見出し画像

韓国図書『文化語授業』の感想  韓国式の大風呂敷の広げ方

2019年~2020年は韓流ブームが世界的にキているということを知って、もはや古い世代の韓国語学習者の私は、今来たか!と驚いている。

2004年~2005年まで韓国にまる2年間住んでいたが、当時は、北朝鮮に融和的な態度を取っていた盧武鉉政権から保守系政党に政権が変わった後に「韓国の政権は北朝鮮に対してはどんな態度をとるだろうか?」というのが皆の関心事だった。「疑いもなく北朝鮮寄りになるだろう」と予想した人もいた。当時の野党ハンナラ党の政権資料を読んでみると、確かに北朝鮮との経済交流は進めるとあり、人権問題や核問題についてのトピック以外は同時期の進歩系与党と全く変わりなかったのは明らかだった。つまり「対北協力政策はほぼ変わらない」ということは予想できた。そこで私の論は、「対日政策との絡み」という現実的に売れそうな視点を入れられなかったため(パヨクだから…反日現象を見て見ないフリしてしまった。思想は人を操る!)、「北朝鮮寄り」更には「中国寄りになっていくのかどうか」という最近流行りの地政学的視点への発展性も無く、私も研究から逃げてしまった。そのあとの保守政権は、北朝鮮との交流と、中国との関係拡大は維持しつつ、日本に対して強硬姿勢に変わって行った。現在の進歩系政権は言わずもがな。

さて、今の韓国では、『民族統一への想い』という熱きロマンのレイヤーは当然としても、概ね「保守寄り」は北朝鮮に対し強硬に出るべきだと考え、「進歩寄り」は北朝鮮と融和を図るべきと考える構図だった。だが、韓国人は『北朝鮮の脅威』というものに慣れっこになっており、経済競争で勝利した今、相手は援助が無ければ倒れる有様の国だから、ということで、「あんまり心配もしておらず、考えることも少ないが、性急な統一は不可能だから、緊張緩和は最優先でよろしく」という形に落ち着いているように見える。

『パラサイト 半地下の家族』では、突然北朝鮮のアナウンサーの口調を真似るのを見て大笑いするシーンがあった。朝鮮語が分からない日本人が観て笑っていたのとまったく同じように消費しているわけだ。同作は世界韓流ブーム決定版だったわけだが、その次に来たNetflixドラマ『愛の不時着』には、面白がりつつも、少なからぬ日本人視聴者が驚いたと思う。確かに楽観主義にも程があるだろうという展開。

荒唐無稽さが売りの韓流ドラマだからもちろん何でもアリなのだが、「対立している北朝鮮のことをこんなに呑気にほのぼの描けるものなの?」「拉致問題とか人権問題とかはいいの?」「権威主義体制を批判しないの?」などなど日本人には違和感があると思う。

「民族的悲願」は全てに優先するものではある。金大中政権の太陽政策の元では、倒れてもらっちゃ困る北朝鮮をとりあえず支援することが現実的にも必要と感じられたのだと思う。でも民族的悲願という題目は容易に現実を誤魔化してしまう。それが2000年の映画『JSA』に現れていた。

南北の軍事境界線を警備する南北の兵士が、熱いブロマンスの関係を結ぶものの、結局無残に引き裂かれてしまうという悲劇。その真実に女性(イ・ヨンエ)は触れることができないという形でブロマンスが完成されているのだが、ラストシーンに「本当ならばこうであってほしかった」写真の静止画を持ってくる。映画の中の現実と空想の境目を分からなくさせるような、この熱き想像力の洪水。南北の民族統一という悲願をベースに「空想的なフィクションに「現実」がカットインすることで生まれる悲劇のドラマ」を表現している。ここまで陶酔できるのか!

