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旅とブンガク|津軽鉄道に飛び乗って太宰治のふるさと金木町へ

「来ちゃった」

恋しい人のもとへ押しかけて来たヒロインのような気持ちで、わたしは朝早く金木駅にいた。

「ほんとに来ちゃったよ」

わたしは宿泊先の五所川原から津軽鉄道の始発に飛び乗って、太宰治のふるさと金木町かなぎまちに来たのだった。

津軽鉄道・太宰列車

わたしが五所川原に来た理由

青森県の五所川原ごしょがわら市に来たのは、仕事のためだった。「フジドリームエアラインズ青森ー神戸便の利便性を活かした青森・神戸のビジネス交流」という事業の一環で、青森県の五所川原市と青森市をめぐるビジネスツアーにご招待いただいたのだ。

青森県五所川原ごしょがわら市は、青森県西部の津軽地方にある市で、日本海側の半島(津軽半島)の中南部に位置している。

これまでの経緯はこちら。

『津軽』の暗誦を聞いてたまらなくなって

その旅で最初に訪れたのが、五所川原市の金木かなき地域にあるりんご園の「木村農園」さんだった。

りんご農園を見学したあと、用意してくださっていたりんごの木の下のテーブルで、ツアーに参加したメンバーそれぞれの自己紹介と、名刺交換をした。(なんてかわいらしい名刺交換会)

五所川原市の中まで赤いりんご「御所川原」
りんごの木の下のテービルで

ひと言ずつ挨拶をして、最後に木村農園のお母さんの番になった。するとお母さんはとつぜん、太宰治の『津軽』の暗誦を始められた。

「『や! 富士。いいなあ』と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼まつさおで、富士山よりもっと女らしく、十二単衣ひとえの裾を、銀杏いちょうの葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟せんけんたる美女ではある」

ふるさとへの、愛のこもった暗誦に胸があつくなる。まさかこんなかたちで、『津軽』の一節を聞くことができるなんて。

『津軽』は、昭和19年、太宰治が36歳の時に書いた、ふるさと津軽の旅行記である。

『津軽』の旅のなかで、太宰はこの辺りのりんご畑を歩いたのだという。

 大川の土手の陰に、林檎畑があって、白っぽい花が満開である。わたしは林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。

太宰治『津軽』新潮文庫、昭和二六年

この辺りを。太宰が!

そのときわたしの心は決まったのだった。翌日の朝の始発に乗って、太宰のふるさと金木町に行こうと。

ツアーの集合時間の前に、たったひとりで。

五所川原から金木町へ

宿泊先である五所川原と金木町の位置関係を示すとこうなる。

ホテルのある五所川原から金木までは、「津軽鉄道」を使って行くことになる。

時刻を調べてみたら、津軽鉄道の始発に乗ってすぐに帰ってくれば、集合時間の8:30までになんとか帰ってこれることがわかった。

津軽鉄道とは青森県津軽地方(奥津軽)を走る民営鉄道で、「津鉄(つてつ)」とも言われ親しまれている。昭和5年に運行開始。冬に運行するストーブ列車が有名で、秋には鈴虫のカゴを車内に置いた「鈴虫列車」(9月〜10月中旬)というイベント列車の運行もある。訪れたのは9月だったので、ちょうど鈴虫列車の運行期間だった。

津軽五所川原駅 

津軽五所川原 6:35 → 金木 6:53
金木 7:32 →津軽五所川原 7:53

金木には38分間しかいられないけれど、それに朝早くてどこも空いていないけれど、それでもいいと思った。だって、こんな機会はめったにあるものじゃない。

仮にも通信制大学で「文学」を学んでいる大学生が、たまたま仕事で太宰治のふるさとのすぐ近くに滞在するなんてことがあるだろうか? ないよね。じゃあもう行くしかないのだ。

交流会にて人間失格Tシャツを

そんな思いを胸のうちにひそかに抱えていたわたしだったが、その日の夜は五所川原市でビジネス交流会があった。(いちおう仕事だからね)

もちろん、わたしは「人間失格Tシャツ」で正装をして参加した。このTシャツのおかげで交流会でのつかみはバッチリだった。(東京・三鷹の太宰治サロンにて購入

人間失格Tシャツにテーラードのジレを重ねてきちんと感を演出(できてる?)

ふだんはお酒を飲まないわたしだけど、交流会で「『津軽』というリンゴ酒がありますよ」と言われたら飲まないわけにはいかない。

津軽!

