした。

別の言い方をすると、積水ハウスは売れるものに対する柔軟な「可塑性(Plasticity)」を最大の武器にしたハウスメーカーへと成長したのでした。(※2)

市場ニーズへの柔軟さは、旧来の木造在来工法や、それを手がける大工・職員組織すらも再編していくほどの影響をもたらします。市場の思いを受け止め、最大の満足と安心を提供する「さあ、コンサルティング・ハウジング。」というわけです。

(おわり)


1)A型の発表会には、建設省の若手技術者や建築家の黒川紀章らが来て絶賛、歌手の江利チエミも「わたしもこんな家に住みたい」と言ったという。野田経済研究所『ヒューマンスペースへの挑戦』。
2)この点について『ヒューマンスペースへの挑戦』では次のように語られている。「A型ハウスでは大量のプラスチックが使用されていたが、日本人には馴染み深いのは木材であると考え、B型ハウスでは内装に合板を主体とした木材の使用にふみきった。これこそ最大の発想の転換といわねばなるまい。なぜなら、積水化学がプレハブ住宅を開発した動機とは、プラスチックの需要開発がそのねらいであって、それがいくら別会社になったとはいえそのプラスチックの使用を押さえ木材使用に変えたということは大変なことである。積水ハウスという会社は、この例でもわかるように、それが正しいと思えばたとえ出発時点と考え方が違っていても、いつでも自由にそれを方向転換してしまう。換言すれば、いつでも需要家の立場に立って物事を考え、正しい真の姿の需要とは何かをいつでも求め、その方向にいつでも切り替かえて進んでいくことができる。」(pp.32-33)

参考文献
1)積水ハウス『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』積水ハウス、2010
2)積水ハウス『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年史』、積水ハウス、1990
3)野田経済研究所『ヒューマンスペースへの挑戦:積水ハウス急成長の秘密』、野田経済研究所、1973
4)みづゑ編集部編『絵本のつくりかた2』、美術出版社、2004
5)松村秀一ほか『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』、彰国社、2013
6)松村秀一監修『工業化住宅・考:これからのプレハブ住宅』、学芸出版社、1987
7)遠藤徹『プラスチックの文化史:可塑性物質の神話学』、水声社、1999
8)竹原あき子『魅せられてプラスチック:文化とデザイン』、光人社、1994

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