転用時代

「創造的代用」というレトリック|真に日本的な〈新建材〉住宅の誕生

既製品ばっかりだな

とある日曜日、モデルハウスに来たお客様は、そうは言わないものの明らかに設計士とそのクライアントの夫婦という3人組。というのも、こちらの案内・説明そっちのけで、部屋の広さや詳細などを互いに話し合うばかりなので。

そんな遠慮せず正直におっしゃっていただければ、それに資するように説明するなり、奥に引っ込むなりの対応が可能なのですが、やっぱり先方は先方で引け目があるのでしょう。夫婦は終始遠慮がちでした。

たまたま設計士(とおぼしき男性)とわたしが二人っきりになったとき(ひょっとしたら背後に私がいることに気づかず?)設計士がボソッと、でも軽蔑気味に口にした言葉が「既製品ばっかりだな」でした。

いやいや、それ、CoCo壱番屋に来て「カレーばっかりだな」って言うのと同じなんですけど・・・。そりゃあ全て既製品ですとも。E大産業で埋め尽くされた建具、建具枠、フローリング、幅木、廻り縁、積層カウンター・・・。

むしろその既製品に託された歴史とロマンをご存じないのか。そこを相対化できずしてクライアントをモデルハウスへ案内するデメリットをどうお考えなのか。。。

とかなんとか思いましたが、小心者ゆえそうとも言えず、またその設計士さんが大事にしたいであろう世界も、自分なりに想像でき、また尊重したい世界でもあるわけで、ただ「ご来場ありがとうございました」とお見送りしたのでした。

戦争と代用品

戦時中には兵器をつくるためにお寺の鐘から鍋や釜までもが供出されたエピソードは本やテレビを介してよく知られる話です。

国際的に孤立する日本にとって資源不足は死活問題。建築界でも木造建物建築統制規則(1939)などによって各種建築資材の配給が開始され、鉄筋は竹で、カーテンレールは段ボールで作られたいわゆる「代用建材」が続々とあらわれました。

空襲に弱い木造住宅も同様。そのままでは焼夷弾にやられてオシマイですので、外壁にモルタルを塗りたくる「木造家屋防火改修」が積極的に推奨されました。

それは、本当は不燃建築=鉄筋コンクリート造にしたいのだけれども、そういうわけにもいかないので、木造住宅の外壁をコンクリートもどき=モルタル塗りにするというものでした。

やむを得ず「代用」をキメたのです。

逼迫した戦時下の状況にあって、代用物資を「創造物資」と言い換える提言も登場します。それは川本鈞一「創造物資と意匠」(『建築雑誌』1942.12)。「欲しがりません勝までは」+「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」の建築板といったところでしょうか。

物資制限下の日本にあって川本はこう言います。

かかる課題の山積は建築意匠の立場からすれば、決して条件束縛や制約ではなく、むしろ創意と創造への直接の火花ともなるべき契機なのです。徒らに萎縮したり、ひるんだりしている時ではありません。創造物資へ常に最善の意匠をプランしてゆく事と建築の意匠に合一させるべく、たゆまざる情熱を注ぎ燃やすことが、現代に生きる建築技術者の責務ではないでしょうか。

川本鈞一「創造物資と意匠」1942.12

「創意と創造への火花となるべき契機」であり「新しい様式の樹立」をもたらすのだと。そこでは危機もまた好機へと転用されるよう求められるのです。

連続する戦時と戦後

そして敗戦。建築学会会長・内藤多仲は、戦争で中断していた学会誌『建築雑誌』の復刊号(1945年11月号)に巻頭言を寄せました。

昭和二十年八月十五日の大詔は旧日本が一挙に180°の転換を為し、我々は全く新規に出発すべき事を仰せられたものである。(中略)今後の建設に当っては建築家の任務も亦甚大である。之は戦時中も同じであるが大量生産即工場化従って又規格統一資材節約と云う事が要求れられるのである。

