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フリーサイズからホームコアへ|住宅産業界の異端児・ミサワホームの1960年代

1960年代。戦後の深刻な住宅難が依然と続くなか、この頃になると大和ハウス工業や積水化学工業、松下電工といった今日にまで続くハウスメーカーの住宅事業参入が開始されました。これらの企業は、当時まだ目新しかったプレハブ住宅の販売・施工を展開していきます。

大和ハウス工業「ミゼットハウス」(1959)を皮切りに、積水ハウス「セキスイハウスA型」(1960)、松下電工「松下1号型住宅」(1961)が次々と繰り出され、1960年代末には「プレハブ住宅」や「住宅産業」が一大ブームを形成していきます。1960年代。それはわが国におけるプレハブ住宅の産業振興期として位置づけられる時代なのでした。

さて、今日もなお住宅産業界において大きな存在感をもつミサワホームも、ちょうど1960年に木質パネル接着工法による住宅を開発。その後、立て続けにヒット商品を打ち出し、大手ハウスメーカーの地位を確立していきました。

そんなミサワホームにとっての1960年代とは。それは、木質パネル接着工法住宅の商品開発を進め、三澤木材プレハブ住宅部として販売・施工にあたった前半期と、ミサワホームとして独立後、自由設計型「フリーサイズ」(図1)で爆発的ヒットを繰り出し、次いで大型パネル「ホームコア」(図2)開発に至り、その発展形である未来住宅提案「ヘリコ」を大阪万博(1970)で披露するまでの後半期として描くことができます。

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図1 フリーサイズ(ミサワホーム)※文献7

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図2 ホームコア(ミサワホーム)※文献7

そこで今回は、プレハブ住宅の産業振興期である1960年代を、ミサワホームの創業から地位確立へと至る流れ、特に「フリーサイズ」から「ホームコア」への展開を通して辿ってみたいと思います。

プレハブ住宅産業の1960年代

先述したように、1960年代の日本は、戦災による住宅の焼失のみならず都市部への人口流入も重なって深刻な住宅難に直面していました。在来木造による住宅だけでは、到底その需要はカバーしきれない。そこで当時勃興しはじめたプレハブ住宅が注目されます。

敗戦直後から1950年代にかけては、たとえば1946年に発足した「工場生産住宅協会」に属する企業(戦時中まで船や飛行機を製造していた)による木造の組立住宅(図3)が模索されましたが、社会的混乱のなかにあった当時、思ったような成果を上げられず消えてしまいます。

前川・プレモス7型2

図3 工場生産住宅協会加盟企業による住宅例(プレモス)※文献5

商業ベースに乗ったプレハブ住宅は「ミゼットハウス」(図4)の登場まで待たなければいけなかったのです。それでは、「ミゼットハウス」以後の1960年代には、住宅産業の動向はどんな状況だったのでしょうか。

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図4 ミゼットハウス(大和ハウス工業)

1960年代前半:平屋建ての時代

ハウスメーカーの住宅史巻頭を飾る大和ハウス工業の「ミゼットハウス」は、画期的商品とはいえ水回りのない「勉強部屋」でした。ハウスメーカーによるプレハブ「戸建」住宅は、1960年の積水ハウス「セキスイハウスA型」(図5)にはじまります。

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図5 セキスイハウスA型(積水ハウス)※文献9

それ以降、大和ハウス工業の「スーパーミゼットハウス」や「ダイワハウスA型」、ナショナル住宅建材「松下1号型」、三井木材工業「三井Uハウス」などが続々と市場参入。これまで住宅とは無縁だった企業もどんどん住宅事業部を立ち上げていきました。

1960年代前半の主なメーカー住宅

1959 ミゼットハウス(大和ハウス工業)
1960 セキスイハウスA型(積水ハウス)
1960 スーパーミゼットハウス(大和ハウス工業)
1961 セキスイハウスB型(積水ハウス)
1961 松下1号型(ナショナル住宅建材)
1962 ダイワハウスA型(大和ハウス工業)
1962 セキスイハウス2B型(積水ハウス)
1962 三井Uハウス(三井木材工業)
1962 ミサワホーム(ミサワホーム)
1964 三井ハウスHi型(三井木材工業)
1964 ナショナル住宅R型(ナショナル住宅建材)