これは『津軽』のなかで太宰が飲んでいたリンゴ酒をイメージして再現したものらしい。

酒ゴンリの宰太

「津輕」:太宰治の小説「津輕」に登場するリンゴ酒を再現しました。昭和19年の津軽が舞台であることで、原料のリンゴは当時主流だった「国光」、「紅玉」、「印度」にふじを加えて仕上げました。終戦1年前という物資が少ない中でリンゴ酒は日本酒の代用として多く作られていたことから、今回はその時代に思いをはせ日本酒酵母を使用しました。

トキあっぷる社 ウェブサイトより

『津軽』には太宰がリンゴ酒を飲む場面がいくつか出てくる。物資が少なかった当時、太宰が友人宅で遠慮して「リンゴ酒が飲みたいんだ」と言っているところや、別の知人宅ではリンゴ酒でめいっぱいもてなされたようすなどがユーモラスに描かれている。

「リンゴ酒でなくちゃいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね」と、N君は、言いにくそうにして言うのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまっているのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重なことは「大人おとな」の私は知っているので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。

太宰治『津軽』昭和二六年、新潮社、44頁

「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。(中略)ついでに、酒だ。いや酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い!(中略)早くリンゴ酒を、もう二升」

太宰治『津軽』昭和二六年、新潮社、69-70頁

『津軽』でリンゴ酒が出てくるシーンは、素朴でうちとけた感じのシーンが多い。その後、金木町の兄弟や親戚と会う場面には独特の緊張感があるので、その対比が印象的だった

五所川原のリンゴ酒は、飲みやすくて美味しかった。でもうっかり飲みすぎてしまうと危険かもしれない。まるで太宰の作品みたい。読みやすいのにガーン、となって、中毒性がある。

お酒をすすめてくれた五所川原市の職員の方に、「明日こっそり津軽鉄道で金木に行くつもりなんです」と言うと、ちょっと驚きつつも、うれしそうにしてくれた。

「ああ、金木に行くなら、太宰が子守のたけに連れて行かれた雲祥寺もありますよ! あの地獄絵のある」と教えてくれる。

38分の滞在時間では、雲祥寺まではたぶん無理かも、と思いながらも、「たけ」という人物名が話題にのぼったことがうれしくなった。

「たけ」は、幼かった太宰の子守である。実母は体が弱く、太宰はほとんどこの「たけ」に育てられた。太宰の『津軽』はたけとの再会を願う旅でもあった。

「たけ!!!! たけの場面、めっちゃいいですよね」
「そうですよね!!!!」

そうして五所川原市の職員の方と「たけ」トークで盛り上がる。太宰が心を許した育ての親、たけの話でこんなにも盛り上がるなんて、太宰は五所川原のひとたちに愛されているんだなと思った。

津軽五所川原駅へ

翌日、ホテルを抜け出して津軽五所川原駅へ。

鈴虫列車

始発電車は6:35

始発前だから、まだ待合室は空いていなかった。あたりには誰もいなくて、切符をどこで買えばいいのかもわからない。

この時は9月。ちょうど鈴虫列車の期間中で、鈴虫の鳴く音だけがあたりに響いている。

とりあえず跨線橋を渡り、ホームに向かう。

自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだということには全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。

太宰治『人間失格』新潮社、昭和二七年

『人間失格』の主人公・葉蔵は、「自分には人間の生活というものが見当つかない」ことの一例として、鉄道のブリッジは「複雑に楽しくするため」だと思っていたということを独白している。俺には人間の生活がわからない、家族との食事だって気詰まりな儀式だと思っていた。と、こう続く。

お金持ちだった葉蔵一家の食事風景のことは想像できないけども、少なくとも津鉄のブリッジに関しては、わたしにとっては上ったり降りたりがふつうに楽しかった。もう、葉蔵はさ、複雑に考えすぎなのよ。

景色とか、

階段の窓とかも、ふつうに楽しい。それでよかったのに。

『人間失格』は太宰治の内的、精神的自叙伝と言われている。私小説ではないとはいえ、大地主のお金持ち一家の末っ子として育った主人公「葉蔵」は、そのまま太宰本人に重なる。

わたしは、『人間失格』は、すごくかなしい。Tシャツを着ておいてなんなんだけど、わたしは『人間失格』を読むと、太宰の人生と重なってしまってほんとに悲しくなる。でも、その「悲しさ」ややりきれなさが、読むひとの救いになることもあるのだと思う。だからずっと愛されているんだろうな。

わたしは、『津軽』に救われた。読むと、毎回いいなあと思う。順番としては『津軽』のあとに『人間失格』が書かれたのだけど、『人間失格』という作品もまた、『津軽』によって救われているとわたしは思っている。

