見出し画像

明るい農村住宅の嫁と姑|戦後農村生活改善の理想と現実

進取の嫁と固陋な姑

いつの時代も嫁姑問題はあるもの。

太平洋戦争に突入した翌年に出版された『科学メモ』(科学主義工業社、1942)。序文には田んぼに農薬をまこうとするのを姑に反対される嫁のエピソードが紹介されています。執筆したのは労働科学の父・暉峻義等(1889-1966)。

農薬がいかに役立つか、その効用について姑の理解を得られない嫁。しょうがないので、嫁は家族が寝静まった頃を見計らって田んぼに農薬を散布します。その決死の覚悟の甲斐あって、稲の病害を阻止し、明るい農村へ一歩前進しましたとさ。めでたしめでたし。という話。

ここでの「嫁vs.姑」の図式はそのまま「科学vs.迷信」の対立として描かれています。暉峻はこうまとめます。「科学の生活活動への導入と、知性にもとづく生活活動の建設は、先ずこれら固陋な信念、頑強な権力を克服しなくてはならない」と。

序文を書いた暉峻は嫁の正義を疑わなかったに違いありません。でも、農薬の功罪を知る今日的視点から見たとき、姑が農薬に反対したことを「固陋」な態度として切り捨てるわけにもいかないでしょう。今ならむしろ科学至上主義の犠牲者としての姿を姑にみるかもしれません。

とはいえ、姑の反対は今日的視点で、先見の明でもってなされた主張ではありませんでした。農薬という自然の対称性へ介入する暴力を抑制する論理は、科学が持つ至らなさを乗り越える「科学」によってではなく、暉峻が言うように「固陋な信念、頑強な権力」に依って立つものだったのだから。

窓を大きくひらきましょう

遅れた農村を科学化する。農村生活改善は、家族本位の間取り、主婦労働の軽減、設備の導入、農作業の分離(後に食糧増産や農作業の合理化へも展開)などを目指す運動でした。

建築分野では、特に採光や換気に難アリな現状の農家を解決するため、開口部を新しく設けることを推奨します。いわゆる「窓開け運動」です。

記録映画「窓ひらく:一つの生活改善記録」(東京シネマ、1958)では、そんな窓開け運動の熱気を感じとることができます。

1960年代に制作された「生活改善の歌」でも次のように歌われています。

窓を大きくひらきましょう
光がいっぱい射すように
そよ風そよそよ来るように
明るい住居はみんなの胸に
元気な希望を持ってくる

知恵でくらしをたてましょう
工夫がいっぱい重なれば
あの夢この夢ふくらんで
ゆたかでたのしいくらしの花が
みんなに笑顔をもってくる

力あわせて築きましょう
たのしく栄える家や町
仲よくしっかり手をくんで
伸びゆく時代の夜あけをかざる
いのちの花束咲かせましょう

(作詞:奥村艶子、補作:西条八十、作曲:古関裕而)

「明るい住居」は元気な希望と結びつけられ、当然に選ばれるべき選択肢とされたのでした。

「新しい家相」のモダニズム

農村には、西山夘三(1911-1994)をはじめ多くの研究者、技術者、生活改善普及員などが入り込んで生活改善が行われました(図1)。

図1 農村の住生活改善関連本

そこでなされたたくさんの「改善」も、なかには「改悪」と呼ばざるをえないものもあったそう。

そのことを西山夘三も批判しています。台所改善が一種の流行と化し、専門家たちが自己満足的に「改善」を夢想し、農村へ押しつけているというのです(「農村建築研究会第四回総会に当たってのメッセーヂ」、『農村建築』、1953.9)。

そんな「改善」が横行する状況を、西山は「迷信的な「家相」になぞらえてよい一つの「新しい家相」となりつつある」と断じました。

実際、農家住宅は地域ごとに異なる気候に適応していたはずの開口部が、闇雲な窓開け運動により台無しにされた可能性もあります(宇野勇治「伝統民家における環境調整手法と現代への応用の可能性」、2003)。

閉鎖的な農家にとにかく開口部を設けようという欲求の背後には、戦前から戦後にかけて農村生活改善を駆り立ててきた衛生への強迫観念がまずはあったはずです。暗く不衛生な住環境に甘んじる農村を正しく導くには、農村住宅に「明るさ」をもたらす採光がとにかく最優先されたのでした。

でも、それだけだったのでしょうか。カングリー精神を働かせると、また違った受け取り方ができなくもありません。

「建築、それは採光された床である」とル・コルビュジエが言ったように、採光(とそれを実現する板ガラス)はモダニズム建築の、そして近代の象徴でした。医学や家政学、建築学等の近代諸科学を裏付けに展開された窓開け運動は、農村に生きる人々の生活とは別に、近代化を夢見た専門家たちにとっての自己実現のフィールドになったのかも。

