それでいいならそうするだろう引き出しに点心梅飴ひとつ転がる

「推し」という言葉がある。


 日常の中で「竹中さんの推しは何?」と尋ねられたりして何と答えてよいか分からず戸惑ってしまった。「推し」は「ファン」とは違うのだろうか。違うのだろうなと思う。


 戦国大名で言えば、私の推しは小学生の頃から一貫して豊臣秀吉だ。人間臭さが抜きん出ているところがいいと思う。でも、私はそこまで歴史好きでもないし、日頃、秀吉を推すための活動を何らしていない。そういうのは「推し」と言ってはいけないのだろうか。


 「推し」という言葉は「ファン」より主体性が強いというか、対象がどうというより、それを「推している自己」により重きが置かれているように思う。その言葉の流行には、受け取り手が強く推せば、誰かをスターダムに押し上げられるというシステムの登場(AKBの総選挙とか)という社会的要因もあるのかと思うが、「私の意志でそれを推しているのだから、それに価値があるかどうかについて他人は口出しできない」というバリアを張っているようなニュアンスを感じてしまう。そう思うと、「多様性の時代」などと言われている現代だけど、どこかに「人と違ってはいけない」という強いプレッシャーがあって、それが「推し」というバリアを生んだのかなあと考えたりする。


 そう言えば、私には好きな言葉というのは沢山ある。「好き」も「推し」とは違うのだろうから、「推し」の言葉がある、ということにしてみよう。私の最近の推しは「五十歩百歩」だ。五十歩逃げた人が百歩逃げた人を笑って、「大差ないやん」と総突っ込みを受けるというかわいそうな言葉である。「五十歩百歩」という言葉のビジュアルや響きも可愛いと思う。かわいそうで、かわいい。アイドルになる条件を兼ね備えている。私はよく、この五十歩逃げた人のことを考える。五十歩逃げた人は自分が卑怯者だった自覚が当然あると思う。だからこそ、他人を笑わざるを得なかったのだ。惨めだし、愚かなことだ。そう思うと胸がわくわくしてくる。考えれば考えるほど背景にある物語が気にかかる。結局、私の推しは人間臭さそのものなのかもしれない。

 さらに考えていくと、私が人間臭さを推したいのは、結局自分自身を肯定したいからなのだ。つまり私の「推し」は結局私だ。そう思うと、少し恥ずかしい。


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