『作者のひみつ(仮)』改 第8章

8章 〈仲介者〉はいかに作者のイメージを広めるか? 2 年譜

 いつもの木曜午後の研究室ですが、今日は様子が違います。先生とカオルさんはいつもどおりなのですが、もう一人が見慣れないスーツにネクタイ姿なのです。どうやら教育実習の打ち合わせから帰って来たところのようです。
―Tシャツ姿を見慣れているので違和感あるなあ。別に似合わないわけじゃないんだけど。
―自分が一番それを感じてるよ。どうも窮屈で居心地悪い。教育実習中はずっとこれじゃなきゃならないなんて厳しすぎる。
―服よりも授業の方を心配した方がいいんじゃないの。
―それなんだけど、詩の授業を担当することになったのがさらに頭痛いよ。
―詩ですか。作品は何を取りあげるんですか?
―島崎藤村の「初恋」って詩です。
―ああ、私も中学の国語の授業で読みましたね。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき」。
―ふーん。わたしの中学校の教科書には載っていなかったですね。
―さすがに文語定型詩を採用している教科書は今は少なくなっているんじゃないかな。
―そこですよ、まず古い言葉を説明するだけで時間を使ってしまいそうで計画が立てにくいんです。
―あの詩が書かれた当時はとても新鮮なものとして若者たちを中心に大きなインパクトを与えたんですが、なにしろ掲載されている『若菜集』が刊行されたのが一八九七年ですからね。もっと読みやすい口語詩だけを載せる国語教科書があっても不思議ではないでしょう。
―まだ載せている教科書があるのはどうしてなんですか。私のイメージだと島崎藤村は詩よりも田山花袋と同じ自然主義の小説家なんですよ。
―おそらく島崎藤村が日本の「近代文学」というものを切り開いた人の一人と見なされていて、特に『若菜集』が時代を画する詩集と評価されているからだと思います。さきほど言ったように非常にフレッシュなものとして受け容れられたという証言があるんです。カオルさんは島崎藤村のどの小説を読んでいるんですか?
―「破戒」と「夜明け前」です。
―それはまた極端な読み方ですね。
―実は「春」も読んだんですが、途中でやめてしまったのです。でも、その二つは最後まで読み切れたんです。
―その二つはそれぞれ明治の終りと、昭和の初めに書かれたもので時代的にはかなり違う背景で書かれているんですが、印象としてはどうでしたか?
―どちらも古い昔の小説というつもりで読んだので、あまりそういう時代の違いは感じなかったです。
―発表された順番とは逆に「夜明け前」の方が古い時代を扱っていたりしますからね。では、今日は島崎藤村について考えていきましょうか。
―おお、それは助かります。教育実習のヒントが欲しいんで。
―授業で使えそうな話になるかはわかりませんけどね。では、まずこの「夜明け前」の文庫本の見返しのところを読んでください。

島崎藤村 Shimazaki Tōson (1872-1943)
筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生れる。明治学院卒。1893(明治26)年、北村透谷らと「文学界」を創刊し、教職に就く傍ら詩を発表。'97年、処女詩集『若菜集』を刊行。1906年、7年の歳月をかけて完成させた最初の長編『破戒』を自費出版するや、漱石らの激賞を受け白然主義文学の旗手として注目された。以降、自然主義文学の到達点「家』、告白文学の最高峰『新生』、歴史小説の白眉『夜明け前』等、次々と発表した。'43(昭和18)年、脳溢血で逝去。享年72。(1)

