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食寝分離論というプロジェクト【2】コタツでミカンは封建遺制?

さて、コタツでミカンの季節になりました。絵本の世界でも、みやもとただお『ぬくぬく』(佼成出版社、2004)(図1)、加納果林『こたつさん』(CalinBell、2010)、そして、『おばあさんのふしぎなコタツ』(ポプラ社、1984)などなど、コタツを舞台にした生活の一場面が登場します。

図1 みやもとただお『ぬくぬく』

そこで描かれるコタツ景といえば、おばあちゃんとの対話だったり、家族がみんな団らんの時間だったり。人と人をつなげる役割は、コタツがもつ「暖かさ」にあるのはもちろん。そして、コタツ自体が、ちゃぶ台であり食卓であり、そしてコタツ「布団」と言うくらいに、寝具でもある性質に由来するのでは中廊下と思うのです。

つまりは、人と人とをつなげるだけでなく、団らんや食事、就寝といった異なる生活行為をもつなぐ。そんな機能がコタツにはある。だとすると、コタツは「食寝分離」とは相容れない関係に。では、「食寝分離」が謳われた時代には、いかなる理由によって生み出されたのでしょうか。

西山夘三(1911-1994)が提唱し、戦後日本の住宅計画を決定づけた「食寝分離論」についてあれこれ考える「『食寝分離論』というプロジェクト」。その第2回目は、西山が「食寝分離論」によってなにを実現しようとしたのかを探ってみたいと思います。そのための作業として、ここでは、西山が「食寝分離論」を推進するにあたって、何にダメ出ししたかを手掛かりにしてみます。

市浦健と西山夘三が目指す「食寝分離」な住宅づくり

西山夘三が自らの「食寝分離論」を鮮明に打ち出したのは論文「住居空間の用途構成に於ける食寝分離論」(1942.4)です。この論文発表時、西山の肩書きは労務者向け住宅を大量生産すべく設立された国策会社・住宅営団の技師。先の論文が収録された論文集には「住宅設計基準と規格平面に就いて」(1942.4)も収録されています。

この論文は、西山夘三のほかに、住宅営団の上司である規格課長・市浦健(1904-1981)と同僚の森田茂介(1911-1989)が共同執筆したものでした。住宅設計規準と規格平面を定めることがなぜ必要なのか。こう語られます。

かかる基準及規格平面設定の意義を簡単に云えば直接的に得られる生産上の利益は素より更に進んで国民生活の向上指導に資することなのである。住宅営団に於て自ら「設計基準」及「規格平面」を持つ所以も全く同様な意図に他ならぬ。
(市浦・西山・森田「住宅設計基準と規格平面に就いて」1942.4)

良い住宅がつくられれば、そこに住む人々の生活を向上指導できる。そんな住宅を大量生産すれば、日本国民全体を変革することもできる。そんな思いというか使命感が、当時の国策を担う技術エリートにはあったのでした。では、良い住宅であるための良い間取りには、どんな勘所があるのでしょう。

かかる規模の庶民住宅に於ては住生活の最小限の要求として最も住宅を大きく使用する夜間の就寝のための面積と、食事のための面積が要求される事、此寝室と食事室とは分離して別個に設けられなければならぬ事、の2点である。
(市浦・西山・森田「住宅設計基準と規格平面に就いて」1942.4)

そうです。「食寝分離」です。西山が地道な調査研究によって確立した「とされる」理論、「食寝分離論」を市浦たちは適用して、住宅営団のつくる住宅のあり方を模索したのです。ただ、同じ国策会社で机を並べ、「食寝分離」な住宅づくりに邁進しつつも、同じ夢を見ていたのではなかったようです。それは西山による市浦へのダメ出しからうかがえます。

市浦健の「住宅平面の分化」説と西山夘三のダメ出し

改訂につぐ改訂を経て現在にもつづく『建築設計資料集成』(日本建築学会編、丸善)は、太平洋戦争勃発直後の1942年3月に第1巻が刊行されました。そのあたりのお話については、以前、別の視点から書きました。

