武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑪

国威高揚に利用されたベルリンオリンピック

ヒトラーも反対したオリンピックの開催

 オリンピックといえば、4年に1度開催されるスポーツの世界的祭典だ。ギリシャから開催国へと繋がる聖火リレーから始まり、テレビ・インターネットで放送される選手達の活躍には手に汗握るものがある。
 もちろんスポーツ大会なので政治的利用はご法度だが、オリンピックをプロパガンダの場としたのがナチスドイツである。1936年のオリンピックがドイツベルリンに決定したのは、その4年前。ナチスが政権を奪取する1年前のことである。
 実はドイツ開催のオリンピックは第一次世界大戦の勃発で一度流れていて、そのリベンジとして熱心な誘致を行った結果だ。最大政党となったナチスはオリンピックを国威発揚に利用することを発案し、提案者は宣伝大臣のゲッペルスだった。
 ゲッペルスはドイツとアーリア人の優秀さを全世界にアピールするチャンスととらえていたが、反対の声も大きかった。その筆頭が、意外にもヒトラーだ。
 アーリア人を優良種とするナチズムに対して、オリンピック委員会は人種、宗教、性別、政治による差別を否定。ナチスの理念に真っ向から対立するオリンピックへの参加に懐疑的な党員も多かったとされ、ヒトラーも複数人種との競技には拒否感を抱いていたのだ。
 さらにアメリカを筆頭とした各国は、人種差別を強めるドイツ大会へのボイコットも検討するなど、厳しい状況にあった。

徹底されたユダヤ人迫害の隠蔽

 だがゲッペルスはヒトラーを粘り強く説得。その努力が実り、全党挙げての支援が決定した。まず手はじめに行なわれたのは、ユダヤ人迫害の徹底した隠蔽だ。
 ユダヤ人の入店禁止を掲げた看板が軒並み撤去され、海水浴場も人種隔離方針を一時的に撤廃する。さらにはユダヤ人のチームからの除外を禁ずる国際オリンピック委員会の決議案をのみ、21人の選手をキャンプ入りさせた。
しかも期間中のベルリン市内は徹底した清掃が施され、裏通りに紙キレすらないほど磨きあげられた。そうした表向きの差別撤廃と街づくりによって、「クリーンなナチス」を参加国と観客にアピールしようとしたのだ。
 もちろん選手団への対応も余念がなかった。各出身国に合わせたサービスの提供だけでなく、多種多様なイベントで楽しませてもいる。フランス選手団を例に挙げると、選手村に到着した選手をヒトラーユーゲントの少年少女がワルツを踊って歓迎。一般観光客にも数百人規模の通訳を用意し、ユダヤ人観光客にも親切に対応している。まさに至れり尽くせりの対応であった。
 こうした方策が功を奏し、各種メディアの反独感情は薄まる。アメリカもボイコットを撤回し、アメリカの特派記者ウィリアム・シャイラーも「残念ながらナチのプロパガンダは成功を収めたようだ」と語っている。ナチスのクリーン政策は大成功といっていい。

ショーアップされたイベントと高度な技術

 大会そのものにも手は抜いていない。むしろ、現代までつづく多数の行事が、この時代に誕生している。現在のオリンピックでは定番の聖火リレーがはじまったのも、ベルリンオリンピックだ。アテネからベルリンまで、計3000人のランナーを使ったリレーはラジオでも放送され、オリンピックへの注目度を抜群に高めた。
 ベルナ・マルヒが設計したメインスタジアムも当時世界最大規模を誇り、収容可能人数は10万人にも達した。ドイツが建設したアウトバーン(自動車専用道路)も「オリンピック道路」として宣伝され、テレビ中継が実験的に取り入れられたのもこの大会からだ。技術の不足で生放送でこそなかったものの、街頭テレビを用いた実況放送は大きな技術宣伝となった。記録映画の制作もベルリンオリンピックからで、「オリンピア」2部作と呼ばれた映画はヴェネチア映画祭のグランプリを受賞している。
 そのなかでもっとも力を入れた技術がラジオ放送である。各競技場に配置されたマイクロフォンの数は約320個。主力の17か所には出張所を設け、海外中継も行なわれた。中央配電盤の長さは21メートルにも達し、挿込穴は1万以上という超大型機器だった。
 これらのショー的要素の追加と新技術の採用で、ナチスはオリンピックを示威的プロパガンダの会場に変貌させた。そしてナチスの目論見どおり、世界の目を欺いたのである。

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