薬物と映画②

さて、第2回目はいよいよ薬物大国アメリカ。とは言え、「アメリカ映画で薬物がどう描かれてきたか」というテーマだけですごい量を見なきゃいけない。例えば明るいドラッグ天国、ヒッピーの時代にはどう描かれていたのか。LSDで新しい感覚を得て(覚醒)、それによって世界が平和になると割とマジで信じてた若者たちの世代。そこが感覚的に全然分からない(「ヘアー」というミュージカルを観たいなと思ってるんだけど)。
次に、ベトナム戦争後~80年代の映画にはドラッグが悪魔のようなイメージで描かれていたと思われる…が、あの時代のそういう感じの映画をことごとく観ていないので、はっきり分からない。でもその系譜は恐らく「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000年)で終っているように思う。そう思ってたら理由が分かった。同作原作『夢へのレクイエム』は1978年に書かれており、内容はダイエット薬とヘロインの話で、当然ダウナーな話。つまり、80年代的闇を引きずっていた映画であったが故に、コカイン的なアッパーな明るさが無いの。ほぼ同じ時期に公開された「トラフィック」(1999年)は、麻薬戦争(つまりコカインカルテルを潰すためのアメリカ政府の一連の取り組み)を指揮する人物の娘がドラッグ中毒になってしまうという闇、そしてからっからに乾いたメキシコの映像が対比されつつ、最後には希望が描かれていた。

でも実質的にこの2本以降、ハリウッドはこの方向性に突っ込むのを止めた。


今年になり、ドラッグ中毒になった子供と親の映画が次々に日本公開(「ベン・イズ・バック」「ビューティフル・ボーイ」。未見なのが残念)されているみたいなんだけど、家族の痛みと再生の問題のように思われる。例えば「ある少年の告白」(2018年・これも未見。早く見たい)のような同性愛矯正施設を背景に家族の問題を描いた映画と一脈通じてそうなのね。そうならば、①我が子のことが全然分かんない親の苦悩(「カムガール」「Search/サーチ」「ヘレディタリー 継承」(どれも2018年))の系譜とも近い。他には、②親や社会を見限った青少年が窃盗してしっぺ返し喰らう系(「ドント・ブリーズ」(2016年)、「NO EXIT/ノー・イグジット」(2015年)、「We are your friends」(2014年)等。うまく行くとエミネム主演の「8マイル」(2002年)みたいになるのかな)、③アメリカン・ソフトヤンキー映画(笑)「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(2016年)の系譜として消費されることを意図された映画かもしれない。「スリー・ビルボード」(2017年)のような④田舎の貧困白人女性の暴走の系譜(ヒルビリー白人が麻薬生産をやる「ウィンターズ・ボーン」(2010年)も入れるべき?)とはどういう関係なのか。

Wikiで見る限り、「ベン・イズ・バック」「ビューティフル・ボーイ」の記述には「ドラッグ」とは記述があるけどコカインとは書いていない。私の観察では、ここ数年、ドラッグ(コカインかどうかは忘れた)の吸い過ぎで若者が死ぬことを「痛み」として描いた映画は、青春映画「We are your friends」くらいのもの。この作品は欧州何カ国かとアメリカ合作映画のため、厳密にハリウッド映画と言っていいのか分からない。

※処方薬の中毒に関しては「ザ・ギフト」(2015年)の中で、主人公の妻が過去にそれになっていたことを主人公の夫(ジェイソン・ベイトマンの嫌な男演技が光る!)が詰るシーンがあり。

2000年代以降のハリウッド映画では、かなり多くの作品でコカインを快楽やパーティの道具として描いており、数えることすら難しい。次の4作品を比較すれば大体その変化が分かる:「トラフィック」(1999年)、「ボーダーライン」(2015年)、「バリー・シール/アメリカをはめた男」(2017年)、「運び屋」(2018年)。見るべきポイントは、①コカインの消費者を描いているか、②物語の中で誰が悪役なのか、③物語はどこで泣かせようとしているか(つまり誰を免罪したいのか)。結論を申し上げると、①消費者の苦痛を描かなくなってきた、②メキシコのギャングの恐怖に映画の照準が合っている、③アメリカに住む人は悪くない(どうかすれば運び屋やってうまいこと儲けたりする)。私は、これはオバマ期の間に一気に進んだ傾向と見ている。次のトランプ政権は、メキシコとアメリカの間に壁を作ろうと言っており、それにハリウッドはじめリベラル側が反発している、という構図がある。でも、その実メキシコでコカインのギャングが成長した原因を作ったのは、レーガン政権がコロンビア・カルテルを潰したことと、にも拘らずアメリカの消費者が一向にコカインを止めなかったこと。昨今のハリウッド映画には、「コカインの大消費地」としての自覚が完全に欠落している。

ハリウッド映画の中で「パルプフィクション」(1994年)のようにコカインを面白おかしく描いており、パーティの場面でコカイン摂取のシーンが大っぴらに、「楽しい」文脈で使われている間は、今のまま続くのだと思う。何ならトランプ政権がメキシコ国境を封鎖すればするほど(変な言い方だが)、ハリウッドは、①トランプ叩きができて、②コカインは使用し、③メキシコは危ない場所だと描いて責任転嫁し、④逆説的に、アメリカとメキシコを分離させるイメージの映画を量産することになる。実際のところ中米がひどい状態(それも過去のアメリカの中米政策抜きには考えられないと思うけどね:「コマンド―」(1984年)、「サルバドル」(1986年)参照)なので、人々が北米を目指しているという状況は、アメリカ国籍を持つ移民者にとっては脅威になる。「運び屋」はかなり露骨に「メキシコのメキシコ人」と「アメリカのヒスパニック」は違うんですよ~(後者は迷惑してますよ~)という描写をしていた(ヒスパニック系男性の誤認捜査のシーンを観よ)。ハリウッドは、反リベラルのイーストウッド映画が煙たいからあの映画を無視したけど、あの映画程、今のハリウッドの本音を出した映画も無い。そして、イーストウッドですらコカインの消費者を描かず、悪役はメキシコギャング、自分は贖罪する善人として描いてしまった。メキシコギャングとちょっと仲良くなるのに、結局あちらは離れて行った、という描き方をしていたからね。


ハリウッド映画において、ドラッグを流通させるギャングの国と、大消費国が分断されているという点は強調しておいていいと思う。ハリウッド映画が、ハリウッドに来た「いいメキシコ人」を重宝がっている一方(過去10年の間にオスカーを受賞したメキシコ人監督の数や作品の数を数えよ)で、メキシコは危ないギャングの国だとも描き続けている。そこにこそ、トランプ政権が言う意味での「壁」が既にできあがっているという意味ではあるまいか。

薬物の問題は、健康被害の有無という脈絡の他に、暴力と破壊が絡んでくるという問題が付きまとう。それ位人々は欲しているのであるし、同時に恐るべき嗜好品なのだ。


さて、次回は、急速な経済発展と一緒にドラッグが広まっているのではないかと思われるインド映画を取り上げるわよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?