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ねんねすること/ねんねすると言えること/そして、表現できること

寝る前の読み聞かせ絵本。寝る前だけあって『おやすみなさい』(ヴィルジニー・アラジディほか、アノニマスタジオ、2014)は読み聞かせてるこっちも眠くなります(図1)。あ、いい意味です。

図1 おやすみなさい

ページはずっと地が闇の色。動物たちがオレンジの蛍光色で描かれています。文字も白抜き。やや暗くした寝室で読み聞かせする親にもやさしい可読性。

「しー・・・・・・ おやすみの じかんですよ。」

ささやくようにはじまります。いろんな動物がでてきて、それぞれの親子が眠る前に語らう時間。その関係がそのまま読み聞かせしている自分と、それを聞く娘の関係に対応しています。

「わたしのかわいいこ」「わたしのおきにいり」と親から繰り返し表現を少しずつ変えながら語られることで、子は安心感に包まれ眠りに落ちていきます。そういえば、以前も、眠るためには家財道具との連帯が必要なことを書きました。

やはり、子どもにとって一大イベントな眠りに落ちるは、「安心」や「信頼」なくして成り立たないことがわかります。

ねんねすると言えること

そういえば、長女が2歳になる前くらいだったでしょうか。気がついたら、娘が「ねんねする」と言って眠りに落ちることが普通になりました。

0歳児の頃はもそれはそれは、眠りに落ちるまでの時間は一大事でした。延々ぐずり続ける娘を、どうやって気を紛らわせつつ眠りにつかせるか。さらには布団に軟着陸させるか。そのワザを磨く日々。

ある時はじめて「つかれたからねんねする」(このセリフは常々、嫁さんが娘に使ってたので覚えたのでしょう)と言うなり、ぐずりもせず自然と眠りに落ちてビックリ。

眠たいから眠る。それは怖い闇じゃない。

私たちにはもう当たり前のことですが、幼児にとっては当たり前じゃなくって、その当たり前を飲み込めた時に、自然と眠ることができるようになるんだなぁ。そう思いました。

かと思うと、次女の「ねんね問題」克服はスムーズで拍子抜け。というか、そもそも「問題」が存在しませんでした。もう勝手に寝てる。姉妹の性格の違いもあるのでしょうけれども、やっぱり、すぐそこに個別具体なサンプル(=姉)がいるということは、飲み込みを早くするのに効果大なのだろうな。

まぁ、それは良くもあり、悪くもあるのだろうけれども。

いずれにせよ、自分の感覚や感情が一体何なのかを自覚できること、その感覚や感情を相手に表現する術を持つことが、わけもわからずグズる行為から解放してくれるのだろうなぁ。

だと思うと「今わたしは眠いのだ」とわかることの力は偉大だ。

ひょっとしたら、周囲の人たちからすれば不可解なほど急に不機嫌になったり、突然に怒ったりイライラしたりする人の行動って、ねんね問題と相似形の構図なのでは中廊下とも思ったり。

自分が今どんな感覚や感情をもっているのか分かること。自分の感覚や感情を名付けられる(言語化できる)こと。名付けられるがゆえに周囲にそれを伝えられること。そして周囲がそれを受け止めてくれること。

それゆえに、この感覚の先が闇じゃないと感覚的に了解できること。そのためにも、たくさんの思いや言葉を知ること。

表現できること

そういえば、なかなか保育園に馴染めなかった長女が、自由画帳に描き殴るということで救われていたのを思い出します(図2)。

図2 園と自宅、それぞれの自由画帳

もうかれこれ1年半前、3月末。園から1年間の成果物をいろいろと持ち帰ってきたなかにあった自由画帳をパラパラめくってみて、少しばかりショックを受けました。ほぼ使い切ってあるその自由画帳の大半は、単色で描き殴られたページだったのです。

自宅でも普段からスケッチブックをあてがって絵を描く機会はけっこうあります。ショックだったのは、自宅での描きっぷりと園でのそれがあまりに落差があったから。

自宅では比較的ちまちまこまごまと描くことが多い。その頃の娘は数字、次にひらがな、今はアルファベットといった書字にご執心で、字を書けるようになったら、絵も落ち着いて描けるようになってました。

ところが、園の自由画帳ではそういった絵はほぼ見られない。単色描き殴りのオンパレードでした。

そういえば、ある日おもむろに「今日はだれも遊んでくれなかったの」と娘が口にしてビックリしたことがあったっけ。おもむろというのはこちら側の心境であって、娘のなかではその言葉となる前に、いろんな場面が思い返され、あふれ出た言葉なのだと思うと心が痛みました。

同世代の子と一緒に遊ぶことが未熟な娘は、せっかく声をかけてもらっても塩対応したりするし、園児の共通言語プリキュアも仮面ライダーもさして興味がありませんでした(まぁ、最近はずいぶんと改善されましたが)。

これにはさすが自分の娘だと苦笑するしかない。自分もそうだったな。でも当人にとっては、人とつながりたいのに思い通りにいかないことが多い日々だったのには違いない。

同世代の子と一緒に遊ぶことに馴れない娘にとっては、彼女なりに結構な心の負担、違和感、疎外感などない交ぜに抱えながらの1年間だったのでしょう。そういう葛藤を経験し、乗り越えるのも保育園での大事なメニューなんだし。

だからお迎えにきた母親に当たり散らしたり、意味不明な駄々のこねかたをしたり、妹にいじわるしたりしたのだろうナと、あんな場面やこんな出来事が一本の糸でつながります。

でもしばらくしたら「保育園行きたくない」とはほとんど言わなくなったし、行ったら行ったで楽しく過ごせるようになりました。でもまぁそれと同時に、やっぱりいろいろと無理したり我慢したりもした模様。

そうした当たり前の、でも日常に埋もれて見えなくなっていた現実を、自由画帳を通して不意に突きつけられた気がして自分はショックだったんだな。

でも、単色で描き殴っていることがダメなんじゃない。むしろ単色で描き殴れていることに安堵する。言ってみれば、もろもろの感情を調整する安全弁として自由画帳があったのだろうから。

描き殴られたページは、彼女が集団生活に馴染むために戦った軌跡なんだと思います。その自分との戦いは徐々に徐々に報われていくはず。言葉にすることや描くことが心の安定を下支えする。そんな役割が「表現すること」にはあるし、そうやって人は自由を獲得していくんだなぁ。

(おわり)

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