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竹美映画評98 加害性と悲劇性が交差する 『スケアリー・アパートメント』(”Malasaña 32”、2020年、スペイン)

本当に映画を観る体力すら落ちて来ている気がする。ものすごく暑い。

とは言えなんか見ようと思ってスペイン・ホラーの『スケアリー・アパートメント』を観た。前半は、どこかで観たような気がする描写の畳みかけをスペインホラーらしい「影」で表現していて、まあまあかなと思っていたが、後半、怪異の正体が分かってからの流れは、2024年の今、全く違う地平も見えて来て奇妙な感動と困惑が残った。

あらすじ:
1976年。農村から都市マドリードのアパートに引っ越してきた一家。慣れない都会生活とある事情からギクシャクしている一家に、妖婆の姿をした怪異の影が忍び寄り、末の息子ラファエルが失踪。一方兄のペペは隣の部屋に住む女性クララから「ラファエルの居場所を知っている」と言われ地下室へ呼び出されるも不気味な体験をする。やがてラファエルは見つかるが、妖婆は次に長女アンパロを狙いを定めていたのだった。

「間違っていたあの時代」の面影

本作は、「間違っていたあの時代」を回顧する作品群に属すると思われる。戦後日本なら戦前・戦中の描写がそれに該当するし、スペインの場合は、反共で独裁的なフランコ政権の時代(1936年~1975年)、韓国なら民主化前や日本統治時代だろう。

スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルは『バチ当たり修道院の最期』(1983年)で、フランコ政権終了直後の地味で薄暗く、垢抜けないマドリードを背景に、セリフで「やっと終わった」というようなことを言わせている(と評されていると記憶しているのだが出典を忘れてしまった)。日本でも有名ななビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』(1973年)は農村の影を映し出す。スペインは薄暗かったのだ。本作の舞台は1976年、フランコ政権終焉の直後である。この後から急激にスペインは明るくなっていく。

21世紀、2004年サパテロ政権(左翼)の時代、欧州では同性婚をかなり早期に成立させた国として知られる。また昨年には16歳以上の性別移行を合法化したと報じられた。今や進歩主義的な国である。

本作は、そんな現在の「ノーマリティ=超進歩的なスペイン」が「間違っていた時代」を否定的に描くことはある意味当然である。では、何が「間違っていた時代」に「犠牲」になったのだろうか。

倫理違反の一家に襲い掛かる怪異って状況がひどい

ところで、主人公一家、特に夫婦は「倫理的な咎」があって地元の村から逃げて来た。更に長女アンパロにも別の「倫理的な咎」が発覚する。カソリック的保守主義(つまりはアレハンドロ・アメナバル監督がひどく批判しそうなこと)の中の「ダメそうなこと」を作中で確認いただきたい。

地縁や親類からの助けを全く期待できない状況に追い込まれるのもやむを得ない。当時はそうだった、とこの映画は描いている。

母親は、故郷の村でしでかしたことへの罪悪感と地元を離れた苦労で既に疲弊し、故郷に帰りたがる。実はその願いは最後最も意外だが、納得できる形で実現する…それを母が祈り続けていたのだとしたら彼女の内面の方がずっとホラーかもしれない。

家の怪異のせいで仕事に出られなかったり結果が出なかったりすると、仕事を紹介してくれた地元出身の同僚に「無理して紹介してあげた仕事なのに」「あんたはこれだから…」と過去のこと引っ張り出して責められちゃう。

実は子供たちにとっては養父である父親、「何とかなる」と自分にも皆にも言い聞かせるのだが、目の前の問題にうまく対処できない。

尚、両親もアンパロの兄ぺぺもアパートの借金のため働かねばならない。また親類縁者の助けから断絶されているため、アンパロは幼いラファエルや認知症気味の祖父の世話をせねばならず、「ヤングケアラー」となり、CAになる自分の夢を捨てる未来もちらつく。また、彼女自身自覚していなかったあることにより(後述)、アパートに棲む怪異からも狙われてしまう。