ホームに降りると、かわいいみかん色の列車たちの機関庫が見える。

走れメロス号

ホームには鈴虫の声が鳴り響いている。待合室が鈴虫たちの飼育場所になっていた。駅員さんたちが大切に育てているのだそう。

あちこち写真を撮っていたら駅員さんがやってきてホームのお掃除を始められた。聞くと、運賃は降りるときに車内で払うらしい。ふむふむ。

ホームに、太宰治『津軽』の「芦野公園」の一文が掲げられていて、おおっ! となる。『津軽』づくし。地元のひとに愛されている作品なんだなあとジーンとなる。

長いけれどもリズムがあって読みやすい文章。そのなかにしみじみとしたふるさとへの「愛」を感じる。いいなあ。そしてこの一文をホームに掲げているところにも、津軽の人の太宰への愛を感じる。

太宰列車

ホームに列車がやって来た。太宰列車だ。きゃ〜! 列車と太宰、たまらん。

どころで、金木駅の次の芦野公園駅にある喫茶店『赤い屋根の駅舎』のお客さまは、鉄道ファンが6割、3割が太宰治ファンなのだとか。(FDA機内誌DREAM3776、NO.42より)そして残り1割はレトロ好き

どうしよう。わたし、ぜんぶに該当してしまうのだが。

「太宰列車」は、車内に太宰の本を置いてある車両らしい。

わたしが乗った列車には太宰の本は見当たらなかったけれど、列車に本が置いてある景色は良いものだなと思う。

車内には、鈴虫の音色がリンリンと響いている。のどかだ。

列車はみどりのなかを進む。

とうとう、金木町へ到着した。

運賃は、運賃箱へ

金木町で降りたのは、わたしひとりだった。このとき6時53分。帰りの列車まで、あと38分。

金木町へ

早朝ということもあって金木駅の駅前にはひとっこひとりいなかった。それでも鈴虫列車で緑のなかを走って来たからか、金木は急に町っぽく思えた。

 金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊みえぼうの町という事になっているようである。

太宰治『津軽』

太宰特有の、ちょっと皮肉をこめたふるさとの解説だ。あえて突き放したような書き方が、まるでじぶん自身のことを語っているかのようでもあり、それがかえって、ふるさとへの静かな愛着を感じさせる文章だとわたしは思う。

金木の町なかには標識や案内板がたくさんあって、迷うことはなかった。まずは、太宰の生家、斜陽館に歩いて向かう。駅から徒歩7分とある。

斜陽館

いきなりだった。まず、壁が現れた。

のどかな町なかを歩いているといきなり、赤い壁の塀がドーンと現れる。

それが、太宰治の生家なのだった。でかい。思っていたよりも何倍もでかい。

さまざまな作品や文献から、太宰の生家が、お金持ちの大きなお家だということは知っていたけれど、まさかこんなに大きいとは。想像をはるかに超える大きな大きなお屋敷だった。

しかし、そのたたずまいはどこか異質なのだ。

その異質さは、屋敷を取り囲む赤いレンガの塀によるものも大きいと思う。周囲と屋敷を隔て、威圧する赤い壁の存在感。なんだかこわい。

この塀は大地主で金貸し業を営んでいた「津島家」(太宰治の本名は津島修治)が、小作人からの襲撃を阻止するために建設したのだという。

わたしはこの生家を見て、ショックを受けた。周囲を拒絶するような大きな屋敷は、威圧的で、異質で、そして孤独だった。そりゃあこんな家で育ったら…。

生家が津軽屈指の大地主であったということは、幼い太宰に「自分は特別な人間だ」という誇りを与えた。しかし津島家が農民に金を貸し、彼の周囲の貧しい農民や友だちの家からの搾取によって自分の恵まれた暮らしが成り立っていたことを知ると、彼はうろたえ、悩みはじめる。太宰は大地主の子であることに、強い罪意識を抱いていたという。(『人間失格』解説より)

さらに家のなかにも格差があり、六男だった太宰は、じぶんの肉親よりも、子守のたけや使用人たちに心を許した。

津軽で再会した友人(T君)も、もともとは太宰の家で働いていた使用人だったのだ。

「僕は、しかし君を、親友だと思っているんだぜ」実に乱暴な、失敬な、いやみったらしく気障ったらしい芝居気たっぷりの、思い上がった言葉である。私は言ってしまって身悶えした。他に言いかたが無いものか。
「それは、かえって愉快じゃないんです」T君も敏感に察したようである。「私は金木のあなたの家に仕えた者です。そうして、あなたは御主人です。そう思っていただかないと、私は、うれしくないんです」