これらメーカーによるプレハブ住宅は、はじめの頃は平屋建てでした。しかも、まず平面形は矩形が当たり前で、長尺カラー鉄板葺きの屋根(陸屋根や緩い勾配の切妻)と大差がないもので、各社「いかにもプレハブ然」とした画一的な商品になっていました。また、軽量鉄骨や新建材といった目新しい住宅の造り・建材は、未来感ある「新しさ」というよりも、むしろ安普請だと受け取られます。

たとえば、積水化学の威信をかけてプラスチックをふんだんに用いた「セキスイハウスA型」は苦戦を強いられ、続く「セキスイハウスB型」(図6)では化粧合板やクロスを積極的に用いることでプレハブの印象を薄くする努力をしたほどでした。

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図6 セキスイハウスB型(積水ハウス)※文献9

そのあたりのニーズに寄り添う苦労については以前、こちらで書きました。

1960年代後半:イージーオーダーの時代

1960年代後半になると、2階建て商品が一般化するとともに、規格商品がもつ画一的で安普請という悪印象を払拭すべく、バリエーションの増加、屋根形状の変更や2階のセットバック、内外装の高級化といった戦略に乗り出します。いわばフルオーダーとまではいかないながらも、イージーオーダーを謳ったのです。

1960年代後半の主なメーカー住宅

1965 三井ハウスE型(三井木材工業)
1965 プリンスハウス(日本ホームズ)
1965 セキスイハウスE型(積水ハウス)
1965 セキスイハウスF型(積水ハウス)
1966 ミサワホーム規格型(ミサワホーム)
1966 フリーサイズ片流れ屋根(ミサワホーム)
1966 マイホーム(ミサワホーム)

1966 ナショナル住宅R2N型(ナショナル住宅建材)
1967 フリーサイズ重層屋根(ミサワホーム)
1967 ダイワハウスB型(大和ハウス工業)
1967 ニツセキハウスK型(日積ハウス)
1968 フリーサイズ越屋根(ミサワホーム)
1968 若葉デラックス(永大産業)
1969 セキスイハウスH型(積水ハウス)
1969 ホームコア(ミサワホーム)
1969 ニツセキハウス2K型(日積ハウス)
1969 ダイワハウス飛鳥(大和ハウス工業)
1969 クボタハウスGPA型(クボタハウス)

積水ハウスは1965年には高級層向けの「セキスイハウスF型」(図7)と廉価タイプの「セキスイハウスE型」を販売。また「若葉デラックス」(永大産業)や「ダイワハウス飛鳥」(大和ハウス工業)など、和風ネーミングを採用したものもみられるようになりました。

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図7 セキスイハウスF型(積水ハウス)

高級化や和風ネームといった動きの背景には、当然に従来の「プレハブ」イメージを覆す意図があります。

ただ、こうした路線転換は、もともとプレハブ住宅が目指していた量産効果や短工期といった優位性を手放す事態をもたらします。松村秀一は、この時期の動向についてこう指摘しています。

「規格型」から「イージーオーダー商品」への脱皮は、主として現場施工への依存度の増大と部品種類の増大によって可能となった。しかし、この2種の増大は量産効果の低下、工期等の面での木造住宅に対する優位性の減少という悪影響を伴う。即ち、当初考えられていた工業化のメリットの多くを失うことになりかねない。
(松村秀一監修『工業化住宅・考』1987)

1960年代。わが国におけるプレハブ住宅の産業振興期として位置づけられるこの時代は、商業ベースに乗ったプレハブ住宅が、当初の工業化の理念や手法を前面に押し出した前半期。そして、「工業化のメリット」を見失うほどに、「在来工法」に遜色ないことをアピールするようになった後半期として描くことができます。

ミサワホームの住宅事業

ミサワホームは、先述した通り、三澤木材(1906年創業)内のプレハブ住宅部門として発足、1967年に分離独立した企業。創業者は三澤千代治で、三澤木材は千代治の父・二郎が経営する会社でした。

1972年にはミサワホーム総合研究所を設立し、業界に先駆けて商品開発・研究に重きを置いた。木質系プレハブ住宅では業界トップクラス。そんなミサワホームの商品開発について、1960~70年代あたりの開発年表を資料を頼りに列記してみますと(文献2、6、7)。

