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ぼくは王子様になったようだ|1960年代、プレハブ勉強部屋という「お城」

ヤフヲクで入手した古雑誌をつれづれなるままにペラペラめくっていたら「永大の勉強部屋」(永大産業)の広告を発見してものぐるほしけれに。キャッチコピーは「ぼくは王子様になったようだ」(週刊サンケイ1966.12.26)。

大和ハウス工業の「ミゼットハウス」(1959)のヒットは、その後に類似商品乱立を招きます。この「永大の勉強部屋」(1960)もその一つ。

永大ハウスのリーフレット(1960年代)

「ぼくは王子様になったようだ」という文字がおどるこの広告は、同社が開催した懸賞作文募集「僕たち私たちの勉強部屋」の最優秀作品を紹介するもの。広告には当時中学生の青山少年の作文が抜粋されています。

……ぼくは王子様になったようだ。……これは、ぼくのお城だもの、ぼくはいつまでも大事に大事にきれいに使う。じゃんじゃん勉強する。作文も書く。父母が一所懸命努力し、けん約して作ってくれたんだ。この部屋には父母の心が一ぱい、ぼくはそれに応えて勉強するんだ。

「永大の勉強部屋」広告(1966年)
「永大の勉強部屋」広告(1966年)

戦後の住宅難に伴って、建設しえた住宅も平屋建ての小住宅。さらにベビーブームが定員超過に拍車をかけました。建て替えは言うまでもなく、増築工事もままならないなか、確認申請が不要で明朗会計のプレハブ勉強部屋は庶民のニーズにがっちりマンデーします。

この広告が掲載された1966年といえば住宅建設五箇年計画がスタートした年。NHKドラマ「大市民」、TBSドラマ「お家が欲しいの」などが放映され、狭い団地、欲しい戸建て住宅が描かれた年でもあります。

いわば“住宅の時代”に建材メーカーから住宅メーカーへと急成長した永大産業が打ち上げたのが、懸賞作文企画であり、そこで称えられたのが「ぼくは王子様になったようだ」なのでした。

「王子様」は言うまでもなく王の子であり、「王=一国一城の主」は青山少年の父が位置付けられることでしょう。父が「木造・戸建て・持ち家」の主となり、子はプレハブ工法による離れを「ぼくのお城」として取得する。

この青山少年言説の構図は、そもそも永大産業の既定路線。1964年に雑誌掲載されている同社の広告は「一国一城の〈子供(あるじ)〉」がキャッチコピーです。

「永大の勉強部屋」広告(1964年)

さらに、この青山言説は「ぼくのお城だもの、ぼくはいつまでも大事に大事にきれいに使う。じゃんじゃん勉強する」という部分も注目されます。この少年の発言はどうやら母親の次のような発言を受けて発せられたものなようです。

「きょうからこの部屋は弘ちゃんのお城よ、にいちゃんとどっちが美しく使うか競争。整理整とん、おそうじ、みんな自分でするのよ、時々点検しますよ。」「ハーイ」何を言われても今のぼくはうれしくて仕方がない。母はにこにこして言う。「今の気持ち忘れんといてね。……」

「ぼくのお城」を持つことが自主的な住居・生活・学習管理へとつながる。そうした主体性発揚の言説は、住宅営団法が帝国議会で審議された際(1941.2)に、庶民層には「自分の城」を持つ希望が強く、借家だとモノを大事にしないといった発言があったことや、自分の城に家族で住まうことが「忠君愛国の思想の根源」になるという話があったように定番の言説でもあります。

「じゃんじゃん勉強」したであろう青山少年のその後はわかりませんが、ちょうど第一次オイルショックの頃に高校を卒業することになった人生は、戦後のひとびとの歩みと違わず、「一国一城の〈子供〉」での予行演習を経て「「一国一城の主」になったのだろうと推測します。

子どもを産み、そして産んだ子を教育する舞台となった一戸建て住宅。それに附属するプレハブ勉強部屋は、子どもの主体性を育む「家庭教育施設」としてアピールされ、そして住まわれたのでした。ドールハウスの大型版かのように。

箕作新六編・山下謙一画『小学科学絵本・第八巻:家』東京社、1937年

(おわり)

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