武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑬

ドイツ国防軍が広報に加担した宣伝部隊「コンパニエン」

ゲッペレスによる国防軍との連携

 1935年の再軍備宣言と国防法の制定により発足したドイツ国防軍には、対外宣伝用のプロパガンダ部隊があった。それが「プロパガンダ・コンパニエン」、通称「PK部隊」と呼ばれた、軍隊の広報宣伝隊である。
 部隊の誕生にかかわった人物といえば、やはりゲッペルスだ。ゲッペレスは宣伝省の長として国内宣伝に影響力を有していたが、軍隊への発言力は弱かった。
 だが、戦地の様子をニュースや新聞で伝えるとしても、肝心の戦場写真なければどうにもならない。そこでゲッペルスは、国防軍との連携宣伝によって軍事方面の権力基盤を強化するとともに、戦争報道への参加も容易にしようとしたのだ。
 一方の国防軍も発足時に宣伝部門を新設していたが、報道員が個別に活動するという前時代的な体制だった。ゲッペルスは組織的な宣伝部隊の必要性を強く主張し、国防軍は1936年の冬より宣伝部隊員の訓練をメクレンブルクで開始。この流れで発足したのがPK部隊である。
 初期のPK部隊は、報道小隊と宣伝小隊で構成された特殊中隊だった。当初は陸軍通信軍団の下に置かれていたが、のちに国防軍最高司令部宣伝部の所属となる。隊員は宣伝省の動員した記者や専門家と、国防軍の支援要員である。
 編成は陸軍の5個中隊からはじまり、やがて空軍、海軍、武装SSにも配備。ドイツ軍の戦線拡大で、最終的には全軍合計1万5000名という大規模部隊となった。
 国防軍宣伝部の軍事広報と軍事宣伝は、宣伝部長のハッソー・フォン・ウェーデル大佐(のちに少将)が務めているので、彼がPK部隊の実質的なトップだ。しかし実際の運用計画は、部下のルートヴィッヒ大佐が宣伝省や放送局との協議の末に決定していたようだ。表向きは国防軍の所属だが、宣伝省も大きな影響力を保っていたとみていい。

映像・写真プロパガンダの縁の下の力持ち

 おもな活動は戦場に関する宣伝活動。メインは当然、国内向けニュース映像や写真の撮影である。戦地での撮影を容易にするため、部隊には撮影用の特殊車両やサイドカーを配備。実戦を撮影するために、隊員達には銃火器も配備され、防衛戦闘を行うことも珍しくなかったという。
 撮影されたフィルムや写真は特急便でポツダムに送られて、各種検閲を経てベルリンの宣伝省がニュース映画やグラフ雑誌に用いた。そうして宣伝省は戦地で撮影された「ホンモノ」を宣伝素材にすることにより、国民にリアリティのある戦場の臨場感を与えることができた。
 このほかにも、宣伝ビラやメガホンでの呼びかけによる対敵宣伝もPK部隊の役割だった。宣伝映画上映用の映写車や、各部隊に発行する前線新聞用の印刷車まで配備するという熱の入れようだ。まさにPK部隊は、映像および写真プロパガンダの縁の下の力持ちだったといえるだろう。
 そんなPK部隊が初めて実戦投入されたのは、1938年10月5日のズテーテンランド併合だ。しかし作戦が短時間で終わったために目立った撮影はできず、逆に訓練不足や移動車両の不足が目立つ結果となった。

国民をわきあがらせた膨大な記録

 1939年9月からのポーランド侵攻にも部隊は進出し、ポーランドの降伏までに写真生地7000枚、記録映画34本、撮影フィルムに換算して3275メートルもの映像を記録している。そのなかにはポーランド兵による民衆暴行の映像もあるのだが、これは宣伝省の指示で撮影された捏造であるという。
 その後もPK部隊は北欧戦線や西部戦線にて撮影活動に従事。フランス戦では宣伝ビラによる投降の呼びかけで敵の士気をくじき、彼らが提供する映像や写真は各種メディアを通じて国民をわきあがらせた。
 1941年6月22日からのバルバロッサ作戦(独ソ戦)においても陸軍4個中隊、空軍3個中隊が対敵宣伝と撮影事業に投入されていたが、このころには撮影要員の損耗率の高さに加え、国防軍と宣伝省間での撮影方針の違いで活動が鈍りはじめていく。
 戦争後半になると、PK部隊の撮影要員は全軍合計で219人にまで減少。戦局の悪化で撮影頻度も激減し、1945年1月を最後に活動は事実上終了する。隊員は戦犯認定されることもなく、戦後に報道機関の職員やジャーナリストとして活躍した者も少なくない。

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