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#27 ジャッジしない人/エッセイ

今日はとても素敵なお客様に出会った。
「初めてなんですけど」と呟くようにお店に入り、深くかぶった帽子でこちらを除く大きな目。
自然食が好きらしく、たまたま通りがかりで当店を見つけてくれた。

不思議だった。
話す言葉は多すぎず、少なすぎず。
声は大きすぎず、小さすぎず。
この心地よさの中に、何か芯の強さと美しさの様なものを秘めている気がした。

話しが進むにつれて、自身が病気を患っていたことを話しくれた。
「あなたなら話せるかなって」
と、ぽつりぽつりと小雨が降り始めたように優しく言葉が降り注ぐ。
ご自身の病気のこと。
その時感じたこと。
現在のこと。

その方の織りなす言葉1つ1つが美しくて、1輪の花が少しずつ綻び始めるような優しさを纏っていた。そして、その方の慈愛に満ちた言葉から綴られる1つ1つのお話に、何故だか、自然と、涙が出た。

「感謝の気持ちが私にとっては大切なのよね、きっと。」
最後はそんな置手紙のような1言を私の心の残して、お別れを名残惜しく感じる気持ちを表すかのように、お互い2,3回お辞儀を繰り返した。

さっきまでの時間が魔法のようで、いや、私が魔法にかけられたのかもしれないと感じた。太陽の元で日向ぼっこのように心はぽかぽかして、(感謝の気持ちかぁ、、、)とさっきの言葉を頭の中で繰り返す。

ぐるぐるする頭の中で、最近は人をジャッジする話が多かった気がした。
また、自分自身も他者のそんな話に加担していたのかもしれない。

「〇〇はああいう人だから」
「〇〇さんの言っていることはおかしい」
「これからは~を学ばない人はだめだ」
なんとなく聞いていた・言っていたその言葉。

話し終わって1人になると、ふと思う。
(正しさってなんだろう?おかしいってなんだろう?)

私がおかしいと思うことは、相手にとって正しかったりする。
またその逆もしかり。
更には、状況や場所などによって、その意見は大きく傾く時がある。
分かっていたはずなのに、後程ハッとして考え込んで疲れることがある。
正しさなんてあってないようなものなのに、何故主張をすることばかりに重きを置いていたのか。

そんなことをふと思い、今日出会ったあの人にはジャッジが無かったことに気が付いた。
「私は、そう思っているの。」
その句読点が入った文章の後には、
「他の方にはまたその方の意見があると思うから」
と必ずと言っていいほどついていたその言葉。

ジャッジのない愛のある時間は、ありのままでいていいと囁いてくれているようで、温もりが溢れる緩やかな時間なのだと実感した。

あなたはあなたのままでいい。
当然のことなのに忘れていた大切な事。

そんな事を思い出して、心のあかりが優しく灯ったそんな気がした。

(またあの人に会えますように。)
そんな素敵な今日という日を過ごせたことに、感謝が溢れるのであった。

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