ミサワホーム商品開発年表

1960 ミサワホームの開発に着手
1961 日本大学に強度試験を依頼
   第1次実験実施
1962 第2次実験
   法38条に基づく建設大臣工法認可
   ミサワホーム・フリーサイズ型発表
   ホームコア開発に着手
1963 新宿展示場開設
   ホームコア試作第1号完成
1964 フリーサイズ型工法完成、公庫融資対象に
1965 建設省建築研究所にて実大私権家屋実験
1966 ミサワホーム規格型発表、公庫融資対象に
   アフターサービス確立
1967 ミサワホーム株式会社設立
   南極地域観測隊居住棟用などにパネル製作
   ホームコアのモデル小田急ハルクで展示
1968 PERTシステム等施工管理システム確立
   ホームコア(量産型)の開発
   ホームコア、アラビアで建設
1969 ホームコア100、135発売
   総合研究所設立
1970 大阪万博にミサワホーム・ヘリコ出品
   ホームコア350開発プロジェクトチーム編成
1971 泉北ニュータウンでコア350試行建設
   フリーサイズみちのくの家
1975 ホームコア切妻発売
1976 ホームコア寄棟発売
1966 ミサワホーム規格型
1966 フリーサイズ片流れ屋根
1967 フリーサイズ重層屋根
1968 フリーサイズ越屋根
1977 ミサワホームA型平屋(ホームコア寄棟改名)
   ヘリコ2開発

日本大学在学時に闘病生活を送った三澤は、病床で後に「木質パネル接着工法」(1960)として完成する着想を得たといいいます。1961年にパネル試作、翌1962年には建築基準法第38条の規定に基づく建設大臣認定を取得しました。

日本大学の大学祭やサンケイ新聞社主催建築祭などにモデル住宅を展示し、その際に「フリーサイズ」と名付けます。1962年には第1号となる契約を得て、工場生産も開始されました。

1960年代におけるミサワホームの展開は、この「フリーサイズ」にはじまり、次いで「ホームコア」の開発へ至る過程といえます。そして、この歩みの集大成が日本万国博覧会で展示された「ヘリコ」(図8)。それは「ホームコア」の発展版ともいえる未来住宅でした。

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図8 ミサワホーム「ヘリコ」広告(週刊ポスト1971.11.5)

この一連の展開は後に「パコカライン構想」(1971)としてまとめられます。「プレハブ住宅の高品質化とコストダウン実現は、量産効果・流通改善・技術革新にある」とし、そのために住宅建設技術をパネル→コア→カプセルへと発展させる構想でした(図9)。

パコカライン構想

図9 パコカライン構想 ※文献7

こうしたミサワホームの理念を踏まえつつ、①フリーサイズ、②ホームコア、③ヘリコ、という特徴的な3つの住宅を見てみましょう。

①フリーサイズ:自由設計型住宅

ミサワホームの主力商品であった「フリーサイズ」とは、当初、自由設計型で柔軟に対応してきた同社が規格型商品をアピールした際に、区別するために名称を定めたもの。自由設計型を「フリーサイズ」、規格型を「マイホーム」としました。

積極的なメディア戦略を採ったミサワホームは、後に主婦の友社から『フリーサイズのプレハブ住宅:その知識とデザイン』(1971)と題した本を出版し、販売攻勢をかけています。

自由設計型である「フリーサイズ」の性質上、特に決まったデザインがあるわけではないものの、それでは購入者層に訴求しづらい。そこで、大屋根型や片流れ屋根型、重層屋根型など、外観に大きな特徴を持たせてアピールしました。室内も吹抜けの居間、舟底天井の和室など、当時のプレハブ住宅の常識を越えたデザインを打ち出していきます。「画一的で安普請」という負のイメージをまとった「プレハブ住宅」と一線を画す。「プレハブらしくない」ことがセールスポイントになったのです。

なお、こうしたミサワホームの戦略について、建築学者・西山夘三は、フリーサイズの多彩な外観を自ら丁寧にスケッチした上で、「新しく素晴らしく見えるものを次々つくり出してゆけばよい。これが商業主義の、そして高度経済成長を期待している住宅産業の「住宅改善の図式」である」と手厳しく批判しています(図10)。

夘三フリーサイズ

図10 西山夘三による「フリーサイズ」のスケッチ ※文献3

なお、西山による住宅産業批判については以前こちらに書きました。

②ホームコア:量産型規格住宅

ミサワホームは、自由設計型「フリーサイズ」、規格型「マイホーム」に次ぐ、量産型住宅の構想を進め、後にそれを「ホームコア」と名付けました。1967年、小田急ハルクに試作棟を展示し、その構想が発表された。度重なる開発実験や派手な広告宣伝によって、大いに注目されました。

6年の歳月と、7万人におよぶ入居者の意向調査、海外での建設実績調査など、綿密な研究開発プロセスを経て、ようやく1969年に完成しました。この開発にまつわるエピソードは、『超えてる若者たち:ホームコア開発史』(ダイヤモンド社、1972)にまとめられています。