―前回話した評伝・伝記のようなまとまった内容のものを読むことはあまりないでしょうが、多くの読者は文庫本などの著者紹介で作者の人生や思想、作品の特徴について知ることができます。こんな短い文章でも「若菜集」「自然主義文学」「告白文学」といった島崎藤村のイメージとつながるキーワードが並べられていて、影響力は侮れません。
―ここまで短いとさすがに「挫折・不幸」が出てくることはないんですね。
―でも、細かく読むと、「挫折・不幸」とまではいかなくても、思い通りに行ってなさそうな言い回しが出てきますよ。
―えーと、「教職に就く傍ら詩を発表」や「最初の長編『破戒』を自費出版」といった言い回しですか。先生をしながら詩を書いている人はたくさんいそうですし、自費出版だって珍しいことではないのに、わざわざ書くのは何かの意味を持たせているように思います。
―そうですね。これは島崎藤村にとって教員として働くことは生計を立てるためで必ずしも本意ではなかったという前提で書いていますし、また『破戒』の単行本出版にあたって家計が困窮したり、その過程で栄養失調のために娘さんを三人亡くしたという背景があります。
―えっ、三人もですか? 栄養失調で? 
―はい。そのあたりの事情は後に「家」という小説の題材になっています。
―それは読んでいないです……
―生活のための就職と、小説出版のための家族の死、これはどちらも家族にかかわる「不幸・挫折」ということですかね。
―あえて当てはめればそうなるでしょうね。ただ、『若菜集』を出版するのはそういう経験をするずっと前のことですね。ですから、もう少し前の時期のことを取りあげましょう。今見てもらったような文庫本の著者紹介は、長い評伝・伝記を参照せずにもっと短い作者の年譜を元にして作られていると考えられます。年譜はたとえば国語の授業で用いる国語便覧にも載っていたりしますよね。
―国語便覧なら持ってますよ。
―島崎藤村について書いたページを開いてみてください。高校の国語の授業で使う国語便覧には必ず作者の略年譜が掲載されていて、彼らがどのような生涯を送ったのかが説明されています。
―このページですね。たしかに写真の横に年譜がある(2)。

藤村便覧年譜画像

―ただ淡々と事実だけが並べられてる感じですけど。
―考えてほしいのは、このような作者についての本当に簡単な年譜も誰かが作ったものだということです。もちろん事実だけが記されているわけですが、評伝・伝記と同様に何を載せて何を載せないかという取捨選択が行なわれています。〈仲介者〉である年譜作成者の思いこみの影響を受ける可能性があるわけですね。年譜に掲載されているのはどういう情報でしょうか。
―ええっと、作品をいつ発表したのかということ。それ以外の情報は……
―作品とかかわりのある情報ですよね。北村透谷って「春」の登場人物のモデルだったような。途中で読むのをやめてしまったので、うろ覚えですが。
―そうです。姪のこま子というのも「新生」の登場人物のモデルと見なされています。
―でも、作品に関係なさそうな個人的なことも書かれていますよね。学校のこととかキリスト教の洗礼を受けたとか。
―そのあたりの記述も下の文章を読んでいくと、作品、というか文学と結びつけられているんですよ。

浪漫詩人藤村の誕生
 (略)明治学院在学中に文学熱を高めた藤村は、一八九三(明治二六)年創刊の雑誌「文學界」に同人として参加し、浪漫主義運動を推進。こうして生まれたのが浪漫主義叙情詩集『若菜集』である。これは近代詩の新しい幕開けとして多くの青年読者に共感をもって迎えられた。
自然主義文学の旗手
 詩から小説への転向を図った藤村は、一九〇六(明治三九)年、長編『破戒』を発表する。被差別部落に生まれた主人公丑松の自我の目覚めと苦悩を描いたこの作品が、夏目漱石に「明治の最初の小説」と激賞され、藤村は自然主義の旗手となった。

―学校は文学への関心を強めた場所として、キリスト教は西洋の影響を大きく受けていたことを表す出来事として選ばれているわけです。
―先生がさっき言ってた『若菜集』が時代を変えたという話も書かれてますね。教科書とここで繋っているわけか。そういえば、後半に出てくる「自我の目覚め」というのも聞き覚えがあります。
―いかに作者や作品の登場人物が近代的自我というのを獲得したか、というのが日本の近代文学為におけるテーマの一つですからね。その話はまた後でふれるとして、このように作者についてのとらえ方次第で、個人的なできごとも作品に関係づけることができるんですよ。作者について〈仲介者〉が持っている、また伝えようとしているイメージに従って年譜は作られているわけです。ここにもっと詳しく書かれた島崎藤村の年譜が四つあります。これを読み比べてみましょう。

a 『日本近代文学大系13 島崎藤村集』角川書店、一九七一年(山田晃作成)(3)
b 『日本現代文学全集19 島崎藤村集(一)』講談社、一九六一年(瀬沼茂樹作成)
c 『明治文学全集69 島崎藤村集』筑摩書房、一九七二年(和田謹吾作成)(4)
d 『昭和文学全集2 島崎藤村 徳田秋声 泉鏡花 正宗白鳥』小学館、一九八八年(三好行雄作成)

