『作者のひみつ(仮)』改 第6章

6章 作者による自作解説

 三週間後の木曜午後、今日はいつもの研究室ではなく先生に連れられて出かけた喫茶店に三人はいます。先生の出張の都合でいつもの週より一週間前倒しで集まることになったのですが、この日は先生のゼミの学生が自主ゼミで研究室を使うので、場所を変えることになったのです。そこは「喫茶店」と呼ぶのがふさわしい時間を積み重ねた建物で、テーブルやソファ、壁にかかった絵画などの家具調度も新品にはない趣を持っていました。
―こういう喫茶店、はじめて入りました。なんとなく入りにくくって。でもいい雰囲気ですね。
―僕もです。いつくらいからあるんですか、ここ。
―一九五八年創業だそうだから、もう六十年以上の歴史があるということですね。ちなみにここの内装をデザインしたのは志賀直哉の弟さんだから、志賀直哉も来たことがあるかもしれないね。
―えっ、志賀直哉って戦後まで生きていたんですか? 大正時代とか昭和初めの人だと思っていました。
―志賀直哉が亡くなったのは一九七一年ですよ。一八八三年生まれだから亡くなったのは八八歳の時です。戦後ってことで言えば、彼の代表作の一つ「灰色の月」は一九四六年の作品ですし、太宰治について批判して「如是我聞」で痛烈にやり返された一九四七から一九四八年にかけてのことです。でも、教科書に載っているような代表作は。確かに一九一〇年代に書かれたものですね。
―知りませんでした。こういうのも作者についてのイメージということなんですね。
―そうですね。それで今日は作者のイメージを作者自身が作り出してしまう、いわば作者が〈仲介者〉の役割を果たしてしまう、という話をしようと思います。その主役が志賀直哉です。
―ああ、それでこの喫茶店に来たんですね。
―はい。この店の雰囲気が好きだということもあるんですけどね。前々回・前回は、作者についてのイメージを読者に提示し、時に作品についての読者の読みを抑圧するために使われるものとして肖像写真を取り上げましたが、もう一つ大きな役割をしているのが作者による自作解説なんです。
―本のあとがきや雑誌のインタビューで作者の人が作品について解説してくれるとつい読んでしまいますね。
―今はSNSで作者が作品のことを説明したりするし、アニメの放送中に原作者が実況解説したりというのもありますね。
―私たち研究者も研究する上で作者が自身の作品についてどのように語っているかは参考にすることはありますし、それが大きなヒントになることもあります。ただ、問題なのは自作解説を離れた読みが困難になる、縛られがちになるということなんです。例として志賀直哉の次の文章を読んでみてください。

 「和解」は事実そのままを書いた。
 「或る男、其姉の死」は「和解」以前の事実を出来るだけ小説にして書いてみた。
 前者は此事実を経験しつつある間に書き始め、十五日間で書きあげた。作為もなく、そういう方の苦労は少しもしなかった。只、書く気持ちには少し亢奮があった。
 後者はそれから数年後に書いたものが、形式に無理があった為めか、大変骨を折った。そして骨を折った割りには効果があがらなかった。
(「跋」岩波文庫『和解 或る男、其姉の死』、一九二七年)

 此集に入れた作品に就て思い出のようなものを書いて見る。
 「或る朝」「荒絹」「網走まで」「速夫の妹」「子供三題」など最も古いものである。「或る朝」は二十七歳の正月十三日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といっていいかもしれない。
(略)
 「城の崎にて」これも事実ありのままの小説である。鼠の死、蜂の死、いもりの死、皆なその時数日間に実際目撃した事だった。そしてそれらから受けた感じは素直に且つ正直に書けたつもりである。所謂心境小説というものでも余裕から生れた心境ではなかった。
(「創作余談」現代日本文学全集『志賀直哉集』改造社、一九二八年)

