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壁博士・中村伸と「ミゼットハウスの出現」、そして「左官職人こね太郎」の戦後日本

1959年、ハウスメーカー史の冒頭を飾る商品住宅「ミゼットハウス」が、大和ハウス工業から発売されました(図1)。それは住宅が「請負」から「商品」へと変わる決定的瞬間。

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図1 ミゼットハウスのチラシ

この「ミゼットハウス」の出現を、左官業を揺るがす革命だと指摘する文章が日本左官組合連合会の機関誌に寄稿されます。書いたのは建築学者・中村伸。戦前に住宅営団にて組立住宅の開発にもかかわった中村の業績を介して、戦後におけるハウスメーカーと左官業の交錯をみてみたいと思います。

左官職人・新沼謙治

演歌歌手・新沼謙治(1956-)は岩手大船戸の実家が左官屋さんで、本人もまだ歌手デビュー(1976)前には、集団就職で宇都宮市にある左官職人を経験しているのだそう。

そんな新沼には「左官職人こね太郎」というタイトルの持ち歌があります。

新沼の全曲集タイトルにもなっている「左官職人こね太郎」(2004、シングル「飛行機雲」のB面)で歌われる左官の労働環境は、1960年代末、RC造がどんどん建てられた野丁場ウハウハ時代。左官業「最後」の全盛期でした。

 今日も仕事の始まりだ
 腰に手ぬぐいぶらさげて
 砂とセメントかき混ぜて
 鏝を片手に壁を塗る

左官というと、日本伝統の普請文化的なイメージでは、奈良時代の仏教寺院や、安土桃山の茶室、江戸末期から明治にかけての洋風・擬洋風建築といった各局面で洗練されてきた匠の技とされます。

ただ、新沼謙治が飛び込んだ左官の世界は、戦後復興から高度成長へと駆け抜ける怒涛の建築工業化の時代にあって、工法も建材もガラリと変わり、左官業への参入障壁が著しく下がった状況。それゆえ、自ら作詞も手掛けた歌では左官現場の最前線はこう歌われます。

 工事現場を宿にすりゃ
 継ぎ接ぎだらけの貸し布団
 寝言歯ぎしり高いびき
 これじゃ朝まで身が持たぬ

この風景の背後には、高度成長の起爆剤として「金の卵」を動員したシステム=「集団就職」があります。農山漁村から労働力として大量投入された若者たちの「遠く眺めりゃ古里が、何故に恋しい旅の空」な現実でした。

ただ、新沼が貸し布団にくるまっていた頃から10年も遡る左官業ウハウハ全盛時代に、将来に待ち受ける「左官業冬の時代」は予見されていました。

たとえば、建築材料学者・中村伸(1916-2006)は、日本左官組合連合会機関誌『日左連』の1960年4月号に、「左官業冬の時代の到来」へ警鐘を鳴らす小文を書いています。タイトルは「ミゼットハウスの出現」。

1959年に販売開始された組立住宅「ミゼットハウス」。鉄パイプによる工場建築を手掛けていた大和ハウス工業が、大手ハウスメーカーへと飛躍するキッカケになった商品住宅出現に、中村は恐怖を感じたのです。

設計もいらなければ職人もいらない。工場の中のプレスが型を作り、機械が組立てるということになれば、われわれ建築関係者のなかで失業者がどっとふえる。ことに小住宅を専門とする大工・左官の打撃が大きい。建築とは注文生産であって、一個一個形の異なるもので、土地がきまって設計にかかり、現場で組立てるものと歴史始まって以来、考えてきた基本の考え方が大きく変化することになる。これはアインシュタインの相対性理論どころではなく、建築に対する大革命である。
(中村伸「ミゼットハウスの出現」1960.4)

当時、東京都立大学建築工学科に所属していた中村は、戦前には石本建築設計で働いた後、労務者住宅の開発・供給を担う国策会社・住宅営団に勤務します。

そこで中村の上司になったのが市浦健課長。後に市浦ハウジング&プランニングを興す市浦は、自動車のように住宅をつくることを夢見て「建築生産の合理化」を提唱する新進気鋭の建築家でした。

そんな市浦が営団に勤務する前に手掛けた自邸(1932)は、土浦亀城や蔵田周忠らと情報共有しつつ開発したトロッケン・バウ(乾式構造)によって建てられたものでした。「乾式」の反対語は「湿式」。つまりは左官工事。市浦は工期も手間もかかる左官仕事を建築生産の現場からどうやって取り除くかを模索したのです。