―『明治文学全集』と『昭和文学全集』の両方に作品が載っているんですね。そういえば「夜明け前」(一九二九~一九三五年)は昭和になってからの小説でした。
―明治三十年前後、つまり十九世紀末から二十世紀初頭にかけて登場した作者にとって昭和元年(一九二六年)はデビューから二十数年後でしかないですからね。
―年譜が作られた時期も違うし、作った人も違うんですね。作られた順番になっていないのはどうしてですか?
―aの年譜は島崎藤村自身が作った年譜を参照したものなので、一番古いとも言えるからです。ただ、元々の自作年譜は一部年代が間違っているので修正してあるaを使っています。
―えっ、自分で作ったのに間違えているんですか?
―けっこう昔のことというのは覚えていないものですよ。彼には参考にできる便利な年譜もなくて自分の記憶だけで作ったのでしょうしね。さて、ではまず幼年期の頃についての記述を比較してみましょう。

明治十一年(一八七八年) 数え年で七歳・満年齢で六歳
a 神坂村小学校へ通い始めた。父は熱心な子弟の教育者であったから、父からも自筆の『勧学篇』、『千字文』、『三字経』なぞを授けられ、幼年期の終りの頃には『孝経』『論語』なぞの素読を受く。
b 神坂学校に入学。この年末ごろ、父は飛騨から故郷に帰った。自筆の『勧学篇』『千字文』『三字経』などを授け、『孝経』『論語』の素読を行う。
c 一月、父帰郷(「島崎氏年譜」によれば正式に宮司辞退は明治十三年という)。藤村は神坂村小学校に入学。父から『千字文』『三字経』『孝経』『論語』などを教えられた。このころのことについては「幼き日」(改題「生ひ立ちの記」)、「ふるさと」などに詳しい。
d 神坂学校(小学校)に入学。父から「三字経」「千字文」「勧学篇」などを授けられ、のちには「孝経」「論語」などの素読を学んだ。

―『論語』はわかりますけど、『千字文』と『三字経』とかってなんですか?
―『千字文』は千種類の漢字を使って使われた漢詩で子供に漢字を教えるために用いられたもの、『三字経』は簡単な漢文で書かれた教科書みたいなものですね。明治初期には江戸時代の流れを汲んでまず漢文を読む書く能力が最高の教養とされていたわけで、それを父親から教わっていたということです。一方で一八七二年に定められた新しい学制に従って小学校にも通っていたわけです。さて、この四つの年譜を比較して違うところはありますか?
―dが一番シンプルですね。それで、aだけ父親がどういう人だったかが書いてあります。そして、bとcは父親が帰郷したことが書かれています。bによると飛騨ってところに出かけていたみたいですね。
―あとcだけ作品の名前があがってますね。
―作品の名前をあげるのはcの年譜の特徴で、自身の体験を題材にして書かれていると考えられている小説をそのまま事実と見なして書かれています。この年譜を作った人は島崎藤村を専門に研究していた人で特に彼の生涯の事実を詳しく調べた人なのでそこにふれているのだと思います。また、文章量の少ないのはさておき、aにbとcのような父親の帰郷についての記述が無いのは、元となる島崎藤村の自筆年譜に明治六年から十年までの記述がないからなんですね。
―自分の記憶で書いているなら、ものごころつく前のことは書けませんよね。
―その後、研究者・評論家が調査したことを記述するようになるのですが、それでも本人ではなく家族の情報になります。しかも専ら父親の島崎正樹のことだけが取りあげられる。これはcの年譜に明治五年のところに「この人の生涯は「夜明け前」に詳しい」とあるように、彼が「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルと見なされているから、ということが理由の一つと考えられます。
―一つということは他にも理由があるんですか?
―島崎藤村という作者の生涯を語る上で、旧世代である父親とのずれや断絶というのが、重要なストーリーの構成要素になっているからだと思いますね。父親についてはbからdの三つの年譜ではそれぞれ次のように説明されています。いずれも明治五年、彼が生れた年についての記述です。春樹というのは藤村の本名ですね。

b 島崎家は永正十年(一五一三)木曾に来り木曾家に仕え、後郷士となり、第九代勝房の時代から木曾街道の本陣・問屋・庄屋をつとめた家柄。春樹出生当時世襲の職を失って、父は名主兼戸長の職にあり、平田派の国学・古道を信奉。
c 父は、代々この地で本陣・問屋・庄屋を兼ねた馬籠島崎氏の十七代目にあたり、(略)明治維新後の改革で、父はこの年に名主・戸長となった。平田派の国学を信奉し、和歌もよくした。
d 島崎家は木曽街道馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた旧家で、正樹はその十七代目の当主、当時は馬籠の名主兼戸長であった。

