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creative life

職人の仕事を始めてから、3軒目の工房だった。

一番最初に職人として働いたのは、シルバー加工のアトリエだった。
銀は他の貴金属と比べて、融点も低く、なませば女性の力でも曲げ伸ばし出来て、加工しやすい素材である。
7年携わったので、一通りの加工技術は身についた。

その後、突然その職を失うこととなった。

金やプラチナを扱う仕事をすすめられたりしたのだが、なんとなく合わないような気がして敬遠した。

シルバーアクセサリーなら自分もつけたりするし、顧客も同じ若い人たちなので、何というか自分のテリトリーだという感じがある。
が、金プラチナとなると、せいぜい小さなピアスをつけるかつけないかであって、その顧客は私とは別世界の人たちだ、という感覚があった。


そうこうしているうちに、仏具製造の仕事が見つかり、専門学校では銅や真鍮を加工していたこともあり、こちらの方がおもしろそうだと飛び込んだのだった。
ところが京都という土地柄、伝統工芸の世界、女性であることから、飛び込んで2年後には、そこに私の居場所はないと悟り、大阪に戻ることにしたのである。


週末を利用して職探しを始めて、何件か面接に行って、とある工房にストンと仕事が決まった。しかもそこは、シルバー加工をしていたアトリエと同じ区内で、土地勘もあり、工房から歩いて通える所に住まいも見つけた。意気揚々と再スタートを切ったつもりだった。

その工房は、一階がこじんまりした販売店舗、中2階に事務所、3階にはなぜか普通の家のようなダイニングキッチンがあり、4階と5階が工房になっていた。
元は店舗つき住宅だったそうだ
お店はあくまでもアンテナショップのようなもので、女性の店長が1人で切り盛りしていた。
営業の女の子が1人、事務の女性が1人、社長と社長の奥さんである副社長が、事務所にいた。
工房には韓国人の職人さんが2人と日本人の男の子が1人だった。

私は、金プラチナの加工を教えてもらいながら、5階の個室でワックスの加工をメインの仕事として与えられたのだった。
ワックスとはそれ専用の蠟で、簡単に切ったり削ったりできる。加工したものを石膏にいれて固め、石膏ごと焼くと蠟は溶けて空洞になる。そこに溶かした金属を流し込み、いわゆる鋳造という技術で加工するのである。

鋳造担当は、日本人の男の子、カミカワくんの仕事である。

ワックスの仕事がある時は、5階で1人孤独に作業するのだが、サイズ直しや修理、磨き直しの仕事がくると、それ専用の作業場である4階に降りていくのだ。

慣れない金プラチナの加工は、カミカワくんに教えてもらう。

韓国人の職人さんチームは、独立した職人さんで、場所を借りて仕事を請け負っているにすぎず、その会社に雇用されてはいないので、新人が入ってきても教える義務はないのである。

キムさんは、テコンドーの達人で、軍隊で特殊部隊にいたこともある経歴の持ち主である。職人としても一流で、海外の有名ブランドからも誘いを受けたこともあるそうだ。
日本語はペラペラで、お話好きなのだが、眼光鋭く、いい加減な受け答えをすると、「それはどういう意味ですか?」と鋭く突っ込まれる。
シンさんは、キムさんの後輩にあたり、上下関係に厳しいこともあって、キムさんといる時は言葉も少なく大人しい。眼光鋭いキムさんとは対照的に、丸顔でエビス様のような優しい顔つきだ。年齢も若く、ひと世代上にあたるキムさんとは感覚的にも少し違っていて、今時の若者という感じだった。


営業の女の子はクリモトさんといって、どこか秘密めいたミステリアスな雰囲気でありながら、喋ってみると天然ボケなところもあり不思議なキャラクターだった。

彼女がその会社において不思議キャラなのは、ある意味自分を守るためでもあったのかもしれない。

職場から徒歩5分というところに、マンションを借りたので、お昼休憩は自宅に戻っていた。
韓国人の職人さんチームも、家族の待つ自宅へ帰る。

事務とお店チームは事務所でお弁当だったように思う。

営業のクリモトさんやカミカワくんは外食だったのだが、たまには一緒に食事でもと誘おうとすると、妙によそよそしく断られたことがあった。


仕事上の話をするときは、普通にお話しできていたので、人見知りなのかなぐらいに思っていた。


よそよそしいかと思えば、こちらを伺うような品定めするかのようななんとももどかしい期間があって、しばらくしてから社外でこっそりと教えてもらった。

ここの社長という人が、なんとも人をコントロールすることに長けていて、洗脳されたチームと、適当に流しているチームと、敵対しているチームに分かれているらしいと。

店長、事務女性は洗脳チームで、時々ゾンビのようなサカナの死んだような目をしていることがあった。
慇懃無礼な丁寧な柔らか口調で、えっ?と思うようなことを言ったりすることもあった。
社長の差し金ではあるが。