余談ながら市浦自邸は竣工してまだ間もない1934年に火災で焼失してしまいます。

このトロッケンバウの家は折角の新婚の日に間に合わず、両親の家の応接間で初夜をすごした。そして二年目の冬に私達夫婦がスキーに行っている留守に火事を出して全焼して了った。友人からは、家がトロッケンだからすぐもえたろうという悪口をいわれた。
(市浦健『日本住宅開発史』1984)

「乾式構造」の人・市浦課長率いる住宅営団研究部で、中村伸も規格住宅の平面計画やパネル式木造組立家屋(図2・3)の開発に従事したのでした。

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図2 パネル式組立家屋(生活科学、1942年3月号)

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図3 パネル式組立家屋(建築世界、1942年2月号)

たとえば、市浦と中村は連名で「住宅の基準寸法に就いて」と題した研究を発表しています。

そんな中村ゆえに、たかだか3坪で水回りもつかない「勉強部屋」ながらも、乾式の組立住宅が商業ベースに乗った「ミゼットハウス」が持つ意味を熟知していたのです。

ミゼットハウスの出現

ミゼットハウスは「三時間で建つ」を謳い文句にしました(図4・5)。

ミゼットハウス2

図4 ミゼットハウスのパンフレット

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図5 ミゼットハウスのパンフレット

仕様は次のとおり。

基礎:コンクリートブロック。経3寸松杭、長さ3尺、四隅打込み土台に鎹止。
床組:土台、大引はヒノキ材3寸角、ピッチ3尺、床板パネル3尺×6尺のハードボード。
屋根:型鋼の棟木及び軒桁にヤネパネル(ハードボード鉄板張り)をとりつける。パネルジョイントは瓦棒を、最後に棟包鉄板を取り付ける。
建具:窓は妻、桁側に各々2カ所中央両開(ラワン材)ニス仕上げ、モールガラス入り、パテ止め。出入口、片開ベニヤフラッシュ扉1カ所、ニス仕上げ、モールガラス。
塗装:柱その他鉄材はオイルペンキ仕上げ、ハードボードパネルは防水耐火塗料仕上げ。

ミゼットハウスが登場した頃は「インスタント時代」。たとえば『週刊朝日』1960年11月13日号は、その名も「インスタント時代です:衣食住なんでも”即席”」と題した特集を組んでいます(図6)。ラーメン、汁粉、コーヒー、凍結真空乾燥食品、冷凍食品、そして組立住宅。

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図6 週刊朝日のインスタント時代特集

なかでも”住宅のレディ・メード”として、インスタント・ブームに拍車をかけたのが、ミゼット・ハウス。大手メーカーの「大和ハウス」は、六年前、資本金わずか三百万円の小会社だったが、いまや三億五千万円。年内に倍額増資するというインスタントぶりである。
(「インスタント時代です」週刊朝日、1960年11月13日号)

戦前から模索されていた組立住宅がついに商業ベースに乗ったエポックメイキング。それが「ミゼットハウス」でした。たとえばこんな風に立ち上がるのですが、その様は住宅営団の「パネル式組立家屋」にソックリです(図7)。

工程1

工程2

図7 ミゼットハウス組立風景(アサヒグラフ、1960年3月6日号)

大和ハウス工業の創業者・石橋信夫(1921-2003)は奈良県吉野郡川上村出身で、実家は材木業でした。林業学校卒業後、満洲営林庁に勤務。敗戦を機にシベリア抑留という経歴をもつ人物。日本に戻り荒れた山を見て、木を使わない建築を志します。社名の「大和」は奈良県、やまとの「大和」。日本の心と「工業」がここに結び付きます。

そんな石橋が趣味の川釣りからの帰り道、もう遅いのに外で遊ぶ子供たちをみて声をかけたところ、家に帰っても居場所がないとの応え。核家族化とベビーブームの影響でした。庭の片隅に建てられる小さな勉強部屋を着想したといいます。

1959年に3カ月程で「ミゼットハウス」を開発し、3坪(約9.9㎡)タイプと2.25坪(約7.4㎡)タイプの2種類が発売された。(中略)価格は坪単価4万円以下、建築確認申請の必要がない10㎡以下の面積とし、「3時間で建つ勉強部屋」として爆発的なヒットとなった。
(新建築編『大和ハウス工業:建築設計の仕事』、2018年)

全国27か所の百貨店で展示販売を実施。勉強部屋の用途以外にも、茶室、応接間、書斎、仕事場、店舗などさまざまな利用がなされたといいます。このハウスメーカーの歴史の第1頁を飾る「ミゼットハウス」は、なにより①極力、現場施工を削減し、②その施工も簡易なため熟練を要さず、③乾式工法(左官が要らない)であり、④大手資本を介した「商品」として流通する点に特徴があります。