※引用はいずれも『志賀直哉全集』第六巻(岩波書店、一九九九年)による

―それぞれ志賀直哉が四十四歳、四十五歳の時に書いた自作についての解説の一部です。前に著作権と作者の特別な位置の関係について話をした時に、日本における不特定多数の読者に向けた出版の産業化の例として「円本」ブームと岩波文庫の創刊ということを挙げましたが、この解説はそれぞれその岩波文庫と「円本」の最初の企画である改造社の現代日本文学全集のために書かれたものです。文学全集や文庫が出版されることは、作者が自作について解説する機会が増えたということでもあるんですね。では、この解説を読んでどう思いましたか?
―なんか、事実をそのまま書いたということを繰り返し言ってますね。
―もちろん、志賀直哉にも事実を書いたわけではない小説もあって、それについても解説ではふれているのですが、ここでは「和解」(一九一七年)、「或る朝」(一九〇八年)、「城の崎にて」(一九一七年)といった、志賀直哉本人を思わせる主人公が登場する小説についての解説を並べてみました。
―事実そのままって言われると、あ、そうすか、としか言いようがないですよね。
―でも、事実そのままを書くなんてことはできるんでしょうか。そのままって言っても、何を書いて何を書かないかを選ぶということはあるでしょうし、どうしても書く人の主観が入ってくるんじゃないですか。
―志賀直哉の場合は、その主観の独特さが彼にしか書けない作品を生み出していると考えられて評価されていた訳ですけどね。でも、出来事の取捨選択というのはその通りです。一連の出来事の中で、何に注目し何を無視するかということは文章を書く上では必ず生じてくることですし、その点にどれだけ意識的になれるかで文章の上手さというのも違ってきます。でも、ここで考えてほしいのは、小説に書かれていることは事実そのままだと作者に言われたる時に、読者がどう感じるか、ということなんです。
―もう何も言えなくなる感じがします。
―確かに。フィクションだったら、どうやってストーリーとかキャラクターを思いついたのか、アイディアについて考えれるような気がするけど、全部事実となると、事実だからそうなんすね、とそれ以上広がらない気がするなあ。
―そう。いわば作者が自作を解説することで読者の読みを抑圧しているということになりますね。読者にはいろいろな読み方をすることが可能なのに、作者自身の解説があることでそれが制限される。
―抑圧ですか。
―先生は、そのこと初年度セミナーでも言ってましたよね。読むことについての二つの考え方っていうの。
―二つって、どういう考え方とどういう考え方なんですか?
―その話は、もっと後で話そうと思っていたんですがね。では、説明してもらえますか。
―その時のノートを最近読み直してるんで大丈夫です。読むことについては、作者の意図通りに読むのが唯一の正解と見る作者の権威に従うものと、読者のどんな読み方も全て正解という読者の自由を尊重するものの二つが考えられる。そして、僕たちはその両極を挟んだ中間のどちらか寄りのところで、読むことをとらえてるってことでしたよね。
―なるほどなるほど。私はどちらかというと読者の自由という考え方の方が好きかな。二次創作をするのって、読者が自分が読みたいように想像をふくらませるってことですよね。
―そのとおり。もともと二次創作は作者の意志を尊重すべきかどうか、という疑問を持って研究室に来たんでしたよね。当然カオルさんは読者の自由を尊重する立場よりですか。
―はい。もちろん、作者が何かの意図を持って書いてるのは認めるとして、でも作品に書かれていないところを想像するのは読者の自由だと思っています。
―じゃあ、もう少し志賀直哉の自作解説を例にしてみましょう。

 それから、古く書いた『城(き)の崎(さき)にて』という短篇の中に「大きな桑の木が路(みち)傍(ばた)にある。彼方(かなた)の、路へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラと忙しく動くのが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。然し好奇心もあった。自分は下へいってそれを暫く見上げていた。すると風が吹いて来た。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」こういう文章があり、路傍の桑の葉が一枚だけ風もないのにヒラヒラヒラヒラしていて不思議に思っていると風が吹いて来たら、それが動かなくなり、原因が分ったとだけ書いて、その説明をしなかった点で、よく人からこの事の質問を受ける、『城の崎にて』は教科書に入っているので、生徒や教師の人達からもよく手紙でこの質問が来る。返事を出す事もあるが、説明するのが面倒なので、そのままにして了う事もある。前からのを合算すれば私は此質問を恐らく五六十回受けているかも知れない。「風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラと忙しく動く」と書いたが、実は風は微かに吹いていたのだが、人体には感じられない程度の風で、葉はそれで動いていたのだ。そして何故その葉だけが一枚動くかというと、葉(よう)柄(へい)が真直ぐに風の来る方に向っていて、最初何かで、葉が一寸動くとあとは振子のように微かな風に吹かれつつ運動が止まらなくなったのである。それが人体にも感じられる風が吹いて来て、却って運動が止ったという場合で、こういう事は、私は何回か経験しているので、大概分るだらうと思って書いたが、その為め、よく質問を受ける。(「続々創作余談」『世界』一九五五年六月号)