クリモトさんとカミカワくんは適当に流してるチーム。若いだけあって、ドライに受け流して、表面上は当たり障りのない態度をとっていた。

韓国人さんチームは、もともと日本人への不信感もあって、面と向かって声を荒げることはないが、工房ではハングルで悪口を言っていた。ずっとそばにいるカミカワくんは、なんとなく察しながらも、ハングルなので適当に聞き流していた。


縦に高い建物内では、内線電話と何故かインターフォンでやりとりをしていた。社長曰く、職人さんが手を止めることなく会話ができるように、とのことだった。
が、時折インターフォンからプツンという音だけがすることがある。何か言おうと思って、あ、やっぱりいいわということかなと、あまり気にしていなかったのだが。実際インターフォン越しでは伝わらないかとクリモトさんが上がってきて直接話をすることもあったからだ。
クリモトさんとカミカワくんは、社長が盗聴している、と教えてくれた。


実はこの2人、こっそり同棲中の恋人同士なのであった。工房での話と事務所での話を付き合わせると、絶対に盗聴しているのだという。だから彼らはよそよそしかったのだ。

また、聞いていて笑ってしまったのだが、従業員同士で食事に行くのもダメ、遊びに行ったり社外で交遊するのもダメと言われるそうだ。ダメだと言われながら、アンタら同棲してるやん、と突っ込むと2人は笑っていた。


韓国人さんチームも話してみると気さくな人たちである。
キムさんの世代は抗日教育が盛んな世代で、ものすごい覚悟で日本に来たそうだ。実際には在日コリアンの多い地域で、先輩の韓国人の職人さんも多く来日しているので、日常生活に困ることは少ない。
ある世代から上の日本人は差別的な偏見を持っていたりもするが、若い世代は屈託がなく明るく親切で礼儀正しく、思ってたんと違う、、、となっていったらしい。
若いシンさんは、のびのびと日本生活を楽しんでいるように見えた。


本多勝一というルポライターの著書で、「殺す側の論理、殺される側の論理」という本がある。

世間一般の通念、みんなが乗りたがるレールに魅力を感じられず、いつも道の端っこ、時には裏通りを歩きがちだった私は、マイノリティの自覚があり、虐げられる少数民族の歴史に興味を持って調べたり本を読んだりしていた時期があった。
関西をいう土地柄もあって、在日コリアンや被差別部落に関するものも見聞きしていた。
高校を卒業したあたりから、世間はバブルで浮き足立っており、そんなことに興味を向けている人など周囲にはほとんどいなかった。

どちらが正しくてどちらが間違っているのかではなく、ある事実があって、あちら側から見た景色とこちら側から見た景色があるということを認識していた。
キムさんに、まるで試すかのように、日本と韓国の間の歴史について話を向けられた時に、そのようなことを答えた。

キムさんは驚いたような表情をした。若い世代は何も知らない人が多い、知っている世代は差別的な態度をとるか(表面上は穏やかでも)罪悪感からかよそよそしい態度をとるかで、キムさんの中でも日本人とは何なのかを考えあぐねている頃だったらしい。

それからキムさんとはよく話すようになり、歴史、宗教、文化的な価値観などについて意見を聞かれたり、教えてもらったりした。

すっかり打ち解けた頃に、とあることで韓国人は日本人はみたいな話になった時に、キムさんはきっぱりと、「日本人にも良い人もいれば悪い人もいる。韓国人にも良い人もいれば悪い人もいる。もっと言えば同じ人でも良い人の時と悪い人の時がある。どこの国の何人であるかを理由に良い悪いを言うのはおかしいですねえ」と言った。
その場にいた全員がその通りだと納得したのである。

