マガジンのカバー画像

日本古代天皇史~神武天皇から安徳天皇まで

13
2000年以上ともされる天皇家の歴史の中で、伝説の時代から、もっとも権威の強かった飛鳥・奈良・平安時代の動きを紹介。過度に賛美することなく、もちろん卑下することもなく、あくまでも… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

日本古代天皇史⑬

藤原仲麻呂の台頭と橘諸兄の失脚  孝謙天皇は、このときすでに32歳、しかも独身であった…

日本古代天皇史⑫

藤原氏の始祖不比等の台頭  母帝である持統上皇が亡くなってわずか5年後、文武天皇は24歳の…

日本古代天皇史⑪

天智天皇の即位と叔父と甥の確執  父帝の死後、政争に巻き込まれることを嫌った有間皇子は…

日本古代天皇史⑩

乙巳の変の勃発 645年6月、朝鮮半島からの貢物が、天皇に献上される儀式が執り行われる。席上…

日本古代天皇史⑨

ふたたび勃発した後継者問題  舒明天皇は第1回目の遣唐使派遣(630年)や九重塔を備えた百済…

日本古代天皇史⑧

推古女帝は中継ぎやお飾りではなかった  推古天皇が即位したとき聖徳太子は19歳だった。若く…

日本古代天皇史⑦

崇峻天皇暗殺事件  30代敏達天皇は廃仏派であったとされ、そのために物部氏が勢いを増していた。だが、先帝の弟である31代用明天皇は崇仏派で、母親も皇后も蘇我の人間だ。蘇我と物部の立場は逆転する。そもそも、用明天皇は馬子に推された天皇であり、その陰には虎視眈々と皇位を狙う皇子がいた。穴穂部皇子である。  欽明天皇の皇子で用明天皇の異母弟である穴穂部皇子は、敏達天皇の後継をもくろんでいた。しかし、馬子によって用明天皇が擁立されると皇子は守屋と結託し、次の皇位を望んだのである。

日本古代天皇史⑥

廃仏派と崇仏派の内乱「丁未の乱」  古墳時代から飛鳥時代ごろの政治機構は、大王と呼ばれ…

日本古代天皇史⑤

推古天皇以前と、それ以降 32年にわたる欽明天皇の御世のあと、30代天皇として即位したのが…

日本古代天皇史④

多くの崩御年次が存在する継体天皇 『日本書紀』によると、継体天皇は皇子の勾大兄(のちの安…

日本古代天皇史③

武烈天皇で断絶した皇統 継体天皇は近江国(現滋賀県)で生まれたが早くに父を亡くしたため、…

日本古代天皇史②

初代天皇であるハツクニシラススメラミコト 崇神天皇は大和国(現奈良県)三輪山の麓に瑞籬宮…

日本古代天皇史①

約2600年の日本の状況 奈良時代に成立した日本の歴史書『日本書紀』によれば、初代天皇とされ…