―なるほどなるほど。地方の名家の出身ということを強調してますね。自筆年譜をもとにしたaでは書いていないことなのに。
―自分で家柄のこととか書いたら自慢してるみたいだもんなあ。「平田派の国学」というのはなんか古くさい感じがしますけど、なんなんですか。
―国学者平田篤胤やその弟子たちのことで、幕末の尊皇攘夷運動の思想的な基盤になった考え方を広めたグループですね。
―ああ、神国日本を守るために欧米列強を追い払おうみたいな。それは文明開化とか言ってた明治時代の日本では受け容れられなさそうですね。
―一方で息子の春樹、後の島崎藤村は新しい文明・文化に惹きつけられていく、というのが彼が成長してからのストーリーです。ここを読み比べてみてください。

明治十七年(一八八四年) 数え年で十三歳・満年齢で十二歳
a 海軍省の官吏石井其吉という人に就いて英語を学びはじめた。父は平田鉄胤の門人であったような人だから、それを聞いてしきりに心配したが、遂には外国語を修めることを許した。この年の四月、父一寸上京。
b 海軍省石井其吉について英語を学ぶ。四月父上京してくる。
c 吉村忠道のすすめで、当時海軍省に出仕していた石井其吉についてバアレエの『万国史』、『ナショナル読本』などで英語を学び始め、国学者の父がそれを案じて上京して来た。
d 四月、父正樹が一時上京、開化の世相に失望して帰郷した。/この年、海軍省官吏の石井其吉について英語を学びはじめた。

―どうでしょうか。
―書かれている出来事は同じですけど、うーん。でも、なんかニュアンスがけっこう違ってるような。
―その1、島崎藤村が石井其吉という人に英語を学び始めた。その2、父親が息子が英語を学ぶことを知って心配した。その3、父親が四月に上京して来た。この三要素が全て揃っていたり、二つだけ書かれていたりしていますね。ただ、出来事の繋げ方が違います。因果関係っていうのでしょうか。
―そうです。今のまとめ方に従うなら、aは1と2とを結びつけていますがそれらと3を結びつけていません。bは1と3を関係づけずに並べています。cは1を原因として2と3が起ったように結びつけています。dは3と1を結びつけずに並べていますが、3に「開化の世相に失望して上京」という要素を付け加えていますね。
―その付け加えたところって、「夜明け前」の主人公のことを意識しているのではないですか。そんな話が出てきたのを覚えています(5)。
―そうかもしれませんね。一方cが父親の上京の理由を息子が英語を習い始めたからというように記述しているのは、「夜明け前」に書かれている順番と逆になっています(6)。aの自筆年譜の記述に基づいて強引に原因と結果として結びつけてるようですね。短い記述ですが、はっきりと家族にかかわるストーリーを読み取れるように書いています。
―なるほどなるほど。家族についての「不幸・挫折」として書かれているんですね。
―別に「不幸・挫折」というほどじゃないと思うけど。世代の違う親子で考え方が違うというのはよくあることなんじゃないかなあ。
―でも、「夜明け前」の主人公がこのお父さんだとしたら、この人はこの後……
―え? どうなるの?
―その二年後のところの最後の方を読んでみましょう。

明治十九年(一八八六年) 数え年で十五歳・満年齢で十四歳
a 十一月父死去。
b 十一月二十九日、父正樹郷里にて死去。
c 十一月二十九日、父正樹が故郷の座敷牢のなかで狂死。
d 十一月二十九日、父正樹が馬籠で狂死したが、帰郷しなかった。

―ああ、そうだったんですか。こうなると確かに不幸に見えてきますね。でも、この四つの年譜の記述の違いは…… aやbはシンプルに亡くなったことを伝えてますが、cとdではわざわざ「狂死」という言い方をしているし、dはわざわざ藤村が帰らなかったことを書いてて、なんか印象悪いなあ。
―引用はしていませんが、この年は島崎藤村が本格的に学校で英語を学び始めた年ですし、親子の間に大きなずれがあることを強調したいのでしょうね。英語、そしてこの後海外の文学や思想にふれるようになった島崎藤村は、先程述べたように後に『若菜集』で日本の新しい文学を開拓した人として文学史上では評価されていますが、それは旧世代で古い思想の持主だった父親との訣別を経てのことだった、というわけです。
―これが家族についての「不幸・挫折」として他の三つの「不幸・挫折」はどうなんでしょうか。
―aの年譜では記述が無い明治二十二年について他の年譜にどう書いてあるか読んでみてください。