南北の刑事が協力して犯罪捜査をする映画も作られているし、私は発見できていないが、そろそろ脱北者として韓国にやってきた子供世代が親になるはずなので、定着後の脱北者のことも映画になるかもしれない。

※脱北する様子を取り上げた映画はある。未見だけど『クロッシング』。ただこの辺の話はあんまり今の韓国映画界がやりたくないんじゃないかな、という気はする。

ちなみに今や話題にすらしづらくなった故キムギドクは、北朝鮮に来た北朝鮮人を描いた映画を制作・脚本執筆している。一本は『レッドファミリー』で、私も観た。

もう一本は未見の『プンサンケ』。

さてようやく本題。最近借りた韓国の書籍、ハン・ソンウ、ソル・ソンア著『文化語授業 次世代のための今の北韓の言葉、北韓の生活案内書』(オクロス出版グループ、2019年)(한성우, 설송아 지음 "문화어 수업 다음 세대를 위한 요즘 북한 말, 북한 삶 안내서" 어크로스출판그룹)は、『愛の不時着』に先んじて、「北朝鮮にも同じ民族の生活があるんだよおお」と考えたい気持ちが爆発する韓国人らしい大風呂敷作品である。そうであるが故に、日本人には若干ついていけない。

『愛の不時着』でもしばしばキャプション付きで紹介されていたように、南北の言葉は元々一つの言語ではあるが、それぞれの地域の方言の差異と、体制の差異、仲良くしている国々の違い等から、語彙における差異がみられる。これを韓国では「異質化」と呼び、一定の関心を呼んでいる。

この本を読んでいて面白いと感じたのは、少なからぬ日本語語彙(日本統治時代に入り込んだ語彙)が北朝鮮に残っていること。例えば、下着のパンツのことを北では「パンツ(빤쯔)」と日本語に近く発音する一方、韓国では「ペンティ(팬티)」と言う。日本語だと「パンティ」は「パンツ」とは、同類だが違うものを指す位相語の関係にある。北朝鮮の場合、新しいものと語彙が在日の家族経由で日本から入って来た経緯があるため、当局の喧伝とは違って、継続的に日本語から語彙が流入していたとみられる。私が昔雑誌で調べた限りでも、1960年代と2000年代の雑誌では、北朝鮮で「バイバイ」という別れの挨拶が使われていることが確認できている。

何となく、戦中日本なら「敵性語彙を禁ずる」というのを厳格にやりそうだが、北朝鮮の外に対する宣伝と実状が若干乖離しているのは「やっぱりね」という気がする。厳しい体制であることは、今度公開される映画『トゥルーノース』でも明らかなのだが、一方でよく見ると「お目こぼし」がそこらじゅうで行われている社会であることもはっきり捉えている映画である。


余談だが、本作は苦しい程に収容所のことを描いているし、北朝鮮製の衣服がどうやって作られるのかも描かれている。だが本作が日本とインドネシアであって韓国製でないことは無視できない。尚、韓国ではプチョン映画祭で受賞した作品であるわりに、あまり話題になっておらず、特に、進歩系の『ハンギョレ新聞』は、プチョン映画祭での受賞を小さく報じただけで、保守系メディアの『朝鮮日報』とは扱いが段違いである。

この記事から『トゥルーノース 트루 노스』を探すのも一苦労。

南北の言語の最も大きい違いとしては、表記法の違いに起因する発音上の差異が指摘されている。「労働」は韓国語では「ノドン」と発音するが、北朝鮮では表記法に引っ張られだんだん発音が変わって「ロドン」と言うようになった。その表記法から来る発音の違いについて筆者は「北の方法は人為的に作られた表記法に引っ張られたものであり、韓国の方は自然にできたものを反映しているのだから、南の方がいい」と譲らない。語彙については「正しい・間違っているという判断はやめて、お互いの言葉を発見しあいながらいけばいいよね~」とずい分融和的なのに。著書にもあった通り、北朝鮮の若い世代にとっては現状が「自然」なのだが。