そんな夢想の背後には、戦前・戦後を通して語られてきた、日本建築とモダニズム建築の親近性も見逃せないように思えます。中世貴族の住まいにみられる「開放的な空間」が、モダニズム建築と「見えがかりはまったく同じ」だという受け取り方です。

それこそ『徒然草』の第五十五段「家の作り様は夏を旨とすべし」にみられる「開放性」への貴族趣味が脈々と続いているようにすら感じられます。

モダニズム建築の美学を通して日本の伝統建築を捉える。そんな欲望は、もともとは閉鎖的だった農家をも、雨戸も襖も取り払われた「開放的」な空間と見なしはじめます。でも、実際の生活のなかで、そんな住まい方をする思考も、そして余裕もなかったのが農民の置かれた社会的地位でした。

ここに至って木造建築の典型例に位置づけられた農村住宅は「開放的な空間」を実現する軸組(フレーム)にまで抽象化されたのでは中廊下と。

図2 久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」

それこそ、久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」(17世紀後半)(図2)的な住まい像が、日本版「原始の小屋」として位置づけられ、農村住宅に投影されていったのでしょう。

そして姑になる

冒頭で紹介した『科学メモ』。その序文を書いた暉峻義等は、科学の実践者である嫁の正義を疑わなかったに違いありません。そういう時代でした。

でも、現代に生きる私たちは、姑の反対は「固陋」な態度と切り捨てられない経験的な知恵と繋がっていたことも知っています。農村生活改善の代名詞=窓開け運動もまた、「明るい農村住宅」を実現する成果をもたらしたと同時に、農家から「閉じる」ことを奪うという副作用をもたらしたこともまた事実です。

同様に、もう一つの農村生活改善の代名詞=改良カマドも、後に「嫁殺しカマド」と呼ばれるようになったことを建築家・清家清(1981-2005)が紹介しています。どうして「嫁殺し」なのでしょうか。それは「農家の嫁にとっては、むしろ従来の燃えの悪いカマドの前に座っている間が憩いの一刻であって、誰も付いていなくても良く燃えるカマドは、嫁の唯一の憩いの場さえ奪ってしまった」からだと言うのです。

本当は嫁の地位の改善のほうが先行すべき重要な事実であるのに、カマドの改良のほうが先行してしまった本末転倒の実例。(清家清『住居Ⅰ住生活論』、1985)。

これもまた西山夘三が懸念した「新しい家相」の弊害でしょう。

とはいえ、改良前の状態が良かったわけではありません。それはそれで劣悪な状況にあったのもまた事実です。それゆえ、江戸までは良かった、近世マンセーというわけにはいかない。ただ、改良すべき対象を見間違ってはいけない、ということでしょう。

農家の台所改善については「嫁殺し」だけでなく、腰曲がりの老人が多い地区でも嫌われたり、食事の場が「栄養摂取作業」になってしまったと言います。ほかにも、熱効率のいいカマドや窓開け運動によるガラス窓の熱損失、コンクリート土間による断熱性低下などで冷え性の婦人に害が及んだりしたそう(佐々木嘉彦「農家の台所改善」所収『住生活論』1990)。

さて、後日談。

玉石混淆ながらも進められてきた地道な農村生活改善という農村近代化の試みは、功罪相半ばしながら高度経済成長の荒波に丸ごと飲み込まれてしまいます。農村近代化はなし崩し的に「実現」したのでした。

その結果たどりついた先が、西山夘三らが目指した社会主義でもなく、モダニストらが夢見た合理主義でもなく、都会と田舎の差異を埋め合わせてくれる資本主義であったことは皮肉な結果といわざるをえません。でも、田舎の人々も都会生活がしたかったのです。それを誰が批判できるでしょう。

この顛末は、農村に生きる当事者ではない専門家が陥る「夢想」の寓話といえなくもありません。かつて農村が非衛生で不合理な状態に置かれ、それゆえ「改善」は正義であったことは間違いない事実。「江戸時代がよかった」では済まない。ただ、何をもって「改善」なのか、その見極めはなんとも難しくあります。

それこそ、戦前に農薬を散布し稲を病害から守った進取の気風ある嫁とて、戦後になってカマドの見張りから解放された嫁をいびる姑になったのではないでしょうか。

人の考えや主張は、歴史や主観、認識図式などにドップリ浸ってなされるがゆえ、先見の明があった「嫁」ですら、なんの矛盾もなく固陋な「姑」になれます。農村や民家、そして木材や木造建築を語るとき、往々にしてわたしたちは知識に拠って「嫁」として振る舞い、同時にロマンを胸に「姑」になるのかもしれません。

ことほどさように嫁姑問題は難しい。

(おわり)

サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。