キムさんは軍隊にいた頃、何度も死にそうになったことがあったそうだ。特殊部隊の訓練時代の話しだけでも壮絶である。詳しいことは守秘義務があるので、ほんのさわりを聞いたに過ぎないのだが。
自分への裏切りに対しては、「相手を殺して自分も死ぬや!」と激しい気性の持ち主でありながら、「私は心がはやいからねぇ、、、」(気が短いの意味)と客観的に自分を見つめる部分もあった。ゴリゴリの経歴とは裏腹に繊細で豊かな感性の持ち主で、自身の弱いところもさらけ出したり、直視できる強さも持っていたと思うのだ。


対照的なのが、社長だった。


とにかく他人をコントロールしようと、そればかり考えている。自身でも、「俺は心理学とか勉強した。俺にはヒトの心が読めるんや」と口にしていた。

実際には、時には恫喝、時には優しく、その人がコンプレックスに思っている所を的確に、かつ、しつこく突くのがとにかく上手いのだ。

クリモトさんは営業という立場をうまく利用して、なるべく事務所にいないようにしていたが、それでもしつこく、時には抜き打ちで電話で追いかけられたりしていた。


今でいうところの、セクハラ、パワハラのオンパレードであったが、当時はワンマン社長など多かれ少なかれこんなものという認識で、従業員はそれぞれ自衛するしかなかったのである。
クリモトさんからは、過去の従業員で何人かノイローゼ状態になったり、大声で叫んで飛び出してそのまま来なくなったり、いろいろあったみたいと聞いた。

私に対しては、最初の頃は様子伺いしていたが、慣れてきた頃、身長体重を何度も聞かれた。さりげない様子を装いながらも、コンプレックスを突いているつもりなんだろうなと感じたので、こちらも天真爛漫を装って正直な数値を即答した。
その後も何度も聞いてきたので、その度に数値を即答の上、「この前もおんなじこと聞いてましたやん?もう忘れはったの?」ととぼけて付け加えた。

仕事の仕方や細かいことをごちゃごちゃ言ってくることも、ふーんへーほーで右から左に流していたら、どうもコイツはコントロール不可の認定をいただいたようで、直接の害が及ぶことなかったのである。
この頃の対応技術は、現在の仕事、高齢者への対人援助技術にも大いに活かされており、人生とは不思議なものである。


社長がどうして他人のコンプレックスを突いてコントロールしようとするのか、それはつまり、社長自身がコンプレックスの塊だからである。

当時の私は社長から見れば、小娘であり、その私より年下のクリモトさんなどはもっと小娘で、いわば皆立場が下の従業員相手に、自慢話をするか、周りくどく相手を下げる画策をし、強く出れない相手には誉め殺し、影でコントロールしようとする。ほぼ毎日をそんなことに費やしている。


外から来た私にしてみれば、そこをクビになったとしても、外にはもっと自由な世界があることを知っていて、この人たちは(コントロールしている方もされてる方も)、こんな狭い井戸でなにしてるだろう?と思っていた。

会社を一歩出れば、自由だ。
私やクリモトさん、カミカワくん、キムさん、シンさんはしょっちゅうボーリングやバーベキュー、飲み会など、大いに楽しんでいた。社長の知らない所で。
知られた所でどうということもないのだが。


会社はかなりのブラックだったが、そんなこんなで居心地は悪くはなかった。

しかしながら、職人としては頭打ちだった。

おそらく世界でも片手に入るクラスのイムさんの仕事ぶりをすぐそばで見ていて、私がそこから何十年頑張ったとしても決して足元にも及ばないこと。
ワックスの仕事は工賃が安く、日当を上げるにはスピードが問われる。つまりとにかく短い納期でこなしていかなくてはならないのだ。これが、辛かった。
作業のどこかで何か失敗すると、時間のロスとなるので、ずっと緊張を強いられるのだ。特に仕上げに近づけば近づくほど緊張する。

扱うものが高価であることもプレッシャーだった。金、プラチナは、削りカスも回収してコンマ何gまで計測されるのである。
修理やサイズ直しも、取り替えが効かないし、高価な宝石を傷つけたりしないよう細心の注意が必要だ。

細かい作業では、呼吸が指先に伝わらないよう、息を止めることがある。
続く緊張と共に、呼吸が浅くなり、体調を崩すこともあった。


作る楽しみよりも、プレッシャーが大きくなり、どんなに頑張っても男性の職人さんの上をいくどころか、並ぶことすらできないのだと悟ると、この先ずっとこの仕事でいいのかなぁと思うようになった。

そんな頃、私は盛大に失恋をした。
(この恋愛話についてはとっても長い話なので、別件としよう)

