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ごめんね、二丁目(伏見憲明『新宿二丁目』)

私が初めて二丁目に行ったのは1999年の12月だったと思う。当時付き合っていた人と一緒にちょっと寄ってみたのだ。

私達は当時茨城県つくば市に住んでいた。彼氏と同居、うちは友達の溜まり場みたいになっていた。また、地元のゲイの友達繋がりがあり、二丁目に行く必要は無かった。そのあと一人で行ったのは、2003年春の大学生ナイトかな…既に私は大学院修士終わってたんだけどさ!バブリーナさんが藤本美貴の「ロマンティック浮かれモード」のリップシンクをしており、二丁目って面白いなぁと思ったものよ。

それから月日は流れて十六年後。彼氏と同居➕お金が無いという理由により、二丁目から少し足が遠のいている。そんな二丁目はどうやって出来上がってきたか…伏見憲明さん著「新宿二丁目」を読んだ。著者には個人的に、映画評を書かせていただくという一生ものの宝になるようなチャンスをいただきお世話になっている。

同書は、新宿という、雑多なものを受け入れて住まわせてしまう何でもありな空間のひとつとして、「ゲイタウン」二丁目が成立したのではないか…というのをさまざまな資料を元に検証している。ゲイの当事者だから余計にそう思うのかもしれないけど、面白くて一気読みした。

場所の記憶…場所のセンスと言うらしいんだけど、その土地に人々が持つ一定のイメージや記憶が二丁目を出現させたって言うのね。

私が馴染んだ時代には、二丁目は既に明るい街になっていた。私の友達で、もう亡くなったんだけど、バブル期の二丁目で若者時代を過ごしてそのまんま時が止まってしまったような人がいたんだけども、彼の破茶滅茶な言動の中に脈々と流れる一種の義理堅さから、うっすら昔の二丁目を想像したりしていた。

私は新宿二丁目から三丁目に移動したゲイバーで、一年ほどバイトをさせてもらったことがある。いわゆる、ミセコってやつね。韓国で二年の仕事を終えて大学院に再入院というか、社会から逃げた頭でっかちの若造だった私にとっては、様々な世代のゲイが元気に人生を謳歌するリアリズムが一種の薬になった。その後大学院を脱走して東京で働き始めた私にとってはあれが良かったのだと思う。そしてその中で、ゲイ特有の残念さも知り、そうした残念さの全てが自分の中にあるということも渋々認めていく。特にアルコールの問題は。その勉強は今も続いている。

さて、最近の二丁目は、特に平成不況とインターネットとスマフォの普及を受けて変わってきたと言われる。お金が無い、二丁目行かなくても友達や恋人やセックスの相手を見つけられるようになった…というようなことから二丁目にくるゲイが減ってきていると。街も開放的になってきて、オープンスペースで飲んでいる人をたくさん目にするようになった…と言うか、私にとってはその二丁目しか知らないので、同書の中で、そうではなかった時代…路上はひっそりとして、お店の中は賑わう、という状況はあんまりピンと来ない。少しだけ足の遠のいた首都圏のゲイに代わって二丁目で顕著に増えたのは、女性客、外国人観光客、そして女性客を同伴するストレートの男性客といわれる。

私が外国人好きなせいもあって、そちらに目が行くのかもしれないけど、明らかに外国人は増えたし、去年はつまみ食いを専門にしても全く不自由しない有様だった。様々な国のゲイと一晩だけ出会ってたくさん話したね。

それから、新しいトレンドとしてゲイのお客さんとストレートの男性客とのトラブルが起きたりというのも聴く。

私は女性客が揉めているのはあんまり観たことが無いが、彼女達にとって、ストレートの男性から隔離されて気楽に酒場の雰囲気を楽しめる場所ではなくなりつつある。

二丁目を開放的…というか乱雑な街に演出している主役は誰なのか。それは二丁目のコンビニでお酒を買って路上で話し込む人々である。もはやコンビニ側も諦めたのか、トイレを開放し、ゴミ箱を外に置いている。随分揉めただろうと思う。でも仕方ない。人は来るからね。これって数年前に議論になった、「二丁目でブルーシート敷いて宴会する若者達」が少し控えめに定着したのだと思う。

二丁目ブルーシート問題が出た時、私は、「気持ちは分かるけど、そこでやんなくてもいいのにね」と思った。ところが!この私がビール缶片手にポテチ食いながら二丁目を歩いてしまう層になってしまった!!…本当にごめん!でも去年は収入の四分の一位を二丁目に投下したから許しておくれ。そして、路上で飲むとは言え、お店にも入って飲んでいるのよ!!!

