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すべては神様から起こり神様に帰する


〜 肯定感の充満する社会を築くための鍵 〜


1) 肯定感が私たちを救う

■ 誰もがその内に”輝き”を持っている

 何人なにびともその内に、不変且つ普遍の“輝き”を持っています。これを悟ることは、誰にとっても、至上の喜びの一つです。

 自身の内にある“輝き”に気付くことで、人は矜恃や自尊心を養うことができます。これによって、他者のそれにも気付くことができ、やがて、自他の区別なく、人という存在を深く尊重する心を育めるようになります── 尊重するというのは、すなわち,(あらゆる事物を)「否定しないこと」を意味します。

■ 肯定感の充満する社会について

 この、誰にも内在する“輝き”に、私たちが例外なしに気付いたならば、人類社会は「肯定感の充満する社会」と化します。

 肯定感の充満する社会とは、皆がそれぞれありたいようにある,したいことをする、という本来的には人として当然の資格(人権)が、無条件に正しいとされたり認められたりする社会のことです。
対して、否定感が蔓延している社会は、皆それぞれの想いや存在や生活が、否定されたり抑圧されたりする社会です。

■ 人類社会が設けた基準は絶対でない

 しかし、人類社会において文明が発展するに連れ、皆ありたいようにある、したいことをすることが無条件に正しいとされるのは、困難さを増してきましたし、今なお増しつづけています。現代の人類社会を見れば、そういう社会は程遠いと言えるでしょう。このことの理由について、物事を良否を以て判断する基準が、世の中の至る所に存在しているから、と説明することはできましょう。が、だとしてもそれは、すべてが絶対でなく、人類社会が便宜的に設けてきたに過ぎない代物なのです。実は、私たちがこのことをよく知ることが、肯定感の充満する社会を築くための鍵です。

 肯定感の充満する社会を築くことは、革命的に一夜で成し遂げられることではありません。が、どのような境遇にあっても、以下に述べることを確固たることとして信ずれば、肯定感の充満する社会は、漸進的にではあっても、実現することができます。つまり、誰の内にも存在する”輝き”に例外なしに気付くことができます。

 肯定感の充満する社会は、私たちの心を力強くし、私たちに品位を備えさせます。そして、肯定感の充満する社会に生きることが、私たちにおける真の救いです


2) 神様への意識が自分のすべてを正す

■ すべては神様の働き掛けによる

 では、何を確固たることとして信ずるのか……それは、次のことです:どのような自分の行いも想いも、すべては”神様”の働き掛けによるものである、ということ。ここに述べる神様は、私たちを包むと同時に内にもあり、いっそ私たち自身が神様と同化しているといっても過言でありません。このことの意味するところは、特定の宗教で崇められる対象ではなく、およそ個性も備わっていません。

 私たち個々人は、神様それ自体(万物の源流)には決してなり得ませんが、神様を成す一部では確かにあります。このことを心から認め、積極的に、また果敢に、神様に関係しようとすること、これが正に生の真の実相なのです。

 日々の生活において、神様への意識を持つことで、生は個々人のなかで深化します。どんなに些細なことであろうと、反対に巨大なことであろうと、実質的には、神様に関与しないもの/ことはありません。神様から完全に切り離されたもの/ことは、まったく存在しないのです。

 人生において大事なことは、そのことを認めるか否かです。

 さらに、そのことが故に、端から許されないもの/ことはなく、私たちのすべての言動や思想は、如何なる場合においても、また如何なる存在によっても、一切、排除されなければならない根拠を持ち得ません。

 どのような行いや想い,出来事も神様に由来し、神様へとやがて帰着するのです── 例外はまったくありません。

■ 私たちが多様であるほど、安心感や勇気が湧いてくる

 私たちが私たちである以上、神様から逃れて/隔たれて存在することはできませんから、神様の根源を知ることは、到底叶いません。しかし、それを想像することや、さまざまな手段を通して追究することは、幾らでも可能であり、大いに自由なことです。

 どのような行いも想いも出来事も、あってならないわけはなく、寧ろ多様にあればあるほど望ましいのです。時や数と同じ様に、そこに限りはあり得ませんが、あるとしたらば、限りに至った状態が、蓋し天国ないし平和であると言えましょう。

 ただ、限りがないからといって、多様さを増大させることに意味がないとは言えません。なぜなら、端から許されないもの/ことはどこにもない、ということの実体が、多様さの増大すればするほど、強固になるからです。というのは、人としての在り方が、さまざまであればあるほど、私たちは安心や勇気を(内から)得やすくなる、ということです。

 特定の行いや想い,出来事だけが許される社会とは、持続性に乏しく非民主的で、ひどく窮屈な社会です。もし、ある行いや想い,出来事を無くそうとしたり抑えようとしたりして試みれば、却(かえ)ってそれらは、余計に現出して来ます。問題は、ある行いや想いや出来事を、無理に造ろうとしたり無くそうとしたりすることにあります。

■ 自分はことごとく神様に由来し神様へ帰着する

 自分に属する、どのもの/ことも、遍く神様に由来していますから、実は、生物として私たちが存在するのに、力などはまったく必要ありません。人生のどの場面においても、力まなくて善いのです。かといって、私たちに個性やアイデンティティが持たされていないわけでなく、寧ろそれらの多様であることこそが、神様を神様たらしめます── 生き生きとさせます

 どのような場合でも通用する策は、すべてのもの/ことを神様に委ね、明け渡すこと、もはやただそれ一つです。自分に属するもの/こと、そしてこの世のあらゆる出来事が、神様から起こり、神様に帰していきます。

■ 私たちは神様の名にあって連動している

 私たちは、一人ひとりが、どこで何をしていようと、密接に連動しています;人類社会は、動体として形成されます。言わば、すべてのもの/ことは、神様の名にあって、至極正当なのです。

 人類社会の未来は、そのことを受け入れるか否かに懸かっています。

 人類社会の未来のために、すべてのもの/ことが神様と関係していると、私たちは胸中に定める必要があります。

■ 神様について知るという恵み

 さて、こうしたことを知ること(「信仰」と換言することができます。)は、私たち皆にとって、一種の恵みであると言えます。この恵みが、今まで生きていた/きた人々や、正に今に生きている人々、そして、今から生まれてくる人々にあるよう祈ることは、私たちの覚え得る内で、これもまた至上の喜びの一つです。

 以上のことを確固たることとして信ずれば、誰の内にも存在する”輝き”に例外なしに気付くことができるのです。つまり、肯定感の充満する社会を築くことができるのです。


 さあ、私たちは今ここから、肯定感の充満する社会を築くための一歩を、踏み出して参りましょう!

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