武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑫

情報兵器でもあるナチスドイツの宣伝冊子「シグナル」

視覚に訴えかけることを目的としたグラフ誌

 第二次大戦時、最先端ビジュアルメディアだったグラフ誌は、写真をふんだんに使うことで読者の視覚に訴えかけることが可能だ。この構図はプロパガンダに打ってつけであり、世界中の国々が宣伝謀略に利用した。そのなかでもっとも成功した戦時宣伝グラフ誌が、ナチスドイツの「シグナル」である。
「ジグナール」とも呼ばれ、最初の発行は1940年4月。編集は宣伝省が中心となり、外務省や国防軍最高司令部も制作に協力している。発行の目的は、もちろんナチスドイツの正義と理念を国内外に喧伝すること。これによって占領地域での支持を獲得し、中立諸国をドイツ寄りにできるとも考えられたのである。
 シグナルの特徴は、記事のわかりやすさと娯楽性だった。構成はアメリカの「ライフ」やイギリスの「ピクチャーポスト」を参考にしつつ、写真やイラストで戦場や事件をわかりやすく紹介した。当時としては珍しく、カラー写真も多用。視覚的にわかりやすくした地図や風刺画も用い、娯楽性の高い雑誌に仕上がっていた。
 編集スタッフは10人から15人だったとされ、翻訳者の数は約120人。加えて、各種の記者や学者も協力している。国防軍のPK部隊とも密接な関係を持っていたので、最新の写真も用意しやすい。こうした制作環境により「シグナル」の記事は、プロパガンダの媒体として極めて良質なものとなったのだった。

中立国だったアメリカでも人気を博す

 実際、「シグナル」は販売された大半の国と地域で絶賛されている。対外発行を前提としていたので、翻訳言語はイタリア語、フランス語、英語といった20ヶ国語以上。販売先は約30ヵ国にもなり、占領地と中立国はもちろん、一時期には1941年末まで中立国だったアメリカ本土でも販売されていた。1冊10セントという安さから、購読するアメリカ国民も多かったという。
 ほかの中立国でも高い評価を受けた「シグナル」は、最盛期の1943年には発行部数250万部を突破。大衆への影響力は計り知れないものとなっていた。アメリカのプロパガンダ誌「ヴィクトリー」ですら、最盛期でも部数はこの半分程度しかなかった。「ライフ」も「シグナル」を「枢軸国の偉大な宣伝兵器」と警戒する記事を書くほどに、アメリカは雑誌プロパガンダ戦で劣勢に立たされていたといえる。
 そんな「シグナル」の内容は、ドイツの戦況とともに変化している。まず好調だった戦争序盤では、記事の大半がドイツ軍の戦勝記事で占められていた。初号発行とほぼ同時に始まったノルウェー・デンマーク侵攻からはじまり、フランス方面の活躍をカラー写真混じりで華々しく紹介。「強いドイツ軍」をアピールし、占領地住民の服従と中立国の支持を得ようとしていたのだ。

戦況の悪化にともない減少する戦場記事

 ただ、独ソ戦が開始されてもしばらくは好戦的な記事がつづくものの、最盛期の1943年を境に記事にも変化が生じはじめる。
 同年2月2日のスターリングラード撤退以降、ドイツはソ連軍に対して守勢に立たされはじめる。北アフリカ戦線も5月13日のチュニジアの戦いを最後に崩壊するなど、ドイツは各方面で連合国の反撃にさらされることになる。
しかし、そうした劣勢を「シグナル」は伝えなかった。チュニジアでの敗北は一切報道されず、スターリングラードの撤退も「勝利のための一時的な後退」とした程度である。
 さらに敗北をひた隠しにすべく、戦場記事は減少の一途をたどる。増えたのはコンサートやスポーツ大会、映画スターのゴシップにファッションといった娯楽記事である。
 国内向け雑誌では戦争終結後の優雅な暮らしを予想する特集を組み、国外向けでは共産主義からの解放を主張するプロパガンダを展開した。1944年よりドイツ本土空襲が開始されても、小規模の「テロ空爆」として被害を矮小に見せかけていく。やがて占領地の解放とともに発行部数も激減の一途を辿り、1945年3月に最終号を迎えた。
「シグナル」の制作スタッフは、4月にワッテンドルフの臨時編集部にて連合国軍に拘束されている。しかし、中には逃げおおせたあげく、戦後に大成した関係者もいる。
 外務省報道局長のパウル・シュミットは、編集部に送り込んだ部下を通じて雑誌に強い影響力を持っていた。戦後、連合国の追及を逃れた彼は「パウル・カレル」というペンネームで作家デビューを果たしている。戦記がとくに好評を博していたが、内容には「シグナル」由来のナチス賛美の歴史観が反映されているという。

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