で、この戦時版『建築設計資料集成』の「住宅」を担当(主査)したのが、先に登場した市浦健と谷口吉郎(1904-1979)。そこで市浦は藤岡通夫(1908-1988)とともに、ノイフェルトの「住宅組織図」を参考にしつつ、住宅の組織図を描いています(図2)。

図2 市浦・藤岡「住宅組織図」

この組織図。中央部分にある菱形部分は「単室住居」とあって、そこから展開する住宅平面の分化を図式化したものなのです。菱形の角にはそれぞれ「褥(寝る)」「卓(食べる)」「炉(煮炊きする)」「流(洗う)」を表し、原始的な住居ではこれが単室であったものが、次第に複数の室へと分化し、現在の邸宅に至るというのです。

市浦はそんな室が分化していくプロセス(第一次分化から第四次分化までを説く)を論文「庶民住宅平面の分化」(1942.7)と題し発表。さらに著書『住宅の平面計画』(相模書房、1943)にても詳述、戦後の大幅改訂版(1949)でも継続して収録。さらに13年後の『共同住宅の平面計画』(相模書房、1962)にまで収録し、市浦の住宅計画論の核をなすセオリーだった模様です。

この「庶民住宅の平面分化」は、住宅営団、そして大日本帝国が重要課題とする庶民住宅の標準、いわゆる「国民住宅」を歴史的に位置づけるための発展モデルであり、そして、そのモデルが示すのは「食寝分離」が歴史的な「平面分化」に沿ったものであるという理論づけなのでした。

そんな市浦の努力を、後に西山夘三は「食寝分離の主張を邸宅設計論と結びつけようと努力した」と指摘しつつ、こうダメ出しします。

階層の違いによる住生活や住空間の質的な格差としてつかむべきものを、歴史的発展の経過でもなく、また必ずしも住宅改善のコースともいえないのに、「発展」とか「分化」という図式でそれらを関連づけることにはかなり問題がある。
(西山夘三『日本のすまい・Ⅱ』勁草書房、1976)

同じ住宅営団に所属し、「食寝分離」な住宅づくりに邁進していた二人。そんな市浦が「食寝分離」を歴史的に位置づけようとした試みに、西山はご不満だったのです。それは「階層の違い」や「質的な格差」を掴み損ねているのがアカンと。

関野克の「住宅発展模型図」と西山夘三のダメ出し

西山夘三のダメ出しの真意をより明確にするために、同じく「国民住宅」の歴史的位置づけを試みた建築史家・関野克(1909-2001)の「日本住宅発展模型図」と、それへの西山のダメ出しを見てみようと思います。

関野克は西山「食寝分離論」と同じ年、わが国における住宅の歴史をコンパクトにまとめた『日本住宅小史』(相模書房、1942)を出版しています。この本は、当時、類書がほとんどなかった日本住宅の通史であるだけでなく、歴史叙述を現在まで含め、その名も「国民住宅」と題した章を設けたこと、そして、住宅発展のモデルを大胆に示した意欲作でした。

目下の喫緊課題である「国民住宅」を歴史的に位置づけること。それは市浦健の「庶民住宅の平面分化」説とよく似ています。そして、そこで示したモデルが西山夘三によってダメ出しされたという点でもまた共通するのです。

それはこんな図(図3)。

図3 日本住宅発展模型図

住宅を三要素(文化・社会・自然)から捉え、上古以来の日本の歴史のなかで発展してきた住宅の理想態が「国民住宅」であること。それは三要素のバランスのもとにあること。そして、そんな「国民住宅」には上古以来つづく農家住宅が底流にあることを示しています。じゃあ、西山はそんな関野図式の何が気に入らなかったのでしょう。

まず、西山的に「いいね!」な点。①住宅の複数ジャンルを並行して扱ってる。②支配階級の変化・交替に対応して、支配的技術の主流が移動することを指摘している。③被支配階級の住宅の流れもちゃんと採り上げてること。で、アカンところはというと・・・。