太宰治『人間失格』新潮社、昭和二七年、40頁

「金木の生家は気疲れする」という太宰。唯一彼が心を許したのは、家へ仕える使用人たちだった。

見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。

同上、211頁
行けなかった雲祥寺


太宰治疎開の家「新座敷」

帰らなければいけない時間が近づいて来た。駅までの道の途中に「太宰疎開の家」があるというので急いで立ち寄ることにする。

太宰治疎開の家は、太宰が昭和20年、東京の戦禍を逃れて疎開してきた居宅である。

ここで太宰は、あの「トカトントン」を書いたのか。あの、「敗者のブンガク」を。

後で聞いたところによると、ここの館長さんがとてもお話が面白い方なのだとか。今回の青森ビジネスツアーに同行してくださったガイドさんは、最初はあまり太宰にはいい印象を持っていなかったという。金貸しだった津島家のこともあるだろうし、土地の人にしかわからない感覚もあるのだと思う。でも、ここの館長さんの話を聞いたら、すこし考えが変わったそうだ。それは、すごいことだと思う。

今回はなかには入れなかったけど、機会があれば、またじっくり訪れたいと思う。雲祥寺にも。

ああでも、来てよかった。じっさいに、この目で見てみないとわからなかった。あの孤独、あの拒絶と絶望。それでも「津軽」を愛していた太宰と、いまもなお、太宰を愛す津軽のひとたち。

17歳だったわたしへ

金木駅へ戻り、38分間の旅が終わった。7時32分発、五所川原に戻る列車には、たくさんの高校生たちが乗車していた。テスト期間中なのか、みんな熱心に勉強をしていた。そういえば最近の高校生たちは、もう国語で「小説」を学ばなくなったんだよね。

彼女たちは、まだ太宰治の小説を読むのだろうか。

彼女たちと同じくらいのとき、わたしは太宰治の『斜陽』を読んで「文学」に希望を見出した。くわしいことは忘れてしまったけれど、「生きていく」ということばが心に残っている。

愛という科目

五所川原のホテルに戻り、なにごともなかったかのように集合時間に間に合った。じつは大冒険をしてきたんだけどね。

その日の夜、青森市内で行われた交流会でも、青森県庁の職員さんと『津軽』の話で盛り上がり、熱く語りあった。職員さんは、他県の都会に住んでいたのだけど、太宰治の『津軽』を読んで、青森に帰ってくることを決意したのだそうだ。

それは、太宰が学生時代を過ごした弘前市を描写した一節だそうだ。

あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。
(中略)
けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持ちで思わず深い溜息をもらしたのである。
(中略)
私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。

太宰治『人間失格』新潮社、昭和二七年、28頁

まるでおとぎ話の町のような弘前の町を太宰は「夢見るように」描写している。なんだかこちらまで、愛おしい気持ちになる。津軽のひとならなおさらだろう。うっとりして、なつかしくなって、帰りたくなるのもわかる気がする。

『津軽』のなかで太宰は、一度も故郷を手放しで褒めるようなことはしていない。「ほめていいのか、けなしていいのか、わからない」と言いながら太宰は、ふるさと「津軽」を語る。つきはなしたように、ぶっきらぼうに、皮肉たっぷりに、でも不器用な愛をこめて。

私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛星などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。(中略)それらに就いて、くわしく知りたい人はその地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮にその科目を愛と呼んでいる。

同上、30-31頁

愛という科目。こんなことばを書いちゃうんだもん。うう、やられる。

でもね、わたしもそう。ここまで書いてきたけど、わたしは太宰の研究者でも評論家でもなんでもない。でも、わたしには、愛という科目がある。

交流会のあと、青森市の駅前で思わず、「あなたは愛されているんだよ!」と、大声で叫びたい気分になった。太宰は愛されている。木村農園のりんご畑のお母さんにも、五所川原市の職員さんにも、津鉄のひとたちにも、疎開の家の館長さんにも、青森県庁の職員さんにも。町のひとたちにも。太宰はみんなに愛されている。うれしい。

『津軽』のあと、日本は太平洋戦争で敗戦した。そして、『人間失格』と『グッド・バイ』を遺して太宰は自ら命を絶った。だからといって、彼の愛がなくなったことにはならない。

愛という科目は続いている。



最後までお読みいただいて、ありがとうございました!




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ドレスの仕立て屋タケチヒロミです。 日本各地の布をめぐる「いとへんの旅」を、大学院の研究としてすることになりました! 研究にはお金がかかります💦いただいたサポートはありがたく、研究の旅の費用に使わせていただきます!