※引用は『志賀直哉全集』第九巻(岩波書店、一九九九年)による。

―「続々創作余談」ですか。志賀直哉は何度も自作解説してるんだ。
―自作解説は作者自身が書きたくて書いているとは限らないですけどね。志賀直哉もこの文章の別の箇所で「全集を出す度にこういうものを書く。この前の時も、その又前の時も、出版社の希望で書いた」と述べています。やはり読者が喜びそうな付録として出版社・編集者という〈仲介者〉が自作解説を依頼するんでしょう。でも、自主的か依頼を受けてかということは関係なく、自作解説を書く作者は自らが〈仲介者〉として読者に影響を与えてしまいます。「創作余談」で「城の崎にて」のことを「事実ありのままの小説」と書いていましたが、「続々創作余談」では風が無いのに木の葉が動いていて逆に風が吹いたら動きが止った、という描写について特に不思議なことではない、解説しています。
―この説明、正直よくわからないんすけど。
―私もこれで説明になっているかどうかはわからないんですが、ここで考えたいのはこの解説で読者のどういう読み方が抑圧されているのか、ということです。ここに「城の崎にて」の全文がありますが、通して読んでみた上で、この箇所についてどういう印象を持ちますか?
―語り手が電車に轢かれたとか、自分が書いた妻を殺した男の話にふれたりとか、それに動物が死んだり死にかけたりしている話が出てくるので、この箇所もなんだか不気味な感じがします。
―ホラー映画のこれから恐いことが起こる前兆みたいだよね。
―「続々創作余談」に「よく人からこの事の質問を受ける」「生徒や教師の人達からもよく手紙でこの質問が来る」と書いてありますが、質問をした人たちの中にもそういう読み方をした人がいたのかもしれません。志賀直哉はそれが嫌でこの解説を書いたのではないかと私は考えています。でも、「城の崎にて」を書いた一九一〇年代の志賀直哉は小説中に出て来る「笵の犯罪」(一九一三年)を初めてとして、「剃刀」(一九一〇年)、「濁った頭」(一九九一一年)、「児を盗む話」(一九一四年)等、殺人や犯罪を描いた小説を多く書いていました。それらをホラー小説として読むこともできると思います。この時代は「千里眼」、今で言う超能力や心霊ブームの時代でもあって多くの文学者も関心を持っていたんです(1)。
―芥川龍之介も魔女や魔法使いが出てくる小説を書いていますね。
―「妖婆」・「魔術」(いずれも一九一九年)などいろいろありますね。彼は友人への手紙で「千里眼」についての本が出るのが楽しみだ、と書いたりしているんですよ。
―そういう観点で芥川龍之介の小説を読み直すと面白いかもしれませんね。「歯車」(一九二七年)とか。
―話を志賀直哉に戻して、あえて自作解説を無視して「城の崎にて」を読んでみましょう。風が無いのに動く木の葉の動きについてやはり不思議なことではないのか? と考えてみるのはどうでしょうか。
―私は前半で語り手が死に対する親近感を語っているところが気になります。
―えーっと、どのへん?
―このあたり。

一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ている所だったなと思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍らにある。それももうお互いに何の交渉もなく、―こんな事が想い浮ぶ。それは淋しいが、それ程に自分を恐怖させない考えだった。何時かはそうなる。それが何時か? ―今迄はそんな事を思って、その「何時か」を知らず知らず遠い先の事にしていた。しかし今は、それが本統に何時か知れないような気がして来た。自分は死ぬ筈だったのを助かった、何かが自分を殺さなかった。自分にはしなければならない仕事があるのだ、―中学で習ったロード・クライヴという本に、クライヴがそう思う事によって激励される事が書いてあった。実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。しかし妙に自分の心は静まって了った。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っている。

