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建築学者・延藤安弘【1】|まちづくり論の黎明期として1970年代頃の住宅産業研究を捉えてみる

2018年2月8日、延藤安弘先生は天国に召されました。享年78歳。不思議なご縁から何かと目をかけてくださった先生に、まだ提出できていない宿題がいくつかあります。そんな宿題の一つについてのお話しです。

「まちづくり」論と「住宅産業」研究

かれこれ6年ほど前、たまたま延藤先生と立ち話する機会を得た際、数日前Facebookに書き込んだ内容についてコメントをいただきました。

その投稿とは、建築学者・西山夘三(1911-1994)が戦前に用いた「住宅産業」という言葉と、戦後に通産省官僚・内田元亨(1925-1996)がバズらせた「住宅産業」という言葉。この二つを比較考察してみたい、というもの。

いつもの笑顔で「あれ、おもろいやないか」とおっしゃられた延藤先生。わたしは「あ、ありがとうございます!」と口にして、そのあとは挨拶程度に済ませてしまい、どう「おもろい」のかはちゃんと聞かず仕舞いに。そのことは今になって後悔しています。

なぜその際に突っ込んで聞かなかったのかといえば、当時まだわたしの頭のなかで、延藤先生と「住宅産業」がつながってなかったから。「まちづくり」の研究と実践で八面六臂のご活躍をされる延藤先生は、もちろん西山夘三研究室ご出身と知ってはいたものの、「まちづくりの人」という印象しかありませんでした。

実はそうでもない。いや、むしろ「住宅産業」は、延藤先生と何かと縁のある問題、というか、延藤先生の「まちづくり」論を芽吹かせた土壌だったのでは中廊下。実際、延藤先生の博士論文は「都市住宅供給の計画的研究」(1975)、英文タイトルから引けば「Housing」に関する研究でした。

1970年代とその前後、つまりは延藤先生が京都大学巽研究室の助手だった1967年から1985年までの研究活動に「住宅産業」から「まちづくり」への展開を読み解いてみたいナ。そう思うようになったのはここ最近のこと。

ということで、延藤安弘先生の「まちづくり」論の黎明期として1970年代前後の住宅産業研究をみることで、「まちづくり」と「住宅産業」という別物にみえる対象を連続的に観察する視点を得てみたい。そして、そこからの見晴らしをもとに、これからの住まいやまちのあり方を考えてみたい。そんな風に思っています。

2つの『ジュリスト増刊総合特集』

1983年。当時、京都大学助手だった延藤安弘先生(1940-2018、以下敬称略)の論考「人間的規模の共同性による住宅改革運動」が『ジュリスト増刊総合特集』の第30号(1983.3)に掲載されています(後に『集まって住むことは楽しいナ:住宅でまちをつくる』1988に収録)。

1975年から1986年にかけて出版されていた『ジュリスト増刊総合特集』(有斐閣)はコアでボリューミーな論集でたびたび住宅関連特集も組まれています。

なかでも延藤の論考が掲載された『現代日本の住宅改革』(1983)と、さらに6年遡った『現代の住宅問題』(1977)の2冊は、ともに西山夘三のほか、名だたる西山門下の先生方が文章を寄せていてなんとも味わい深い。

延藤の論考「人間的規模の共同性による住宅改革運動」は副題を「関西のフロンティアたちの動向」と題するもので、当時、新しい住宅改革運動として注目されつつあったコーポラティブ住宅の試みを取り上げています。

論考が掲載されたちょうど1年前には、コーポラティブ住宅の金字塔ユーコート建設の運動がスタートしています(1982年3月~)。この論考はいわばそうしたコーポラティブ住宅建設の動きを理論付けるものとして機能したのだろうと思われます。

延藤の文章は後年のものと比べるとなんとも硬い文体。でも、個々にちりばめられた概念は晩年にまで連続するテーマや姿勢に貫かれていることに気づきます。

さて、そんな『ジュリスト増刊総合特集』ですが、1983年の『現代日本の住宅改革』と1977年の『現代の住宅問題』の両方に延藤の師・西山夘三が寄稿しています。その論考は、前者には「日本人の住意識」、後者には「住宅と人間居住の今日的課題」とそれぞれ題されたもの。

西山の論調は一貫していて、住宅産業や持ち家政策に疑義を突きつける。乱暴に要約すれば「ハウスメーカーあかんやろ」です。

西山夘三、巽和夫、延藤安弘

西山自身、戦時下の『國民住居論攷』(1944)で「住宅産業」のビジョンを示し、さらに戦後の庶民住宅の質向上に全力投球してきました。それにもかかわらず、内田元亨の「住宅産業:経済成長の新しい主役」(1968.3)をキカッケに起きた住宅産業論ブームを経た1970年代後半には、彼の思い描いた住宅産業像とは大きく異なる世界が現れていました。

戦後住宅産業の実態解明とその善導というテーマは、次第に戦後住宅産業のオルタナティブをどう打ち出すかに軸足を移していくわけで、その延長線上に「まちづくり」が登場してくる。言い換えるならば「住宅産業」と「まちづくり」は住宅改革運動を蝶番に対をなしている、と言えなくもない。

ちなみに『現代の住宅問題』には当時、延藤が助手として所属していた巽研究室を率いる巽和夫(1929-2012)も論考を寄せています。巽の論考は題して「住宅産業のあり方-国民福祉に向かって」。住宅産業の功罪を指摘しつつも、正しい方向へと導く道筋を模索した内容になっています。

住宅産業に対する西山夘三の恨み節を枕に、巽はいかにしてその住宅産業を善導するか模索し、延藤は住宅産業へのオルタナティブをコーポラティブ住宅に見出そうとした。そんな構図がうかがえる『ジュリスト増刊総合特集』です。

西山の問題意識を軸に枝分かれしていく巽と延藤という構図は、それ以後の巽と延藤の研究活動がどう展開していったかを思うと、なんとも感慨深いものがあります。この構図をいくつかの側面から読み解いていくことで、戦後住宅産業のありさまを照射していきたいナと思います。

そのための枠組みとして「(都市プランナー・まちづくり活動家となる前の)建築学者・延藤安弘-京都大学助手時代(1967-1985)の研究活動-」を掲げてみます。この文章はその【序】という位置づけで。

(つづく)

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