それは言い換えるならば、左官業が成り立っていた前提自体をことごとくひっくり返す条件を備えていたということ。それゆえの中村論考「ミゼットハウスの出現」でした。ただ「ミゼットハウス」登場の1959年という時代は、前述したように左官業では野丁場の全盛期に重なります。

どんどん建てられるRC造のビル群に左官は必須という時代ゆえ、左官業界にとって「ミゼットハウス」がもたらす影響は過小に見積もられたように思います。

中村伸の改革と挫折

中村伸は日左連の機関誌に寄せた「ミゼットハウスの出現」のなかで、「ミゼットハウス」の脅威を、単に左官の作業を必要としない=「乾式」という点に見ていたのではありませんでした。真の脅威を次のように指摘します。

建築というものが注文生産で、しかもできあがってみないとどんなものができるのか素人には見当がつかなく、しかもお金はできあがるまえに大半を払うようになっているという商品であることが、そろそろ大衆の信頼をかちえなくなりつつあるということである。デパートでのミゼット・ハウスの人気、そしてわれわれ自身が自分も買いたくなり他人にもすすめたくなる理由のなかに、出来あがったものが、そこにあるということ、お金を払えば翌日にはそれと同じものがわが家の庭に運ばれてくるということが、財布の紐をゆるめさせる条件としてあるのである。
(中村伸「ミゼットハウスの出現」)

時代が変化し、そしてユーザーからも、さらには働き手からも求められる内容や水準が変わっていく。「左官工事にしても工事を規準化してゆかねば時代にとりのこされる」と。

さらに将来の働き手不足が不安視されるなか、中村は海外視察で得た知見を元に人材育成改革案を業界団体に提示していきました。

2、3年前から左官の徒弟希望者が急にへってきて、筆者なども、日左連の会合などで注意を促していたのであるが、当時は32、3年の不況から引続いて、まだ今日の活況が予想されなかった時代だったので、新規の徒弟不足をむしろ好都合と考えていた向きもあったぐらいであった。実はその間に日本の工業の基盤が大きく変動していて、左官を始め建設技能者への就職希望者が本質的に減少し、それが量の上にもはっきりと現れて始めていたことに気がつかなかったのである。
(中村伸「左官工の不足とその対策」大阪建設業協会会報、1961年10月号)

時は建設・左官バブル。目前の状況が目くらませになってか、中村の改革アクションは親方たちには目障りだったそう。ついには「これ以上改革案を提言するならば、命の保証は約束できない」と脅されたといいます。

徒弟とか若い職人の労働によって親方は家作を作ったり、アパートを建てたり、中には妾に料理屋をさせたりしているのもあるのだが、徒弟の方はいつまでも材料置場の片隅のバラックで雑居寝というのでは、公徳心とかインテリジェンスとかいっても無理である。左官業からあげた利潤というものが左官業の合理化には向けられず、他に投資されてしまうのでは、いつまでたってもこの業界はよくならない。
(中村伸「左官工の不足とその対策」大阪建設業協会会報、1961年10月号)

材料置場の片隅のバラックで雑居寝。これじゃ朝まで身が持たぬ。

中村伸が日左連の機関誌に原稿を寄せるようになったのは、建築研究所で取り組んだ「日本壁の研究」などによって左官研究の権威と認められたゆえ。そんな中村の建築材料研究は、戦時中に住宅営団で進めた、代用建材の開発にルーツを持っています。

偶々昭和十七年五月に住宅営団研究部から「タタキ土」をセメント代用土として研究してみたいという相談があり、セメント不足の折柄その主旨を諒として早速実験の方法を樹てることにした。中村君はその当初から建築学教室の実験室で筆者のよき助手としてタタキ土に関する実験を担当し来ったのである。
(浜田稔「序」、中村伸『セメント代用土』、1945年)

『瓦』と題した著書もありますが、これは建築学会セメント製品規格委員会において、セメント瓦と厚型スレートの規格をつくる際の実験がベースになっています。戦時から戦後復興にかけて集中的に出版された中村の著作群をリスト化してみると、こんなかんじ。

『セメント代用土の研究』産業図書、1938
『セメント代用土サイロ講習講義録』帝国畜産会、1943
『住宅研究叢書・第2集:セメント代替材料』住宅営団、1944
『セメント代用土:建築新書』乾元社、1945
『増補セメント代用土:建築新書』乾元社、1946
『セメント代用土の研究』産業図書、1948
『瓦-製造法と歴史:建築新書』相模書房、1949
『日本壁の研究』東京大学博士論文、1951
『左官問答:コンクリートパンフレット28』日本セメント技術協会、1953
『日本壁の研究』相模書房、1954
『左官読本』彰国社、1962