「ホームコア構想」は1967年に発表されます。その意義は、社史ではこう記されています。

開発当初の「木質パネル接着工法」は、約91㎝のパネルを中心に16種類で構成し、壁・床・屋根は共通のパネルで、現場にて必要なサイズにカットして建設していました。さらなるローコスト住宅の実現には、技術革新によって品質・性能ならびに生産性を向上させながらコストダウンを図る「完全プレハブ住宅」の開発が必要と考え、1964年に大型パネル住宅の開発に着手。
(『LEGACY:ミサワホーム50年誌』2017)

この構想発表に前後する時期は、ハウスメーカー各社はプレハブ住宅が持つ「画一的で安普請」というイメージを払拭すべくイージーオーダー路線を展開していました。つまりは、ミサワホームの商品開発は、時代の流れに逆行していたことになります。

「ホームコア」の開発目標として掲げられたのは次の項目でした。

① 平均的国民所得で入手できる価格
② 完全プレハブであるプレハブ工法の理想で開発する
③ 高度の技術開発により世界に通じる商品である

こうした原則を十二分に活かし、「100万円住宅」という当時としてはあり得ない価格設定と高性能で市場に投入されヒットします。プレハブ住宅草創期の技術者に対して行ったヒアリングをまとめた『箱の産業』(彰国社、2013)に、こんなエピソードが紹介されています。

ホームコア開発を担った加藤善也がテレビ取材で値段を聞かれた際に「うっかり『100万円』と言っちゃった(笑)」と。100万円は開発目標でしかなかったのですが、三澤社長は口をすべらせた加藤を叱るどころか「よく言った。じゃあ、それでやれ」とゴーサインを出し、結果、大ヒット商品となったのだそう(図11)。

ホームコア部材

図11 ホームコアのパーツ ※文献7

さて、その後の「ホームコア」。後継種は建設省・通産省主催「パイロットハウス技術考案競技」に応募・入選した「ホームコア350」(1972)、そして「ホームコア・寄棟」(1976)へと展開していきます。

さらに翌1977年には「ミサワホームA型・平屋」と改称。そして、この「A型」は後に企画住宅商品群「GOMAS」へと再編されていきます。

③ヘリコ:完全プレハブ住宅

構造体をヘリコプターで運搬し、現場に据え付けるだけで建物が完成する「完全プレハブ」を実現するプロジェクトが「ヘリコ」。「ホームコア」の大型パネルによるボックスをヘリコプターで空輸する実験を行いました(図12)。

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図12 ホームコアの空輸実験 ※文献7

構造体をヘリコプターで運搬し、現場に据え付けるだけで建物を完成させる「完全プレハブ」の実現はミサワホームの夢でした。ホームコアの大型パネルによるボックスを製作し「ヘリコ」と名づけ、岐阜県の各務原にてヘリコプターによる空輸実験を行い、その十分な強度を立証しました。
(『LEGACY:ミサワホーム50年誌』2017)

ここでの知見を踏まえ、地球エネルギー総合システムを前提としたエネルギータワーを中心に、ボックス8戸をカプセル化して取り付けた未来住宅「ヘリコ」を大阪万博会場に休憩所として建設・公開しました(図13)。

万博ミニガイド:ヘリコ2

図13 ヘリコ広告(大阪万博ミニガイド)

「パコカライン構想」の最終段階であるカプセル住宅の模索は引き続き行われ、1977年には「ヘリコ2」を開発(図14)。「住宅としても、レジャー施設としても利用できる生活空間の開発」をコンセプトに、100%工場生産住宅を実現したものでした。

ヘリコ2

図14 ヘリコ2(ミサワホーム)※文献7

1960年代、ミサワホームはヘンタイだった

1960年代におけるミサワホームの商品開発は、当時のプレハブ住宅が辿った規格型からイージーオーダーへという流れと真逆に、自由設計(フリーサイズ)から始まり大型パネルによる規格住宅(ホームコア)へと展開したものでした。社史には誇らしげにこう書かれています。

当時(1960年代前半)のプレハブ住宅は間取りや外観が決められていてそれ以外のものは建てられない〈規格型〉が大部分を占めていました。これに対しミサワホームは、自由設計”フリーサイズ”の「ミサワホーム」を販売し、注目を集めていました。このため同業他社でも次第に自由設計型に移行し、加えてエコノミー型から転じてデラックスタイプに重点を置きはじめた時期でした。
(『ミサワホーム技術開発史【木質編】』2007)