怪異のせいでアパートに住めなくなり、仕事にも行けなくてクビになるなど、金銭的にも追い込まれる様子がたまらなくつらい!怪異よ、狙うならお金持ちにしてくれ!アメリカ映画なら描かないであろう、生活苦の様子がたまらなく嫌。スペインのホラーは闇が濃い。

そんなどん詰まりのような一家に手を差し伸べたのは、全身麻痺で車いすに乗った霊媒ロラとその母親だった。

妖婆の正体(ネタバレ)

ここまでは平凡だった本作が面白くなるのは長女がアパートの前の住民のことを調べ始めてから。ホラー映画はミステリー小説の要素がある方が面白いが、明らかになった事実が相当な衝撃が無いと酷評される。本作の秘密はどうだろう。ここで賛否が分かれると思うし、私は結構悩んでしまった。

家に残されていた名前と電話番号のメモから老婆スサナの家を訪ねていくアンパロ。そこで、妖婆の正体はスサナの兄弟ミゲルであり、クララとは、女として振る舞いたがったミゲルが名乗っていた女の名前だったことがスサナの口から憎々しく語られる。

彼女(彼)は女装をし、女として振る舞いがったことで家では迫害され、結局アパートに一人残されて亡くなったのだった。母親になりたいという願望を持ったまま死んだクララは怨霊となり、最初は次男、次は、長女が身ごもっている赤子(婚前交渉かつ10代の妊娠)を狙っていたのである。

本作、クィアな欲望を扱ったホラーだった上に、クィア当事者が死後怪異=モンスターになったと語る映画なのだ。

さて、ポリコレ時代を経てLGBT∞闘争を目撃している皆さんは、これをどう解釈するだろうか。

私の中には2つ対立意見が出て来た。

①クララは「間違っていたあの時代」の犠牲者として哀悼される必要がある。スサナとその家族には同情できない。
②男の身体を受け入れないばかりか死後も「女≒母親」のタイトルに固執したクララは本当のモンスターだ。

私は上記で、「女のふるまいをしたがった」と表記した。これは私の中で新しいバイアスが生まれたことを意味するとも思うが、クララ当人が自分をどう思っていたのかが描かれないため、そう表現する方がいいのではとも思う。非常にセンシティブなことだが。

実際のところ、他人の子供を自分のものにすることで母親≒女になろうとする女装男性という表象は、現実のLGBT∞闘争のどの陣営にとっても最悪のモンスターに見える。

性自認中心的な仕組みの確立が進んでいる進歩主義スペインにおいては、もう言わずもがなというか、この人が性別違和を持っていたかどうかすら分からないことに対しても突っ込む意味は無いのかもしれない。

そんな現代スペインにおいて「生前欲望を抑圧されたクィアな人が寂しく非業の死を遂げた挙句に怨霊となって社会に害を及ぼす」という物語はどう受け止められるのだろう。

悲劇性と加害性が天秤にかけられてしまうクィア・ホラー

スペイン程の自由放任を体験していない私にとっては本作のスタンスが分かりにくい。クララは自分の家族にとっては恥をばら撒くトラウマ的な「モンスター」であり続けたのだろう。一方で、映画冒頭で、生前クララがアパートの子供達から気味悪がられていた描写は出て来るが、クララが生前周囲の社会とどういう軋轢を生んでいたかははっきり描いていない

他方で、スペイン語圏ホラーのモンスターはいつもどことなく、各々の過去のトラウマや悲劇性ややるせなさを感じさせるところがある。米ホラーのように明快にモンスターを断罪しにくくなっている。

クララが実際に子供を攫って来たり危害を加える加害者だったのなら(『エルム街の悪夢』リメイクのフレディがはっきりそうだったように)社会秩序のために犠牲になっていただくしかないのではないか。そこが描かれていない。そのため、断罪に一抹の悲しみが漂う。嗚呼、死んでも欲望を抑圧され続けるのだなァと私の一部は同情した。

生前:家族にとってはモンスター、社会にとっては不明
死後:家族にとっては相変わらずモンスター、社会にとってもモンスター

生前、クララが社会にとって実際どういう存在だったのか、というポイントをなぜ描かなかったのだろう。欲望を抑圧されて非業の死を遂げた怨霊の無念さの方に着地したらいいのだろうか?