他にも夫婦関係についての言及等に、どことなく「昔懐かしい韓国」を読み込んでいるようにも見え、『愛の不時着』に似ている。日本で言えば、韓国版『三丁目の夕日』感が否めない。

同著及び『愛の不時着』『トゥルーノース』でも明らかなのだが、中国経由で韓国のドラマ・音楽の類が北朝鮮の一部に入り込んでいる。まるで東ドイツ国民がパラボラアンテナで西ドイツのテレビを見ていたような感じだ…80年代を知っている人ならそう思うだろう。これは今後どうなるか。そもそもドイツ人にとっての統一とは何だったのか?という点にすら、類似性を指摘することが躊躇われるが、「北の若者も同じ南のポップ歌手に夢中だ」と無邪気に喜んでしまえない『トゥルーノース』の方が、日本人の心情に近いかもしれない。

同著及び『愛の…』に関し、日本人が最も違和感を覚えるのは、「北朝鮮の体制はおっかない」という現実を何となく避けているように見えることだろう。同著では本気で無視しており、「北朝鮮の人はこんな感じで暮らしているんだよ」とだけ説明している。食糧難やエネルギー危機等が体制によってもたらされている(グローバル化を拒否し抵抗するとどうなるか、ベネズエラと同国はいい勝負だ)ことを描かない。階層によって配給されるものが違うことは指摘しているが、何とも呑気だ。『愛の…』の主人公たちの危機は、あの権威主義的体制を前提にした特権階級の「お目こぼし」システムによってのみ回避されるのであって、その体制自体は全く批判していない。日本で言えば水戸黄門や暴れん坊将軍と同じである。ただ描く対象が実在するという意味では、その意義が全く違ってくると思う。あれ程人権のために戦ってきた韓国の文化人が、こと北朝鮮に対しては歯切れが悪い。同じ民族だから、では済まされないと思うのだが、ここが、もう一つの分断国家、台湾中国の関係とは異質であり、日本人からすると割り切れない部分だと思う。

同著で、金正恩委員長の発音が、厳密には北朝鮮の標準的な発音からは外れている点が指摘される下りがある。それを聞いた北の学者は「なぜ他国の指導者の言葉を聞くのか?南に戻って問題にならないか?」と問う。筆者は「他国の言葉ではなく、我々の言葉だからです」と話を大きく広げ、相手と同じ土俵において相手の言葉に勝つ。この乗り越え方!韓国らしいなあと思う。大きく出た方が対話においては勝つのである。同作は完全なるフィクションであることが最初に宣言されているが、北朝鮮にもおそらくあの話法は通じるのではあるまいか。

『愛の不時着』は、この「大きく大きく乗り越える」話法の勝利ではないかと思う。日本人なら気がつく様々な細かいところは、もちろん韓国人も気がつくはずだが、フィクションの中では都合よくミュートして、「いいとこ取り」ができてしまうのだろう。

北朝鮮は今のところ、グローバル化に対してはアンチの姿勢を崩していない。むしろハッカー集団によって、グローバル化の基盤を攻撃し、力を誇示することの方が好きなようだ。

新自由主義を苛烈に内面化し、国内の社会問題、現代史、格差拡大、果ては北朝鮮との関係さえも貪欲かつ節操なくエンタメとして活用しながら、世界化=グローバル化において勝ち組を目指す韓国と、グローバル化に表面上反抗しつつ、金正恩委員長が今までにない指導者像を打ち出し、生き残りを探る北朝鮮。『愛の不時着』は分断の悲劇ものというよりは、分断という現実さえも逞しくネタにする韓国人のタフさと大らかさと、どうしても抜けない権威主義志向が作り上げた美しい虚構だ。とても魅惑的でうっかり現実を忘れてしまう。韓国映画の社会批判力は疑いもなく鋭いが、その韓国映画界さえも描こうとしないところに、タブーと限界と本音が隠れているのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?