見出し画像

竹美映画評55 太陽族は今も健在 『あのこは貴族』(2021年、日本)

日本映画は、コロナ禍を境にちょっと変わってきているんじゃないかと言われてない?勝手にそんな気がしている。コロナ禍という日本人全員が共通して直面している困難を前に何かが変わろうとしているような。自国の深い闇と格闘する映画は大体面白いのだが、遂に日本のメジャー作品もそこにアクセスせざるを得なくなっているのかも。

本作『あのこは貴族』はTwitterでの評判が良かったので気になっていた。今回、日本映画祭オンライン2022の企画で、ここインドで無料視聴することができた。

何とありがたい!

さて本作。東京の由緒正しい、大病院を経営する一族に生まれ育った華子は、後継ぎの男を求めていた。幸一郎という名家の息子を紹介され、やがて婚約。他方、幸一郎には、恋人未満の関係の女性、美紀がいた。美紀は富山出身、せっかく慶応大に合格したのに実家の経済事情で渋々中退し、その後ずっと働いている。出会うはずのなかった二人が出会ったとき、華子の人生が大きく変わり始める。

今20代の日本人女性の結婚願望は意外に強いらしいと、いろいろなところから聞いていたが、それを裏付けるかのような作品。ただし、これは上流階級、つまりは太陽族の末裔たちの物語である。

面白いことに、主人公華子の内面や願望、自分の意思というものは、驚くほど出てこない。何でも持っているようで何一つ自分のものを持っていない、まっさらのキャンバスみたいな…つまり彼女自身を彩っていたのはいつも周りだったのだ…華子には妙にリアリティがある。そういうとき、軽い違和感を追求するより、順応することで気安さを得るのが普通だと思う。基本は楽したいのが人間だ。そこで、政治家を輩出するような、更に上の階層の長男と結婚し、初めて目が覚めるが、その自覚も緩慢である。私はこういうことがしたいわけじゃないらしい…という程度。その遅さにリアリティがある。恵まれているとはそういうことだ。私はそうだったからね。

対する美紀は、常に自分の意思を以て人生を生き、自分のしたいことと自分の身の丈が分かっている。せっかく都会に出てきたのに望まぬ形で大学を中退、ホステスの仕事を経て次の仕事を手にした苦労人だ。一方で、自分自身を経営することに満足を得ている上、家族との関係も別に悪くない。だから誰に対してもフラットに接することができる女性に成長した。実際には、家族から逃げるために上京するケースも多く、上京してからも家族の問題で葛藤する人もたくさんいるが、彼女は背負っている呪いが少ない。これポイントね。しかも見た目が水原希子さんだからなぁ…。実際は、背負ってきた呪いが生み出す嫉妬や幻想や何やらで関係がぐちゃぐちゃになるのが20代だ。下手すると一生それに苦しめられることになる。

美紀は「地元の同窓会」に行くと話す相手がいない…地元で楽しそうにしている同級生たちというのは、昔からずっと同じで、自分自身に満足して幸せそうだ(高校時代までに学校が楽しいと思ったことが一度も無い地元民は、理由なく同窓会なんかに行かない)。彼らはそもそも自分とは何なのかと疑わない。覚えてもない同級生男に一晩だけの情事を持ち掛けられげんなりする美紀。会場BGMに浜崎あゆみの歌が流れるのがお見事だ。帰省した美紀の目を通して、シャッターを下ろした商店街の寂しさも映し出しているものの、地元ではそれなりの人生があるのだ。ごく一部かもしれんが…

疑念を言語化するに至っていない華子を前にした美紀のセリフが心に沁みる。監督さんからの人生アドバイスだと思った。「私の地元なんて、親のたどった後をトレースする人ばっかり。私の地元も、あなたの世界も似ているね」(逆の立場からは言われたくないセリフ)「最高の日も、泣きたい日もあるけど、それを話して聞いてもらえる相手がいればいい。恋人でも友達でも」(ってなことを言った記憶)。美紀は若いうちに色々なモノを見てしまったんだろうな…。ばらばらで取り留めのない美紀の言葉が華子に言語を与えることになる。人は出会いによって変わることができるという優しさが心に沁みた。他者に、社会に希望を持っている映画である。

幸一郎は、名家出身の慶応ボーイにありがちなのかもしれないが、自我というものがほとんどない。そこがNYみたいな超ストレス下のエグゼクティブ生活みたいな条件だと『アメリカン・サイコ』になってしまうのだろう。

一方日本は、そこまでストレスが厳しくないのだろう。

一方、階級は存在する。今それを我々はまざまざと思い出している。木下恵介が嫌った「太陽族」=慶応ボーイ君のような、自我が無く、その場その場の欲望だけで生きていても困らない階層(の男子)はずっと日本の上の方にでんと構えてきた。変わっていない。平成時代、我々は「一億総中流」という昭和後期の価値観を一旦真実だと思い込んだものの、既に信じてはいまい。そこへ来てコロナ禍だ。一方、「我々は同じ階層であるはずだ」という平成の虚構もまだ強力だ。美紀が、学生時代にお金持ちの子たちと一緒に間違って行ってしまった高級ホテルのラウンジの五千円のアフターヌーンティーを「そんなこともあったねーあははー」と笑い飛ばせる程度には、日本の「貴族」と平民の距離は近い。

生々しくて暗く悲しい気持ちになる映画か、本気で現実を無視した青春同調映画か、或いは高校生くらいで精神の成長が止まった映画(そしてアニメ。アニメは結構いい)というのが、ここ10年くらいの日本映画に対する印象だったが、本作は珍しく前向きな励ましの物語だ。自分が大事にしたい夢を見つけ、追いかけることによって東京は光り輝き、幻の一部を本物に変えることができる。それを信じられるかどうか…でも、私はあんまり信じてない。また、多くの観客は、本作に「自分」を見出すことが難しいかも。だって呪いが少なくて体力があって頑張れる人達のお話だから。「搾取」されてもやり返したり、それを踏み台にさらに高く飛び出せる人達は本当にロールモデルたりえるのか。そこが誠に厳しいッ。

高校で精神の成長が止まったような男子たちが友達の名を叫ぶような日本映画を前に、女子の人生がいかに大変かと分かっている作り手が、一気にジャンプする未来があると映画で伝えている。が、「頑張れない」「体力がない」「うまく立ち回れない」人々に、社会は何も用意してないんだよッ!!

「あのこは貴族」とはそういう意味なのかもしれない。

あーこれがあれか。映画の描き方や絵(シニフィアン)は好きだが、伝えている内容(シニフィエ)にはあまり共感しないってやつかもしれない。いい映画よ。光の映画。もうすぐ公開の『ある職場』は、同じ年の東京国際映画祭で公開された、言わば影の映画。でも、本作が投げかける光を浴び、自分の後ろにできる影の深さに怯える人にとって、光とは何なのだろう…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?