クララの加害性と悲劇性の二つが載った天秤を眺めたまま困惑してしまった私。それはつまり、LGBT∞の現状についての私のスタンスそのまんまなのだと思う。

ところで『羊たちの沈黙』は、殺人鬼の動機にクィア男性の性別転換の欲望を重ねた点において米国では批判されたわけだが、それから30年以上過ぎた今、本作のような映画はどう批判できるだろうか。

もう少し時代が進んだら、本作のようなモンスターの加害性と悲劇性を天秤にかけ、加害性の方を重視することが標準的な世の中になるかもしれない。生前のクララの加害性をはっきり描くだろう(しつこいが『エルム街の悪夢』リメイクはそこに躊躇いが無い)。

クララの悲劇性が成り立たなくなる未来の兆しが自由なスペインにおいて既に出始めている気がして、どっと疲れが出た。

ちなみに、『RAW 少女のめざめ』同様、「自分の欲望と社会が正面衝突しちゃう」話なのに、子供が戦場になっているLGBT∞闘争の中の応酬を見ていると、「子ども絡みの罪は人食いの罪より軽いのだ」という気がしてきて奇妙だ。

蛇足:「彼らは変化を恐れている」=物語のカルト化

話は変わって、本作を観る少し前、以下のインフルエンサーのいささか芝居がかった発言を「年少者へのグルーミング」として憎悪乃至恐怖している投稿を読んだ。

私もハッとさせられた。なぜなら私も既にこれが「何か怖い」ものに見え始めているからだった。悲劇性より加害性を読み込んでいるのは私の方であろう。

皆さんが自分自身であろうとする権利を奪いたがっているこういう人達(政治家たちのこと)は、おそろしいですよね。私も怖いです。怖くないと言ったらうそになる。でも、皆さんの自分自身であろうとする権利を奪いたがっている理由は、あの人達も怖いからです。皆さんの喜び、自己受容、そして美しさを脅威と見なしているんです。

上記Jeffry Marshの発言より。

「自分自身であろうとする権利」とはここでは主に性別変更を意味している(多分だが、もはやゲイ・レズビアン・バイセクシャルというのは既に時代遅れなのだ)。

この人から発せられる「自分自身であろうとする権利」という言葉は、私の中で一巡して「身体と性別を否定すること」という意味に感じられる。フェミニンな男、じゃもうダメらしい。

また、この人が他に主張している「彼らは我々が世界を変えることを恐れている」という進歩主義はもう私には虚構だと感じられる。

私は思うのだが…「彼ら」は恐れてなんかいない。むしろ多くの大人は、ついていけもしない進歩主義に巻き込まれて自分を見失う若者たち心配しているのだ。また、実際のところ、このインフルエンサーの支持する「変異した後の世界」が却って「自分自身であろうとする権利」そのものを揺るがす可能性の方が恐ろしい。

今「彼ら」の声は、元々LGBT∞に反発していたり同意していなかった人たちの声も重なって騒々しい多声音楽を奏でている。それが毎日毎日ツイッターに響き渡っているんだから、元々LGBTを支持していたゲイである私にはひどくつらい。と同時に上記インフルエンサー側の意見も先鋭化し、現状を「ヘイトに満ちている」と評し、発信を続けることになる。内に籠りカルト化するわけだ。

以前は、私だって、この「マジョリティ=彼らは本当はマイノリティ=我々が世界を変えることを恐れているのだ」という少数派エンパワーメントの物語を支持していた。ライカアニメの『パラノーマン』、ディズニーの『ズートピア』『ウィッシュ』に至るまでにはっきりと刻印されているこの物語には、真理があるとは思う。

しかしながらその物語の急速な思想教化能力=カルト化を目撃してしまったため、もうこの物語を信じることはできない。

今回のような映画を観ると、自分のスタンス…つまり「彼らでいること」をはっきり選びきれてない自分に疲労を覚える。またしても思想転向の真っただ中に戻されてしまった。

奇しくも昨日は東京プライドパレードだった。私としてはそこを歩きたかった。LGBT∞の今を見ずして何を言えるだろうか。

結局、考える自分が好きなのだと思う。

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