木質パネル接着工法という独自工法ゆえ得られた自由度が、創業当初、他社との差別化として奏功しました。そして、ようやく時代が、同業他社が追い付いてきた。そんななか、ミサワホームはあえて規格型、ローコスト住宅へと重点を移していきました。

この動きは単なる「逆張り」ではありません。「技術革新によって品質・性能ならびに生産性を向上させながらコストダウンを図る」という「パコカライン構想」に沿って、「完全プレハブ住宅」の夢を実現すると使命感に突き動かされたものだったのです。

建築家・内田祥哉が好んで紹介する風刺画があります。1944年にイギリスの風刺雑誌『パンチ』に掲載されたその絵は、コウノトリが一軒家を運んでくる光景が描かれています(図15)。

コウノトリ

図15 風刺雑誌「パンチ」の絵 ※文献10

コウノトリが空から運んでいる様子で、欲しいと思えば、すぐ手に入る家。しかもそれが、完成品である、というプレハブに対する夢と期待がよくわかります。次に人里離れた背景は、プレハブ住宅がこういう場所にも実現できることを証明しています。また、地上にいる家族を見ると、一所帯一住宅という庶民生活の基盤を、プレハブ住宅が支援できる様子も伝えられています。つまり、「どんな不便な所にも、いつでも、すぐに使える家を、家族のために届けることができる」、それが、プレハブ住宅に期待する夢というわけです。
(内田祥哉『現代建築の造られ方』2002)

「プレハブ住宅に期待する夢」を実現する「完全プレハブ住宅」。そこへと邁進する三澤千代治率いるミサワホームの商品開発が、結果的に「逆張り」に見える展開となったのでした。

そして時代は1970年代へ。「イージーオーダー」はプレハブ住宅の「画一的・安普請」という負のイメージを覆すことに成功しましたが、同時に、工業化住宅のメリットを手放す事態にも直面。結果、住宅産業界のトレンドはふたたび工業化住宅らしさの回復へと動きます。

1970年代前半の主なメーカー住宅

1970 ダイワハウスニュー春日(大和ハウス工業)
1970 パルコン(大成建設)
1970 ハイリビング(ミサワホーム)
1970 大屋根の家(ナショナル住宅建材)
1970 コボリコンポスU(小堀住研)
1971 フリーサイズF350 (ミサワホーム)
1971 セキスイハイムM1(積水化学工業)
1971 セキスイハウスK型(積水ハウス)
1971 テラステン(積水ハウス)
1971 ナショナル住宅W型(ナショナル住宅建材)
1971 大栄モデュラーハウス(大栄住宅)
1972 ホームコア350(ミサワホーム)
1972 フリーサイズ75(ミサワホーム)

1972 Dシリーズ(旭化成ホームズ)
1972 東芝住宅メイゾンM型(東芝住宅産業)
1973 ホームコア75(ミサワホーム)
1973 マイホーム75(ミサワホーム)

1973 大地(永大産業)
1974 セキスイハイムM2(積水化学工業)

なかでも、コンクリート系プレハブの大成建設「パルコン」や、小堀住研のユニット住宅「コボリコンポスU」。そして、伝説の高度工業化住宅「セキスイハイムM1」が登場。

大人気を博した大阪万博は、1960年代前半にはなしえなかった「プレハブらしさ」をヨシとする空気も醸成。ユニット住宅の大衆受容を加速するかに見えました。そこにオイルショックが到来することになるのです。

(おわり)

参考文献
1)主婦の友社編『フリーサイズのプレハブ住宅:その知識とデザイン』、主婦の友社、1971
2)日本建築学会建築計画委員会『工業生産住宅における設計プロセス:日本建築学会大会協議会資料』、日本建築学会、1972
3)西山夘三『日本のすまい・Ⅱ』、勁草書房、1976
4)高木純二『ミサワホーム:三澤千代治にみる発想・戦略・経営』、はる出版、1987
5)松村秀一監修『工業化住宅・考:これからのプレハブ住宅』、学芸出版社、1987
6)ミサワホーム編『ミサワホーム技術開発史【木質編】』、ミサワホーム、2007
7)ミサワホーム編『LEGACY:ミサワホーム50年誌』、ミサワホーム、2017
8)松村秀一ほか編『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』、彰国社、2013
9)積水ハウス『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』、積水ハウス、2010
10)内田祥哉『現代建築の造られ方』、市ヶ谷出版社、2002

関連note


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