―死んでしまった自分を想像して、「死に対する親しみ」を感じているというのが、死に魅入られているみたいで少し恐く感じるんです。
―事故で死にかけた語り手は、生と死との間にある境界線を行ったり来たりしているのかもしれないですね。実際、この小説には〈境界〉を表す言葉が繰り返し出てきますし。
―〈境界〉ですか?
―たとえば、三段落目の城崎温泉での時間の過ごし方を書いているところに、「散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいいところがあった」とありますね。小さい流れというのは川のことですが川岸とか海岸のような陸地と水という異なる空間の接するところは〈境界〉として考えることができます。昔からの言い伝えでも、生者の世界と死者の世界を隔てるのは三途の川だったりするでしょう。さらに「登りになった路」とある坂も低い場所と高い場所を分ける〈境界〉と考えられます。
―「古事記」では生者の国と死者の国のの間にあるのは黄泉比良坂(よもつひらさか)ですよね。イザナギが、死者になった妻イザナミから追われて桃を投げる所。
―それはわかりやすい例ですね。伝説や神話だけではなく、近現代の小説などでも登場人物が異なる世界、今までと違う状況に変わる時にそういう〈境界〉を示すものがしるしとして利用されているんです。
―他にどんな〈境界〉があるんですか?
―前回見た太宰治『晩年』の口絵写真は神社の境内だから彼岸のようなイメージを与える、と言いましたが、神社やお寺も別世界への入口として〈境界〉と見ることができます。他にもいろいろあるので「城の崎にて」で探してみてください。次の段落はどうでしょうか。
―蜂の死骸を見つける前、蜂が盛んに働いているのを縁側から眺めているところですよね。あ、もしかしたら縁側も〈境界〉ですか?
―家の内側と外側の間の分けるところですからね。そこから語り手は蜂の働いている様子を見、また蜂の死骸を見つける。
―玄関の屋根の上に蜂の巣があるらしくて、蜂の死骸もそこで見つける。玄関も縁側と一緒で家の内と外の〈境界〉ってことですね。
―要領をつかんできましたね。「城の崎にて」では、この後鼠や蠑螈といった小動物が登場しますが、語り手はそれらをどこで見ていますか。
―どちらも川沿いです。なるほどなるほど。この小説では〈境界〉を示す場所が死と関連づけて登場するんですね。
―そうなんです。私は動物たちの死にそうになって苦しんでいたり、死骸がさらされた後消えてしまう場面では、仏教で布教に使われる地獄絵や九相図を連想しますね。
―木の葉が揺れている場面では「ヒラヒラ」っていう言葉は黄泉比良坂(よもつひらさか)の「ヒラ」なんじゃないか思ったんですけど、どうでしょうか。
―葉が揺れる様子を表す擬態語(オノマトペ)は「ひらひら」くらいしかないので、自然と選ばれただけかもしれませんけどね。でも、確かにこれだけ繰り返していると何か意味ありげですよね。さて、志賀直哉自身は、「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というようなものは全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別の事である」(「序」現代日本文学全集『志賀直哉集』前出)、「作者を離れ、一人歩きの出来る作品がこの中に幾つあるか知らない。然し若しあればそれらはそれら自身勝手に存在して貰いたい、そんな気持ちだ」(「序」『志賀直哉全集』改造社、一九三一年)(いずれも『志賀直哉全集第六巻から引用)というように、作者と作品を切り離すのを理想とするようなことを書いています。
―一つ目の引用は、小林秀雄が紹介していませんでしたか。確か「私小説論」(一九三五年)の中に出てきた気がします。
―そう、この文章はそれで後の時代まで伝わり有名になったんだと思います。でも、そう望んでいたとしても、産業資本主義の社会で生きる作者である志賀直哉は、前産業資本主義の社会で作られた救世観音の作者のようになることは許されません。繰り返し繰り返し自作について語らざるを得ないんです。
―語った結果、読者の読みの自由を抑圧することになってるんですね。
―自作解説で作者がこういうつもりだったと意図を語ったとして、作品自体がその意図を裏切っていることがあるので、自作解説を鵜呑みにしない方がいいでしょうね。それと自作解説の問題点はもう一つあって、それが作者が元から考えていたことではなく、実際は後から読み直した時に作り出された「読み」である場合もあるんです。