最近彼氏と歩きながら路上飲みをやるようになったが、路上で飲んでいるのは外国人も混ざった若者グループがほとんど。私のような四十のオバジはほとんどいない。お金が無いんだろうな…あたいはそうだよ…皆…でも元気だけはあって、二丁目のあの空気を楽しみに来ているのだ。形を変えて、新宿二丁目に漂う独特の盛り場の空気…同書では淫風と書かれている…は、ちゃんと受け継がれ、必要とされているのだと思う。あの街の浮ついた空気は、アルコールとセックスを媒介に悪いものもたくさん呼んでしまうが、あの路上で飲んでる人たちと話す開放感は否定できない。知らない人に話しかけても聞いてくれることが多いので、自分の話をベラベラと話してしまう。好きな映画が同じだったりすると興奮してしまう。…私の居場所がよく分かったわ。そういうのが好きじゃない人はお店の中で楽しんでいるのだ。いい歳こいて路上で飲むなんて…というプライドが許さないのかもしれない。私?プライドが無くはないが、路上にいる人たちと話すのが面白いからやめらんないのよ。

外国人のお客さんを見ていると、観光客はお店の中にいて、日本で働くか学生をしてる若い層が路上で飲んでいるように見える。日本で働く外国人でも、所得がそれなりにある人はやはりお店に行く。

オバジのプライドがね…

お店の中でもタバコ部屋には独自の親密さがあって、やはり関係ない人とベラベラ話す人がたくさんいる。話しかけても避ける人ももちろんいるけどね。それはそっとしとけばいいのよ。

モテとか性欲の対象としての目線もバシバシあったり、嫌なものもたっぷり連れてくるから安全とは言い難い場所だが、そちらがメインでなくても充分楽しめるものが二丁目にはあるのだと思う。昔ながらの首都圏のゲイの振る舞いとはもうだいぶ違ってるんだろうけど、こうやって変わっていくものなんだね。

二丁目の淫風を手放しに肯定はしない。住民にとってはうるさいしゴミ散らかすし、いいことないだろう。私は罪滅ぼしとして、例のコンビニの前のゴミを少し拾って集めてゴミ箱に捨ててみた。そしたら、全く知らない外国人の観光客?が、少しだけゴミを拾って捨てていたのだ!いいことしたのかな!?という快感…あたしを小学生時代から駆り立て、そしてそうならない自分を苛む正義志向から来るやつだ…ゴゴゴゴゴゴ…が得られたが、同時に「いいことをしようと取り組んだのが裏目に出て人に憎まれてスネてワルになる悪役」の図が浮かんできて嫌な気分になる。あー、多分あの左翼討伐に取り組む先生がいつか私を封じ込めるダークヒーローとして立ち現れるのだろうな…世の中に必要ないのは私の方だ。路上で飲むことなんか禁止すべきなのだ。貧しいなら酒なんかにお金を使うべきではないし、遊んでいる暇など無いはず。一億総活躍社会を牽引するパソナ社の広告風に言えば、

稼いでから飲もう

である。それが正義であり、世の中の秩序と美化に貢献することなのだ。正義とはそうあるべきなのだ。

二丁目に来る人や働く人、住む人皆にとっての正義とは何だろう。二丁目が「普通のこと」の仲間入りをするにあたり、必ず問われることだと思う。二丁目独特のだらしなさが、ゲイの恥、二丁目の恥、となる日が来るのか。どうかな…その頃には私はうちで飲むお金もないかもしれない。そうなった時に、だらしない二丁目を取り戻す活動を始めないとも限らない。何と言っても私は、正義をこじらせたパヨク経由の悪役なのだから。はーっはっはっは…


びゅおおおお






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