三十路を少し過ぎた頃だった。
当時は結婚願望は希薄だったが、なんとなく流れでできるものだと思っていた。
その道も絶たれ、仕事も頭打ち、帰路に立たされたのである。

ずっと好きなことを仕事にしてきたのだから、しかも社会人デビューしてまもなく夢を叶えたのだ。職人になるという夢を。
これからは恩返しのつもりで、何か世の中の役に立つ仕事をしよう、となぜかそう思ったのだった。


医療職、鍼灸、義肢装具士(職人歴が活かせるぞ)、福祉、、、
キャリアがない分資格がいるぞ、学校へ行かなくちゃ、うーん、どれも学費が半端ない、、、などなど思案した結果、介護福祉士の資格を取るために、夜間の専門学校へ行くという選択をしたのだった。これなら昼間働きながら通える。

社長には、社長の奥さんから根回しをしてもらい、3年間の通学期間の内、2年間を早朝から働いて夕方には切り上げて学校へ行かせてもらうことにした。妨害されるかと思ったが、なんとなく呆れた感じと、あまりにもコントロールできない私への興味が薄れたことと、ちょうどその頃若い女の子の見習いが入ってきたこともあり、はいどーぞという感じだった。

あっという間に2年が経ち、その会社では珍しく円満退社に至ったのである。


その後、仲の良かった人たちもそれぞれの道を選択していった。
カミカワくんは、友人と共同で仕事を始め、すぐに軌道に乗って収入が増えたと喜んでいた。
キムさんは、立派な工房を構えて独立した。
シンさんはキムさんのあとを引き継ぐカタチで残った。
クリモトさんは時期をずらして退職し、リンさんの所へ移った。カミカワくんと結婚したがっていたが、ゴールインを聞く前になんとなく縁遠くなって、その後を聞いていない。


その後まもなく日韓共同でワールドサッカーが開催され、韓流ブームがやってきた。
あんなに毎日ネイティブなハングルを聴いていたにも関わらず、キムさんたちが日本語ペラペラなのをいいことに、大した言葉も覚えていないことを後悔した。ただ、日韓の友好ムードは素直に嬉しかった。


専門学校の最後の一年間は、昼間介護施設でアルバイトで働き、夜は学校、週末は夜勤、実習に国家試験にと目まぐるしく忙しくなり、クリモトさんやカミカワ君と会っても共通の話題もなくなってしまい、疎遠になってしまった。


介護の世界は、思ったよりも、というか、
あれ?天職?と思うぐらいにしっくりときて、現在の訪問介護職に至っている。


時々器用に何かを作ったり直したりして、アンタ一体ナニモノ?という顔をされる。
旦那さんも娘も、職場の人たちも、職人時代の私を知らない。

けれども物づくりの精神は、今も私の根幹となっている。

手で作るものは全て、魔法のように一瞬でできるものはない。
熟練の職人さんが魔法のような手技を見せることがあっても、それはやはりコツコツと積み重ねた修行の結果である。
作る度に何か発見がある。
失敗は次の糧となる。

そして純粋に自分の手で何かが出来上がっていくことが、楽しい。

子供が幼稚園の頃、若いママさんたちの間でビーズアクセサリーが流行っていた。
器用でセンスのある人は、ネットショップに出店したり、販売会を行ったりしていた。
彼女らの行動力もさることながら、インターネットの普及で表現活動、創作活動、またはそれらを販売することのハードルがずいぶん下がってきたように思う。
なぜか頑なに、個人営業を避けてきた私には、ひょいひょいとハードルを飛び越えていく彼女らが羨ましくて妬ましく感じて、腹の中では(ホンマのプロの世界は厳しいんやでぇ)と毒づいたりしていたのだ。


今は、そんなややこしい感情はもうどこかに片付けて、お金になろうがなるまいが、人にどう思われようが思われまいが、こんなものが欲しいな、探したけれど売ってないや、よし!いっちょう作ってみるかと、スカート作ってみたり、棚を作ってみたり、子供が小さな頃はそれはそれは立派なダンボールハウス、キャットタワー、マスクに野菜に糠漬けに、自分専用のお守りまで、、、
作る楽しみを満喫しているのである。

子供の頃、高額なリカちゃんハウスが買ってもらえず、ダイヤブロックで家具を作り、布の切れ端や折り紙でリカちゃんのお洋服を作って遊んでいたあの頃のように、楽しめば良いではないか、と思うのだ。


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