明治二十二年(一八八九年) 数え年で十八歳・満年齢で十七歳
b 藤村は明治学院を休み、共立学校に通い、受験準備、九月、第一高等中学の入学試験に失敗した模様。
c 二月、明治学院を休み、共立学校別科に通って第一高等中学校への受験準備に励んだが、九月にその試験に失敗したという。孤蝶によれば(『新潮』明治四三・八)、この年秋ごろ芝白金の寺にかくれて孤立沈黙の人になったという。「無言の人」の素材と見られる。
d 九月、第一高等中学(のちの東大教養学部)の受験に失敗したらしい。前後して内省をふかめ、西洋文学への眼をひらかれた。「良家の子弟を模倣して居た自分は孔雀の真似をする鴨だと思われて来た。彼が言ったこと、為たこと、考えたことは、すべて皆な後悔の種と変った」(「桜の実の熟する時」)。

―受験の失敗ということは、エッフェルさんと同じく制度にかかわる挫折ですか。自筆年譜にこの年の記述自体が無いのは、思い出したくないということなのかもしれませんね。
―にしても、またcの年譜は小説を持ってきてるし、dはまた一言多い感じだし、そんなに英語とか西洋文学ってのが偉いんですかね。
―最初に国語便覧を見た時に少し話しましたが、長らく西洋文学をどれだけ正しく理解して、自身の文学に取り入れていたかが、日本文学史における評価基準になってきましたからね。時代ごとにお手本とする作家・作品は変っていったわけですが、西洋文学への無理解こそが作品を不十分なものにした原因という論調がずっと続いてきたんです。どうしてそういうコンプレックスを持つようになったのかは、また別の話なのでここではふれませんが。
―「不幸・挫折」を経て、自分自身を見直すことが文学への入口になった、というストーリーなのはわかりました。そういう見直しができるようになるのが近代的自我という理解でいいですか?
―そこは深掘りするとややこしくなるので、そのくらいの理解でいいと思います。これらの年譜、特にcやdの年譜は、島崎藤村が父親から与えられた近代以前に行われていた漢文や漢詩を用いた教育から脱して、近代的な英語教育を受け、西洋文学と出会って近代的自我への眼を開かれた、という結論ありきでストーリーを作り年譜を記述していると考えていいのではないでしょうか。でも、島崎藤村の作品は実際は漢文や漢詩から断絶したところで書かれているようには思えないんですよね。
―なるほどなるほど。年譜にどういうことが書かれているかというのは、その年譜だけの問題ではない。その年譜に影響を受けた読者の作品の読み方も変えてしまうということですね。
―ってことは、「初恋」やそれが収録されてる『若菜集』を国語便覧に書いてあるように「近代詩の新しい幕開け」としてだけ見るのは不十分ってことですね。
―そうですね。教育実習の授業で使えるかどうかはわかりませんが、漢詩からの影響を調べてみるのもいいでしょうね。
―ありがとうございます!
―でも、年譜を読み比べたことがなかったので、こんなに違うものなのかと驚きました。
―繰り返しになりますが、年譜もまた事実を取捨選択し、作者の「挫折・不幸」に彩られているのです。〈仲介者〉である年譜の作成者が何を重要だと考えているかによって、載ることと載らないことが変わりますし、年譜の作成者が作者のことをどうとらえているかによって、記述のニュアンスが変わってきます。一つの年譜だけを信用するのは非常に危険な訳ですね。
―〈仲介者〉の影響は恐いですね。
―だから作者についての情報を一切入れずに詩や小説を読むべきだという立場があるわけです。次はその立場について考えてみましょう。

(注) 『夜明け前第一部(上)』新潮文庫、1954年。
(注) 『プレミアムカラー国語便覧』数研出版、2017年。
(注) 引用に際して旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた。
(注) 引用に際して旧漢字を新漢字にあらためた。
(注) 『夜明け前第二部(下)』新潮文庫、1955年、第二部第十四章「二」。
(注) 同前。


※第九章はいよいよ「作者の死」にふれる予定です。

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