―読み直した時に?
―たとえば田山花袋には『東京の三十年』(一九一七年)という自伝的に明治時代の文学について書いた本があります。その中の「私のアンナ・マール」という章は小説「蒲団」(一九〇七年)発表前後のことが回想されているのですが、どうもその中に発表後の読者の反応が執筆前の意図と混じって語られているように読めるんです。
―「蒲団」って確か私小説の元祖ですよね。日本文学史勉強したら出てきました。
―そう言われているけど、読んてみたら私が思っていた私小説のイメージと違っていました。弟子の女の子の視点で書かれているところもありますよね。私小説って一人称で、もっと作者の心情だけが書かれているものかと思っていたので。
―私小説、すなわち作者自身の体験を題材にした小説と呼ばれているもの実は一人称ばかりではないんですよ。でも、確かに視点は主人公、つまり作者自身をモデルにした人物に固定されていることが多いです。それで言うと「蒲団」は確かに他の登場人物に視点が移りますし、登場人物以外の語り手(ナレーター)の視点で書かれているところもあります。時代的には「私小説」という言葉もまだ作られていませんでしたし、「蒲団」が私小説の元祖というのは今では否定する人も多い考え方なんです(2)。
―そうなんですか。
―もっとも高校生向けの国語便覧などではまだそういう最新の説は取り入れられてませんけどね。実際『東京の三十年』での回想で田山花袋は自身の体験を書いたように読めることを言っているんです。そして、「蒲団」私小説の元祖説を広めた評論家中村光夫の評論「風俗小説論」は『東京の三十年』「私のアンナ・マール」に書いてあることを論の根拠にしていますし、それを鵜呑みにして「蒲団」を読んでいる人も多いです。でも、実際読んでみるとカオルさんが言っていたように「蒲団」は実は複雑な構成の企みをもって書かれた小説です。
―僕も読んだことが無いので、ひたすら主人公の中年作家のモノローグが続くんだと思ってました。
―でも、『東京の三十年』にはそういう方法的なことは全くふれていなくて、「私は二三年前―日露戦争の始まる年の春から悩まされていた私のアンナ・マアルを書こうと決心した」なんて書いているんです。つまり、女弟子との実体験を書くということですね。
―後からの読者の反応が小説を書く前の意図と混じっている、というのはそこですか?
―そうです。「蒲団」は発表後、特に田山花袋の当時の境遇(文学用語としては「実生活」と言ったりします)に詳しい仲間の作家や評論家から現実の出来事を生々しく描いたものとして評価されました。どういう方法で書かれたかではなく、どういう内容を書いたかに注目が集まったんですね。批判する人もいましたが、普通なら隠したくなるような欲望を書いたことが重要だと考えられたわけです。その評価を田山花袋は受け入れ、まるで初めから自分がそういう内容重視で小説を書いたように後に回想しているわけです。
―それってどうしてなんですか?
―『東京の三十年』は「蒲団」の十年後に書かれたものですし、「蒲団」によって一気に注目されたりの中で、当時のことをはっきりと思い出せなかったのかもしれないし、または読者が期待する楽屋話を書いて喜ばせようとしたのかもしれません。この本自体自慢話みたいなところがあって、慎重に扱わなければならない本なんですよ。この例では、作者自身が〈仲介者〉として読者を導き、またその読者=評論家が〈仲介者〉としてより多くの読者の読みに影響を与えてしまったわけです。さらにそれが私小説をめぐる文学史的評価にも関係しているので、本当に自作解説の扱いは要注意なんです。
―〈仲介者〉が重要というのが具体的によくわかりました。
―では、次回は〈仲介者〉についてもっと掘り下げてみましょう。じゃあ、今日はこのへんにして、このお店の名物メニューのサンドイッチでも食べましょうか。


(1) 一柳 廣孝『「こっくりさん」と「千里眼」―日本近代と心霊学―』講談社、一九九四年。
(2) 日比嘉高『〈自己表象〉の文学史 自分を書く小説の登場』翰林書房、二〇〇二年。


※第5章でも書きましたが、大学生と高校生のセリフが区別できているでしょうか? 大学生の方がより崩れた口調でしゃべっています。


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