住宅のジャンルの差がこの三要素の混合度の差によって表示される場合にのみこれは正しい。ところがこれらジャンルの差は三指標の度合の差ではなく、建設者の階級的な差異及び住宅内の生活過程、即ち住機能の差によって生じているとみるべきである。
(西山夘三「住宅の発展図式」1951.5)

被支配階級が取り上げられててイイ。階級的な差異を見ていないからアカン。このあたりの論調から、西山が社会主義的な発想のもとに良し悪しの判断をしていることが見て取れます。そして、それがわかりやすく現れるのが、西山自身が描く住宅発展の「対案」です(図4)

図4 西山夘三「住宅の発展図式」

原始共産制社会にはじまり、奴隷制社会、農奴制社会、資本制社会と経て、最後に共産制社会へと至る。そこでは「都市と農村の対立の止揚」がなされる云々。

西山は「これからのすまい」を考えるにあたって、歴史が大切だと説きました。だからこそ、市浦や関野の歴史発展モデルにダメ出しをしたのです。西山は言います。

事物の認識は歴史的でなければならない。住宅の問題、特殊的には住宅計画の実践の、基本となる住宅発展の方向づけは、その歴史的な発達過程の正しい認識の上にたたねばならない。そして住宅史は、この実践的な任務にこたえるものである。
(西山夘三「住宅の発展図式」1951.5)

歴史的な発達過程の「正しい認識」が大事だといいます。そして、その「正しい認識」のもと、住宅計画の実践が求められる。当然に「食寝分離論」は、「正しい認識」のもとに生成されたもの。前回引用した西山の言葉をあらためて見てみましょう。

食寝分離論は、こうして、当時の庶民住宅の水準を前提として確立されるべき設計の基本的前提条件としておし出されたのである。それは素朴な経験主義や転用論という誤ったドグマの持ち込みに対して、現状の分析からそこに隠されている法則性を発見し、これを創造的に適用しようとするリアリズムの展開であったといえる。
(西山夘三「食寝分離論と住み方研究の方法論」1981.8)

「素朴な経験主義や転用論」。いってみれば、団らんや食事、就寝といった異なる生活行為をもつなぐ「転用」祭りなコタツでミカンは、「共産制社会」実現に逆行する「封建遺制」とみなされるものだったに違いありません。

実際、戦後になって、住宅改善の停滞を示すのに「コタツ」は恰好の事例となりました。

公営住宅のDKでは、1970年前後の調査でみると、DKで食事をする例が大多数でありながらその大半はユカ坐のちゃぶ台又はこたつ台の使用であった。(中略)ユカ坐の慣習の根強さと同時に(中略)すべてをまかなうチャノマの伝統の強さを示すものであろう。
(鈴木成文『住まいを語る』建築資料研究社、2002)

さてさて、「都市と農村の対立の止揚」がなされる「共産制社会」の実現へ向けて、西山は「隠された法則性を発見」し、あるべき住宅計画へと「創造的に適用」する「食寝分離」を押し出したのでした。「食寝分離論」という「共産制社会実現プロジェクト」として。

いまからみるといろいろムリがあるように見えなくもない論理ですが、戦時下ののっぴきならない状況下において、時代の制約のなか西山夘三が賢明に庶民の住宅を考え抜き、そして実践していったのでした。

いよいよ次回は最終回(のはず)。西山夘三が「食寝分離」の「法則性を発見」した現場に赴きつつ、吉武泰水(1916-2003)が「正確な調査の結果」じゃなくって、ありゃ「洞察」だと断じた状況を手掛かりに「食寝分離論というプロジェクト」を観察してみます。

(つづく)


画像出典
トップ画 喜多川歌麿『絵本四季花 下』1801
図1 みやもとただお『ぬくぬく』佼成出版社、2004
図2 建築学会編『建築設計資料集成1』丸善、1942
図3 関野克『日本住宅小史』相模書房、1942
図4 西山夘三「住宅の発展図式」日本建築学会研究報告、1951.5

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