戦時そして戦後復興期の建材不足や不燃化への要請に応えるかたちで、セメント代用土やセメント瓦について研究・出版してきた過程がみてとれます。

博士論文としてまとめられた「日本壁の研究」も科学的な分析を介在させて建築不燃化に資する「左官」確立を目指したもの。左官に対する中村のスタンスは、(湿式なのに)ドライに見えたかもしれません。

先日ある会合で、請負会社の研究所に席をおく先輩にあったら「左官屋さんもだんだんと仕事がへってきてお気の毒ですね」と同上されたのには閉口した。筆者は別に左官業を営んでいるわけではないから、工事がへってきたことには関係がないし、また同情されるほどに左官業そのものに愛着をもっている訳でもない…
(中村伸「塗壁の良さ」新建材、1961年4月号)

左官業の合理化は、同時に職人の勘と経験から引き離す試みでもあったわけで、左官業界にとっても諸刃の剣だと思うと、快く思わない人もいたでしょう。このあたりの技術者と職人のすれ違いは、中岡芳郎の描くお菓子工場を思い出します。

この工程技術者の「先生」に対する関係は、名人から秘伝を盗みとる人間の関係に似ている。ただ、技術者はできるだけ客観的な科学的なものとしてそれをつかみたいのである。その関係がどうしても対立的なものになるのはやむをえない。
(中岡芳郎『人間と労働の未来』、1970年)

左官業界への改革案も拒絶され、そして勤務校であった東京都立大も学生運動で混迷を極めるなか、1970年、中村は失意を胸に大学を辞め隠居生活に入ることになります。新沼が集団就職で左官業に就いた頃のこと。

実父から「まだ隠居は早い」と言われて日大非常勤は続けたものの、心のよりどころとしたのは幼少期から続けてきた絵画の世界。戦時中も決してやめなかった絵を描くことに没頭する日々を過ごしたそうです。2006年、90歳の年に中村は亡くなります。臨終の場は自宅アトリエでした。

死の翌年、奥様とご子息の手により、生前の中村が描きためてきた油彩画を一冊の画集にまとめました(Shin Digital Art、2007年)。書名は『壁博士の絵:建築壁材学者が描いた美の世界』でした(図8)。序文には奥様の愛情たっぷりな苦労話が綴られていて、ステキな画集になっています。

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図8 『壁博士の絵』

俺の昭和が遠くなる

1976年、新沼謙治も「おもいで岬」でプロ歌手デビュー。一躍トップスターの道を歩むわけですが、そんな新沼が時代もすでに平成となっていた2004年に発表したのが「左官職人こね太郎」。自ら作詞・作曲を手掛けた思い入れある歌でした。

そういえば同じく演歌歌手である千昌夫も、高校中退後、1965年に作曲家遠藤実に入門するまでの間、左官職人見習いとして働いていた時代があるそう。

千昌夫の故郷は岩手県陸前高田。東日本大震災は新沼謙治、千昌夫双方の故郷に甚大な被害をもたらしたことになります。この震災被害を受けて、新沼は故郷の復興への思いを込めて、アルバム『ふるさとの風景』(2012)をにリリースします。アルバムには「ふるさとは今もかわらず」といった故郷への愛を歌い上げる曲のほか、過ぎ去った「昭和」を歌う「俺の昭和が遠くなる」も収録されています。

飲むほどに昭和が懐かしい
良かった時代と誰も言う
遠くなるほどなおさらに
色とりどりに恋をして
色とりどりに生き抜いて
幻みたいに過ぎてゆく
俺の昭和が遠くなる

「昭和」の末、バブルに日本が湧いていた頃、左官職人から演歌界のスターへと駆け上がった千昌夫は「歌う不動産王」や「ホテル王」と呼ばれ、膨大な資産をつくりあげました。

そしてバブル崩壊後の顛末については御存じの通り。どうやら戦後日本の建築生産、そして左官業と演歌は切っても切れない関係のようです。

 こねてこねてまたこねりゃ
 何故か力が湧いてくる
 今日も働くこね太郎

粘り強さをともなう不屈の心持ちが「左官職人こね太郎」の歌詞には込められているようです。「ミゼットハウス」の後に続いたプレハブ住宅も、左官業のその後も、中村伸の見立てとは異なった展開を遂げていきました。「ミゼットハウスの出現」から60年を経過した現在を見たら、中村伸はいったい何と言うでしょうか。

(おわり)

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