内藤多仲「巻頭言」1945.11

戦争は終わっても、建築や住宅に求められる状況は「戦時中も同じ」だというのです。むしろ戦時に問題化した住宅難はより深刻化。燃料が底をつき動かなくなったバスや汽車、さらには土管や軍艦までもが住宅に転用されました。屋根を葺くトタンさえなく、平らに延べた空き缶を代用も(図1)。

画像1

図1 空き缶で屋根を葺く人(1946.10、東京、毎日新聞社)

圧倒的な住宅不足。でも戦争で山林は丸裸、大工・職人も亡くなり、でも住宅は建てねばならない。そんななか、戦時下の「代用」の精神が活きてきます。衣食住すべてが代用品という戦時下の経験は、戦後の再スタートを下支えしました。

例えば、「代用品」開発で蓄積された科学技術は、戦後復興から高度成長を支えた「新建材」開発の下地となりました。「戦後の新興建設材料から新建材につながる建材の品質確保と普及活動、およびそれらを担い行政と建材産業とを結びつける仕組みは、戦中期にその骨格が形成され、戦後は戦中期の体制を継承しつつ復興をすすめていった」のです(*1)。

結局、川本鈞一の詭弁としか聞こえない「創意と創造への直接の火花ともなるべき契機」、「新しい様式の樹立」といった論理は、彼の予言どおり「新建材」として結実し、戦後に花開いたのでした。

特に「新建材」が大いに流行した高度成長期は、住宅の新築数が10年で3倍弱にまでふくれあがる状況、建築材料はもちろん大工・職人、設計士を急には増やせないし、そもそも他分野でも人材不足、そんなナイナイ尽くしを解決したのが生産効率向上に適した「新建材」でした(*2)。

日本の家 1945年以降の建築と暮らし

新日本にふさわしい新技術による新建材。それなくして日本の復興、そして高度成長はあり得なかったし、その状況の出現は、戦争による都市の破壊、そして兵隊さんの大量引き上げなどなどの歴史的経緯と連続しています。

それゆえ、今ではどちらかというと悪者としてみられがちな「新建材」も、実は私たちの生活を懸命に支えてくれた功労者といえなくもないのです。とはいえ、新建材が失わせた文化、もたらした病などなどがあることは言うまでもありません。なにはともあれ、上記のような来歴を踏まえた上で、さて、これからどうしていくのか思案したいところ。

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ところで、わたしたちの街並みは、モルタル塗りや石積調サイディング(=擬RC)、化学的加工を施された新建材(=擬木)といった「創造物資」で覆われた木造住宅に、日本の街並みは覆われています。

あのベストセラーとなった『地球家族―世界30か国のふつうの暮らし』(1993)に登場するウキタさん一家の住まい。あれこそが、川本鈞一が夢見た「新しい様式」だったのかもしれません。

建築学者・東樋口護は『地球家族』のウキタさん一家に言及しつつ、その住まいの有り様を「高成長様式」と名付けました。

今や、モデルであったはずの欧米の様式とも似ても似つかない新しい様式、地球上今も昔も存在しなかった新しいスタイル、いわば『高成長様式』とでも言うべきものに到達した。

東樋口護「住宅生産」『日本の住宅:戦後50年』、1995

つくりもののなかに自然さを見出す。そんな日本的感性が「代用」をテコにして「木目調(であればヨシ)の美学」につながったとすれば、戦時の「創造物資」はハウスメーカーによる商品住宅登場へ向けた露払いだったと言えなくもありません。

さらに言えば、1945年以降の建築と暮らしを象徴する「日本の家」とは「既製品ばっかり」なハウスメーカーの住宅なのでしょう。


※1 加藤雅久ほか「戦後住宅復興における『新興建設材料』の品質確保に関する研究」、住宅総合研究財団研究論文集、第33号、2006
※2 松村秀一「『戦後』がもたらした住宅素材の大変貌」、『素材・建材ハンドブック[スタンダード]』、建築資料研究社、2006

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